第8話前半 勝てなかった
【阿久津視点】
穂村のタレ込み電話から一週間後——。
俺は宇都宮駅の新幹線改札出口で、一人じっとその時を待っていた。
この一週間、俺は死に物狂いで大手広告代理店の役員・櫻田という男の過去を掘り返した。だが、調べれば調べるほど絶望的な現実を突きつけられるだけだった。
パワハラや強引なやり口の噂などいくらでも出てくる。だがそれ以上に、現場の部下や下請けから絶大な信頼と愛着を集めている男だった。
穂村を使ってネットで叩かせたところで、せいぜい小火にしかならない。ネットの炎上が本当の爆発力を持つのは、テレビや新聞といった大手マスコミが後追いで取り上げて拡散した時だけだ。そして、広告業界の巨大な支配者である櫻田を、大手マスコミが自ら標的にするわけがなかった。
理論武装で攻めてくるわけでもなく、利用できる野心があるわけでもなく、それでいて圧倒的な人徳と権力を持つ男。
…相性が悪過ぎる。
論理も法解釈も通用しない相手に、攻め手がない。思考の歯車が空回りし、噛み合わない。
……もう、これしかない。
「柄じゃない」とか「苦手だ」とか、「プライドがどう」なんて言っている場合ではなかった。
『……ささ、櫻田取締役! こちらです!』
改札を通り、取り巻きの社長ふたりに手招きされた櫻田が、威風堂々と姿を現した。かりゆしウェアのような派手なシャツを着て、ハワイにでも来たかのように上機嫌で周囲に笑顔を振りまいている。
俺は意を決し、人目もはばからず櫻田の目前へと猛ダッシュした。
「——櫻田取締役!!」
靴底を悲鳴のように鳴らさせながら滑り込み、次の瞬間、俺は硬いタイル張りの床に両膝と両手を叩きつけた。綺麗な、完璧な土下座だった。
「な、なんだね君は!?」
騒然とする周囲の視線を背中に感じながら、俺は床に額を擦り付けたまま、喉を絞り出すように叫んだ。
「浅野和彦氏の弁護人を務めております、阿久津と申します! 櫻田取締役、どうか……どうかお聞きください! この戦いは、ただの個人の揉め事ではありません! 欠陥だらけのおかしな法律を正し、日本の歪みを正すための……私たちの使命なんです!」
顔を上げ、必死に目元を歪ませた。あらかじめ仕込んでおいた目薬が、我ながら完璧なタイミングで頬を伝い落ちる。涙ながらの訴えだ。
「ここで浅野さんが折れれば、またそれが悪しき前例となり、日本の司法における性差別は永遠に放置されたまま、いや、もっと悪化していくでしょう! 浅野さんは今、この国の未来のために、自分の人生を賭けて戦っているんです! その決意を揺るがすようなことだけは……どうか、どうかご容赦ください!!」
心の中で必死に祈る。
櫻田さん、あんたはこういう『己の使命感に燃えるバカな熱血漢』が大好きなんだろう……? 業界の親分として、青年の青臭い主張にほだされてくれ……! 頼む……!
櫻田は足を止め、土下座する俺を見下ろした。
その瞳には一瞬の惑いもなく、どこまでも深く、圧倒的な「大人の余裕」が湛えられていた。
やがて、櫻田がゆっくりと口を開く。
「……君の言いたいことはよくわかった。日本を良くしたいという熱意も立派だ」
一瞬、希望の光が差したように思えた。だが、櫻田は優しく、しかし取り付く島もない冷徹さで、俺の耳元に顔を近づけ、決定的な一言を言い渡した。
「だがね阿久津先生。その戦いに私の業界を…私の子分たちを巻き込まないでいただきたい」
「……っ」
あまりにも正論。ぐうの音も出ない、完璧な正論だった。
仰る通り……全くもって、仰る通りです。
膝から力が抜け、床にしがみついたまま固まる。
……勝てなかった。
今日この後、彼らは浅野の実家を訪れ、その圧倒的な善意の圧力で浅野を包み込むだろう。追い詰められ、精神の限界を迎えている浅野は、櫻田の提示する「手打ち」にすがるように首を縦に振るはずだ。
俺が一年半かけて作り上げた、至高の実験場が消えていく。
……その時だった。
櫻田の背後にひかえていた秘書の男が、顔色を変えてスマートフォンを握りしめ、櫻田の耳元へと駆け寄ってきたのが見えた。
『櫻田取締役……! 会長からお電話です!』
櫻田が怪訝そうに眉をひそめ、秘書からスマホを受け取る。
勝てなかった……そう、俺『一人』ではね。
俺は床に額をつけたまま、ゆっくりと口元を歪めた。
穂村のゲス記事なんてこいつには通じない。だが、週刊誌記者にはもう一つ、——穂村にとっても後々が面倒で使いたくない手だったろうが——もう一つの顔。…そう、野党のスポークスマンという顔がある。




