第7章 日曜の朝と、心の揺れ
日曜の朝は、Lunetteが最も穏やかな時間だった。
真澄はいつものように早めに店を開け、豆を挽きながら昨夜のことを思い出していた。拓也の穏やかな笑顔、白ワインの余韻、帰り道の静かな夜風。全部が夢のように感じる。
「私、ちゃんと笑ってたかしら……」
自嘲気味に呟きながら、彼女はエチオピアの浅煎りをフィルターに落とした。香りが立ち上ると、少しだけ気持ちが落ち着いた。
九時半。山田老人が現れた。
「おはよう。……顔が少し明るいね、真澄さん」
「見抜かないでくださいよ。爺さんの目は鋭すぎます」
山田老人はブラックコーヒーを受け取りながら、珍しくニヤリと笑った。
「拓也のやつ、ちゃんと送ったかい?」
真澄は肩を落としてため息をついた。
この街は本当に情報が早い。
「送ってもらいましたよ。……ただの食事です。変なこと考えてませんから」
「変なこと考えてもいい歳だろうに。君も、私も、遠慮しすぎるのは良くないよ」
山田老人の言葉は重く、優しかった。真澄はカウンターに頰杖をつき、ぽつりとこぼした。
「私、離婚してからずっと『もういいや』って思ってたんです。恋愛とか、誰かと深く関わるとか……面倒くさくて、怖くて。でも、拓也さんと話してると、なんだかまた感じることが増えてきて。嬉しいような、怖いような」
山田老人はコーヒーカップを静かに置いた。
「怖いのは当たり前だ。生きてる証拠だよ。死んだように生きるより、ずっとマシさ」
その言葉が、真澄の胸に染み込んだ。
午後になると、遥が遊びに来た。今日はバイトではなく、ただのお客として。遥は林檎と紅茶のタルトを頰張りながら、目を輝かせた。
「で? どうだったんですか、土曜の夜!」
「うるさいわね……まあ、悪くなかったわよ」
真澄がぼかして答えると、遥は大げさにガッツポーズをした。
「やったー! 真澄さん、絶対もっと綺麗になれるから! 今より若返りますよ!」
「若返りすぎて、おばさんじゃなくなったら困るでしょ」
二人が笑い合っていると、佐々木のおばあちゃんが野菜を届けてくれた。夫婦で顔を揃え、店内の雰囲気を和ませてくれる。
夕方近く、彩花もあかりちゃんを連れて顔を出した。夫との関係はまだ煮え切らないようだが、彩花の表情は先週より少し柔らかくなっていた。
「真澄さんみたいに、自分の人生をちゃんと生きてる人を見ると、勇気が出ます」
「私なんて、まだ模索中よ。でも……少しずつ、前を向けてるかな」
閉店後、真澄は一人で店内を片付けながら、窓辺に立った。
外はもう薄暗くなっていた。Lunetteの看板の柔らかな灯りが、路面を優しく照らしている。
真澄はスマホを取り出し、拓也からのメッセージを開いた。
『今日はありがとう。ゆっくり休んで。また近いうちに。』
短い文面なのに、胸が温かくなる。
返信を打つ指が、少しだけ迷ったあと、素直に動いた。
『こちらこそ、楽しかったです。また、近いうちに。』
送信ボタンを押した瞬間、真澄は小さく笑った。
「私、変わり始めてるのかもしれないわね」
日曜の夜、Lunetteは静かに一日を終えた。
カウンターの上に置かれた一輪の花が、柔らかな灯りの下で、そっと揺れていた。




