第5章 木曜の夜と、選んだ言葉
木曜の夜は、Lunetteが最も静かになる日だった。
閉店後の店内で、真澄は一人でカウンターを拭いていた。拓也に誘われてから三日が経っていた。返事は「考えさせて」と保留にしたまま。四十過ぎの女が、そんなことで心がざわつくなんて、少し滑稽にさえ思えた。
「私らしくないわね……」
ため息をつきながら、真澄は冷蔵庫から残っていた白ワインを開けた。グラスに少しだけ注ぎ、カウンター席に腰を下ろす。店内の照明は最小限。柔らかいダウンライトだけが、木のテーブルを優しく照らしていた。
そこへ、勝手口がノックされた。
「真澄さん、まだ起きてます?」
入ってきたのはバイトの遥だった。今日は大学帰りに顔を出したらしい。手にコンビニの袋を持っている。
「なんか、今日真澄さんがぼーっとしてたから気になって。……悩み事?」
真澄は苦笑した。若い子には隠し事ができないらしい。
「悩みっていうか……誘われたの。飯に」
遥の目が輝いた。
「え、拓也さんですか!? やっぱり! いいじゃないですか、真澄さん!」
「いい歳して、はしゃぎすぎよ。……でも、断る理由も見つからなくて」
遥は真剣な顔で言った。
「真澄さんはいつも『自分のペースで』って言いますけど、たまにはペースを崩してみるのも悪くないと思いますよ。だって、この店を始めたのだって、大きなペースチェンジだったんでしょ?」
その言葉が、真澄の胸に刺さった。
祖母の家を改装すると決めたときも、周囲はみんな反対した。「今更カフェなんて」「リスクが高すぎる」と。結局、真澄は自分の気持ちに従った。あのときと同じように、今も自分の気持ちに耳を傾けるべきなのだろうか。
金曜の午前中。
山田老人がいつものようにコーヒーを飲みながら、珍しく話しかけてきた。
「拓也のやつ、最近顔を出す回数が増えたね」
「……見抜かれてましたか」
「爺さんの目はごまかせんよ。どうするつもりだい?」
真澄はコーヒーカップを磨きながら、静かに答えた。
「まだ、わかりません。でも、逃げないつもりです。逃げてばっかりだと、また昔みたいに何も感じなくなっちゃうから」
その日の午後、拓也が店に来た。
真澄はいつもの毒舌を少し抑えて、ストレートに言った。
「土曜の夜、空いてる?」
拓也の顔が、驚きと喜びで明るくなった。
「空いてます」
「じゃあ、近所のイタリアンでどう? 派手なのは苦手だから、気取らないところで」
「了解。楽しみにしてる」
拓也が帰った後、真澄は一人で小さく息を吐いた。心臓が少し速く鳴っている。怖いような、懐かしいような、不思議な感覚だった。
夜、閉店後に真澄は二階の自室で、クローゼットを開けた。
シンプルな黒のワンピースを手に取り、鏡の前で軽く合わせてみる。
「四十過ぎて、デートか……」
小さく笑った自分の顔が、なんだか少し若返って見えた。
Lunetteの窓から見える夜空に、星がひとつ、静かに瞬いていた。




