第9話前半 長かったな
【阿久津視点】
「お待ちください櫻田取締役!会長からの命令を無視する気ですか!?」
「会って顔を合わせるだけだ!それに何の問題がある!」
あの日、宇都宮駅で会長からの電話の後、櫻田は秘書の必死の制止を振り払い、タクシーへと乗り込んだ。
櫻田は実家に引きこもっていた浅野の元へ押し掛け、玄関先で彼の両肩を掴み、ただ一言、
「浅野くん、強く生きろよ! また現場で一緒にいい仕事をしよう!」
とだけ叫んで、嵐のように去っていった。
何をしでかすつもりかと肝を冷やしたが、和解の提案も、示談の打診も一切なし。
残されたのは、圧倒的な善意の圧力と、死に体だった浅野の胸に灯ったかすかな生きる気力だけだった。
……ありがとうございます櫻田さん。あなたは本当に、最高の親分ですよ(笑)。
おかげで当事者同士の手打ちという最悪のゲームオーバーは回避され、両陣営の駒は盤上に留まり続けた。
——それから、膨大な時間が流れた。
「双方泥酔・双方記憶なし」という事実認定の難航。
「女性側への逆告訴」という司法史上初の泥沼劇。
連日のようにSNSを賑わす世論の過熱と、それに乗じた野党『革命党』による国会での論争。
公判前整理手続は泥沼化し、期日は何度も延期された。熾烈な立証合戦の末、気づけば事件発生から2年と10ヶ月という月日が経過していた。
当事者たちの悪夢を極限まで引き延ばした「地裁という名の前哨戦」も、いよいよ最終弁論の日を迎えた。
裁判所の傍聴席は、裁判開始から3年近くが経とうというのに、依然として異様な熱気に包まれている。
検察官席に立つ三宅検事は、連日のメディア露出と政界からのプレッシャーですっかり痩せこけ、憑き物がついたような鋭い眼光でこちらを睨みつけていた。
「——被告人・浅野和彦は、被害女性の尊厳を蹂躙したのみならず、自己の保身のために『逆告訴』という卑劣極まりない二次加害に及んだ。その反省の色の皆無な態度は、社会的に断じて容認できるものではない!」
三宅は声を枯らし、激昂しながら論告を読み上げる。
「……よって、被告人を懲役7年に処するのが相当である!」
な、な、7年……?
思わず口元から乾いた笑いが漏れそうになった。
不同意性行罪の法定刑(懲役5年以上)の長期側とはいえ、初犯の単独犯に対して「懲役7年」だと? 殺人事件の求刑すら上回るイカれた数字だ。世論の顔色を伺い、ポピュリズムに魂を売った検察の成り果てた姿がそこにあった。
衆愚政治も、ここに極まれり、だな。
俺は静かに立ち上がり、法壇の裁判官たちを見据えた。
モニターに映し出された例の防犯カメラ映像——千鳥足の浅野を、しっかりとした足取りの香織さんが引きずっていくあの決定的な一瞬を指し示す。
「この証拠映像を今一度ご確認ください。加えて、検察は『被害者の処罰感情が強い』と熱弁されましたが、事件直後の客観的事実を無視しておられる。すでに提出しておりました証拠の一つ、彼女が翌昼に送ったメッセージ——『またお仕事ご一緒できたら』。これがすべてです」
「彼女の被害感情は、事件当夜に生まれたものではない。後から周囲の偏見や捜査機関の誘導によって『被害者という物語』を上書きされたに過ぎない!」
このメールに今まで触れてこなかったのはこれが迎合反応だとかなんとか全く理に適わない反論をされるのがオチだからだ。検察御用達の犯罪心理学者なんてものを証人に呼ばれて無用な時間を費やすだけの代物。だが、最後に触れるのなら、多少の意味はある。
「検察側の求刑は、客観的証拠を無視した感情論に過ぎません。本件は『双方泥酔・双方記憶なし』という完全に同等の条件でありながら、男性のみを起訴し、女性を不起訴とした捜査機関の恣意的な判断に基づいています」
俺は両手を広げ、朗々と声を法廷に響かせた。
「これは憲法第14条——法の下の平等に明確に違反する公訴権の濫用であり、不当な性差別です。本裁判所におかれましては、直ちに本件を『公訴棄却』、仮に実体判断を行うとしても『無罪』とすべきであります」
一通り弁論を終え、パイプ椅子へ深々と腰を下ろす。
裁判長が淡々とした声で「判決言い渡しは2ヶ月後とします」と告げ、木槌を叩いた。
閉廷。これで一審の審理はすべて終了だ。
判決は2ヶ月後。
フッ……地裁の裁判官ごときに、憲法判断をする度量なんてあるわけがない。どうせ『捜査機関の裁量の範囲内であり、公訴権の逸脱とまでは言えない』なんて、金太郎飴みたいな事無かれ主義の定型文で逃げて、判決は有罪、それも世論に配慮した執行猶予なしの実刑を出してくるに決まっている。これまでの弁論での俺のがんばりは、この先の戦いのために『妥当性に疑義の残る判決』という印象を残す布石でしかない。
被告人席の浅野も、傍聴席で見守る彼の父親も、あらかじめ「地裁での敗北は折り込み済みの通過点に過ぎません」と入念に叩き込んでおいた。
それでも、実際に「有罪」の宣告を受ければ相応のショックは受けるだろう。……まあ、そこは耐えてくれとしか言えない。
にしても。……長かったな。
爪の形を整えながら、俺は誰もいない法壇を見上げて口元を歪めた。
さあ、地裁の裁判官様。俺の思惑通り、前例踏襲のつまらない判決文を書いてくれよ。
最高裁という最高の舞台へ進むための準備は、これで完璧に整ったのだから。




