第9話後半 【裁判官 神保視点】
【裁判官 神保視点】
結審後、私は自室の評議室に若い二人の陪席裁判官を集め、形式的な合議を始めた。
法廷でのあの弁護士——阿久津という男の不敵な面構えが不快に脳裏に焼き付いている。あいつの顔には「地裁の判決などどうでもいい」とあからさまに書いてあった。最高裁まで持ち込むための踏み台に過ぎないと、高をくくっているのだ。
……まあ、実際その通りなのだが。
憲法判断などという大層な代物は、最高裁の裁判官たちの領分であり、いち地方裁判所のいち合議体に過ぎない我々が口を挟む領域ではない。上長からも「余計な波風を立てるな」と暗に釘を刺されている。
「弁護人の憲法論だが……まあ、『公訴権の濫用とまでは認められない』の2行で排斥でいいな」
私の問いかけに、右陪席の若い官僚裁判官が申し訳程度の頷きを返す。
「はい。地裁でわざわざ憲法判断に踏み込む必要もありませんし、判断回避が実務上最も妥当です」
合議はわずか数分で終わった。阿久津がドヤ顔で繰り出した「司法の矛盾」だの「憲法14条違反」だのは、実務の現場ではゴミ箱に放り込まれる定型文に過ぎない。
評議を終え、執務室のデスクでノートPCを開く。
「フン……地裁だからと馬鹿にしやがって」
思わず自嘲気味な吐息が漏れた。
この東京地裁で裁判長を務める私のキャリアは、おそらくここで頭打ちだ。これ以上の出世——高裁の長官や、ましてや最高裁の判事などという雲の上の座が自分に回ってこないことくらい、とっくに分かっている。どれだけ無難に件数をこなし、組織に忠実であり続けたところで、私は結局「地方裁判所の裁判官」として定年を迎えるのだ。
法学を志した若き日の野心も、正義を追い求めた青臭い情熱も、いつしか事無かれ主義の書類処理の波に呑まれて消えていた。この席こそが、私の司法人としての最初で最後のピークなのだという虚しさと悲哀が、ふとした瞬間に胸を締め付ける。
だが、あの生意気な弁護士に思惑通りの有罪判決を与えてやる一方で、この私にも裁判長としての「譲れない矜持」と「やりがい」がある。
判決言い渡しの直後、被告人に言い渡す『説諭』。
本件は連日メディアを騒がせ、世間の注目度は最高潮に達している。次回の判決公判には、テレビ局や大手新聞社の司法記者が何十人も傍聴席に押し寄せるはずだ。ならば、彼らのニュース番組のテロップや、明日の朝刊の社会面の見出しを飾るような、感動的で、国民の心に強く響く『名説諭』を作り上げなければならない。
キーボードのエンターキーをカチャカチャと鳴らしながら、推敲を重ねる。
——『過剰なアルコールに逃げ、理性の手綱を緩めた挙句、一人の女性の尊厳を泥足で踏みにじった罪は極めて重い』
うむ、悪くない。だが、もう一押しほしいな。
『女性の枕を涙で濡らしたことの罪は何よりも重い……』いや、これは少しクサすぎるか。『被害女性には、これから司法の光のもとで自らの人生を取り戻してほしい』——香織さんに向けたこの一文は絶対に入れよう。記者が涙ぐむ画が目に浮かぶようだ。
リズミカルなブラインドタッチで文章を練り上げていると、ふと、胸の奥から苦々しい記憶がこみ上げてきた。
……あの不快な男の顔だ。
証人尋問に引っ張り出されてきた、あの冴えないバーの店長・長谷川。
『要するに、どちらがよりヤリたがっていたかが知りたいわけですよね。そんなのわかるワケなくないですか?神様じゃあるまいし』
神聖なる最高府の法廷で、あろうことか「ヤリたがっていた」などという下品極まりない俗語を吐き捨てたあの無知な小市民。
私が『証人は聞かれたこと以外は答える必要はありません!』と毅然と制した際、あいつはあからさまに不満げな態度を示し、無言のままじっと私を睨みつけてきた。あの不遜極まりない態度。
極めつけは、『神様じゃあるまいし』という発言。裁判というシステムの否定のつもりか?それとも我々裁判官が神様気取りだとでも言いたいのか?程度の低い幼稚な発想だ。誰かが神を気取らなければ、どうやってこの社会を成立させることができるというのだ。裁判というシステムは、お前のような自分の利益しか考えない俗物が軽々に否定していいものではない。
「……チッ。小市民の分際で」
思い出すだけで吐き気がする。
あの男にも、自分の浅はかさを思い知らせるような皮肉を説諭に忍ばせられないだろうか。
『深夜に及ぶ質の悪い飲酒が、すべての悲劇の引き金となった』『怪しい飲食店に身を置く者もまた、社会の規範を……』『お店選びはもっと慎重に…』
うーむ、あまり脱線しすぎると判決文としての品格を損なうか。
「まあいい。見届けているがいい……」
私は気を取り直し、口元に笑みを浮かべながらキーボードを叩く音を強めた。
判決は2ヶ月後。
あの生意気な弁護士も、あの不快なバーの店長も。私の厳格かつ慈愛に満ちた言葉の前に、ただ平伏し、己の罪と愚かさに涙を流すことになるのだから。




