第6章 土曜の夜、柔らかな光
土曜の夜は、珍しく湿度の低い爽やかな風が吹いていた。
Lunetteの閉店作業を終えた真澄は、二階の自宅で何度も鏡の前を行ったり来たりした。結局選んだのは、膝丈のネイビーのワンピースに薄いカーディガン。派手すぎず、地味すぎず。四十過ぎの自分が一番自然に見える服だ。
「これでいいわ……ね?」
自分に言い聞かせるように呟いて、真澄は店を後にした。
待ち合わせのイタリアン小料理店は、Lunetteから歩いて十分ほどの路地裏にあった。照明が柔らかく、テーブル席がゆったりとした落ち着いた店だ。
拓也はすでに来ていて、窓際の席で待っていた。眼鏡をかけ、シンプルな白シャツ姿。いつも書店で見る姿と変わらないのに、今日は少し新鮮に感じる。
「来てくれてありがとう。すごく綺麗だよ、真澄さん」
「急に褒めないで。照れるから」
真澄は軽く笑って席に着いた。毒舌を少し封印しようと思ったが、つい出てしまう。
前菜のカルパッチョと白ワインを傾けながら、二人はゆっくりと話し始めた。
拓也は以前、大手出版社の編集者をしていたという。妻とは価値観の違いで離婚し、今は近所で小さな書店を営んでいる。
「本が好きで、人が好きで、この街が好きで……結局ここに落ち着いた。真澄さんは?」
真澄はグラスを回しながら、静かに答えた。
「私は、全部燃え尽きたの。広告代理店で走り回って、夫ともすれ違って、気づいたら何も残ってなかった。祖母の家を片付けていたら、このカフェをやるしかないって思った。……逃げただけかもしれないけど」
「逃げじゃないと思うよ。ちゃんと、新しい場所に向かって歩き出したんだから」
拓也の声は穏やかで、押しつけがましくなかった。それが真澄には心地よかった。
パスタを食べながら、話題は少し軽くなった。好きな本、好きな映画、最近ハマっているコーヒー豆の話。笑い声が自然とこぼれる瞬間が、何度かあった。
店を出たのは九時半を過ぎた頃だった。
「送るよ。夜道、一人じゃ危ない」
「大丈夫よ。近所だし」
「それでも」
拓也は最後まで真澄をLunetteの前まで送ってくれた。街灯の下で、二人は少しの間、立ち止まった。
「今日は、ありがとう。すごく楽しかった」
「私も……意外と緊張したわ」
真澄が小さく笑うと、拓也も微笑んだ。
「また、誘ってもいい?」
「……ええ。たまになら」
短い返事だったけれど、真澄の声は柔らかかった。拓也はそれ以上踏み込まず、優しく頭を下げて去っていった。
真澄は店に入り、鍵を閉めた後、二階の自室でソファに深く腰を下ろした。
ワインの余韻と、拓也の言葉がまだ胸に残っている。心がざわついているのに、嫌なざわつきではなかった。
「少しずつ……変わっていくのかしら」
窓の外に広がる夜の住宅街を眺めながら、真澄は小さく息を吐いた。
Lunetteの看板が、静かに夜風に揺れていた。




