第8章 夏の気配と、届いた提案
梅雨が明け、Lunetteの窓辺には夏の強い陽射しが差し込むようになった。
朝の準備をしながら、真澄はふと自分の手を眺めた。昔は manicureを欠かさなかった指先は、今は小麦粉とコーヒーの香りが染みついている。
それが、なんだか誇らしくもあった。
九時を過ぎ、山田老人がいつもの席に着いた。
「真澄さん、最近生き生きしてるね。拓也の影響かい?」
「またそれですか……。山田さん、暇なんですね」
「暇な爺さんの楽しみだよ」
山田老人は笑いながらコーヒーをすすった。真澄もつられて微笑む。このやり取りが、最近の朝のルーティンになっていた。
午前中は比較的落ち着いていたが、昼過ぎに思いがけない客が現れた。
広告代理店時代に真澄の部下だった美咲だった。三十七歳。相変わらずキリッとしたスーツ姿で、疲れた顔をしていた。
「真澄さん……ここ、噂通り落ち着く店ね」
「美咲、久しぶり。どうしたの、突然」
美咲はアイスコーヒーを飲みながら、ため息をついた。
「最近、会社がきつくて……真澄さんが辞めた後、もっと忙しくなっちゃって。真澄さんは今、幸せ?」
真澄は少し考えてから答えた。
「幸せ……かどうかはわからない。でも、後悔はしてない。ここでコーヒーを淹れて、お客さんの顔を見て、タルトを焼く毎日が、私には合ってるみたい」
美咲は店内をゆっくり見回し、ぽつりと言った。
「羨ましいな。私も、いつか逃げ出したい……」
「逃げるんじゃなくて、選ぶのよ。無理に我慢しなくていいんだから」
美咲が帰った後、真澄はカウンターの奥で昔を少し思い出した。あの頃の激務、締め切りに追われる夜、夫とのすれ違い。全部が遠い出来事のように感じる。
午後四時過ぎ、拓也が顔を出した。
「こんにちは。今日は暑いね」
「いらっしゃい。冷たい水出しコーヒーにする?」
「お願いします。あと……実は、ちょっと相談があるんだけど」
拓也は少し真剣な顔で言った。
「近所に空き店舗が出たんだ。書店を少し広げたいんだけど、真澄さんのタルトや焼き菓子を置かせてもらえないかな。Lunetteの看板メニューを、うちでも販売したい」
真澄は少し驚いた。
「私の焼き菓子を?」
「うん。ここの味、好きなんだ。……もちろん、対価はちゃんと払うよ。Win-Winでどうかな」
真澄はしばらく考えてから、ゆっくり頷いた。
「条件によるけど……いいわよ。試してみましょうか」
拓也の顔が明るくなった。その笑顔を見ていると、真澄の胸がまた小さく跳ねた。
閉店後、真澄は二階の自室でノートを開いた。
これから作る「Lunetteのテイクアウト用焼き菓子」のアイデアをメモする。
林檎のタルトのミニサイズ、蜂蜜のスコーン、季節のクッキー……。
「少しずつ、広がっていくのね」
窓の外では、夏の夕暮れがゆっくりと街を包み始めていた。
真澄はペンを置き、静かに微笑んだ。
Lunetteは、今日も優しく一日を終えようとしていた。




