第7話前半 …マズい。非常にマズい
【阿久津視点】
事件発生から一年半後——。
第2回公判で突きつけた防犯カメラ映像を皮切りに、裁判は泥沼の立証合戦へと突入していた。
双方のアルコール代謝に関する医学的鑑定、当日の行動軌跡の再検証、さらには双方の友人や同僚を引っ張り出しての情状尋問——。一ヶ月に一度のペースで開かれる公判は回数を重ね、気づけば季節は巡り、一年半が過ぎていた。
当事者である浅野も香織も、連日の尋問と終わりの見えない戦いに完全にすり減り、法廷のパイプ椅子の上でただの「抜け殻」と化している。だが、ネット上は別だ。新たな証拠や証言が一つ提示されるたびに、SNS上の裁判官どもが大興奮で正義の殴り合いを繰り広げていた。
事務所に戻り、いつものようにPCを開く。自動応答AIが、感情のない滑らかな音声で本日の着信レポートを読み上げ始めた。
『本日の着信総数は324件。内訳は、殺害予告25件、ご批判のお声284件、応援メッセージ3件です。なお、殺害予告25件についてはIPアドレスの特定およびプロバイダへの発信者情報開示請求書面の作成を完了しております』
よしよし、優秀なアシスタントだ。
『なお、本日届いた殺害予告の中に、文脈が著しく破綻しており、具体的な行動を示唆する危険度の高いものが2件含まれております。ご用心ください』
くわばら、くわばら。
俺は欠伸を噛み殺しながら、爪の形を整えるためにヤスリを走らせた。勇者様たちの熱気もピークを迎えている。実にいい傾向だ。
『その他、女性ジャーナリストの穂村氏より『聞かなきゃ損する大事な話がある』とのメッセージを伴う着信が1件ありました。緊急性が高いと推測されます。折り返しをお薦めします』
……穂村? あの大野刑事とつながってる週刊誌記者か。
舌打ちを一つ吐き捨て、受話器を上げた。
「……阿久津です。ご連絡いただいたようですが、取材ならお断りしますよ」
『あはは、相変わらず冷たいですね阿久津さん。でもね、今日は取材じゃなくて、とびっきりの情報提供ですよ』
電話の向こうで、穂村が含みのある粘つくような声で笑った。
『浅野さんと香織さん……二人の所属するそれぞれの会社にとって大事な大事な取引先。実質的な雇い主である大手広告代理店……ご存じですよね?』
「ええ、もちろん。日本のメディアと広告を牛耳るあの大企業でしょう。それが何か?」
『そこのクリエイティブ局を取り仕切る櫻田取締役が、二人の仲裁に動き出しました。お互いに被害届と告訴を取り下げさせて、示談で丸く収めようと画策しているという情報をキャッチしたんです』
……なに……?
爪を弄んでいた俺の手が、ピタリと止まった。
可能性として、考えていなかったわけではない。……だが、なぜだ。なぜ一年半も放置しておいて、今さら……!?
背中に、じわリと冷たい汗が伝うのが分かった。
…マズい。非常にマズい。
この一年半で、浅野の精神はあきらかに限界を迎えていた。
最初の頃にあった「無実を訴えたい」という執念は消え果て、今の彼は取調べや公判のたびに痩せこけ、目の下のクマは黒く沈み込んでいる。尋問中もこちらの問いかけにワンテンポ遅れて虚ろに頷くだけの、ただの「返事をする肉塊」だ。
それは相手の香織も同じだった。傍聴席から見える彼女の背中は痛々しいほど細くなり、手首の骨が浮き出ている。判決を待つことすら耐えかね、「誰でもいいからこの地獄から私を引っ張り出して」と全身で悲鳴をあげている状態だった。噂じゃ周囲には「私の勘違いかも…」と漏らしてるなんて話も聞こえてくる。
——そこへ「業界の絶対的権力者」である大手広告代理店の役員が手を差し伸べたらどうなるか。
答えは火を見るより明らかだった。二人は思考を投げ打ち、すがるようにその手を取るだろう。
二人が「告訴を取り下げます」「和解しました」と言ってしまえば、裁判はそこで強制終了だ。
……クソッ。
思考の歯車が狂い、嫌な音を立てて軋みを上げる。
憲法14条のバグ、性別の非対称性、検察の公訴権濫用——俺が一年半かけて、警察、検察、世論、そして裁判所という巨大なシステムを狂わせ、積み上げてきた至高の実験計画が……!
一人のおせっかいな男のパワープレイで、未完成のまま灰燼に帰すだと……!?
電話の向こうの沈黙を、俺の焦りと察したのだろう。穂村が満足そうに鼻を鳴らした。
『……ふふ。阿久津さん、一つ提案があるんです。ここで、一時同盟を組みませんか?』
「……同盟?」
『ええ。私もね、こんなにPVを荒稼ぎできる最高の飯の種が、おせっかいおじさんの仲裁なんかで終わってもらっては困るんですよ。ねえ? このまま裁判が立ち消えたら、あなただってただの世間を騒がせただけの悪徳弁護士でしょう?』
受話器から漏れる女の息遣いに、露骨な欲望と狂気が滲んでいた。
『私を上手に使ってくださいよ、阿久津さん。メディアの炎上をコントロールして、その櫻田っておじさんのおせっかいを邪魔してあげますから』
俺は深く、重く息を吐き出した。
穂村に貸しなどつくりたくは無い。
だが背に腹は代えられない。
当事者双方の心を繋ぎ止め、その男の圧力を弾き返すには、もう時間がなさすぎるのだ。
「……魅力的なご提案、ありがとうございます」
俺は必死に口元の歪みを整え、声色をビジネストーンへと戻した。
「前向きに検討させていただきます。……追って連絡しますね」
ガチャリ、と受話器を置く。
爪やすりをデスクの上に投げ捨てた。
穂村を使う……か。毒をもって毒を制す。だが、どうやって?
櫻田という男が具体的に動く前に、当事者たちの逃げ道を塞ぎ、和解の芽を摘み取らなければならない。
早く……早く手を打たなければ、俺の実験場が消えてなくなる。




