第4章 雨上がりのアフォガート
月曜の午後、Lunetteは珍しく静かだった。
雨上がりの湿った空気が、店内に柔らかく流れ込んでいる。真澄はカウンターでグラスを磨きながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。四十過ぎてからというもの、雨の後の空の匂いが好きになった。昔の自分なら、雨などただの「移動の邪魔」でしかなかったのに。
午後三時過ぎ、彩花が一人でやってきた。あかりちゃんは幼稚園だという。
「真澄さん……少し、相談があるんですけど」
彩花の声はいつもより小さかった。夫の単身赴任が長引く中、最近「離婚」という言葉が頭をよぎるようになったらしい。真澄は温かい紅茶を淹れ、向かいの席に腰を下ろした。客が少ない時間帯は、こうした話もゆっくり聞ける。
「私、離婚した側だから、綺麗事は言えないわよ」
真澄は自嘲気味に微笑んだ。
「でも、一つだけ言えるのは……『自分が壊れそう』って感じたときは、無理して続けなくていいってこと。子どもがいるからって、自分を犠牲にしすぎると、結局みんな不幸になるのよ」
彩花は黙って頷いた。目が少し赤い。
「真澄さんは、後悔してますか? 離婚したこと」
「……後悔はしてる。でも、後悔した上で、今ここにいる。後悔がなかったら、この店も開けなかったと思う」
二人が静かに話をしていると、店のドアが開いた。
拓也だった。今日は本を一冊持っていない。代わりに小さな紙袋を手にしている。
「邪魔じゃなければ……」
「どうぞ。ちょうどいい時間よ」
真澄は拓也にも紅茶を出し、彩花の話が一段落したところで厨房に戻った。彩花が帰った後、拓也がカウンターに近づいてきた。
「今日はアフォガートにします。バニラアイスに、熱いエスプレッソをかけたやつ」
「甘党なんですね、意外」
「最近、甘いものが欲しくなるんです。……真澄さんの影響かも」
拓也の言葉に、真澄は手を止めた。軽い冗談のつもりか、本気か。四十路の女には、こういう言葉の重さがよくわかる。
「私、影響力あるんですか? ただコーヒー淹れてるだけなのに」
「ただ、じゃないですよ。ここに来ると、なんだか肩の力が抜ける。君の淹れるコーヒーも、言葉も、全部」
店内に沈黙が落ちた。真澄はエスプレッソを淹れながら、自分の心臓の音が少し速くなっていることに気づいた。
アフォガートを出すとき、拓也がぽつりと言った。
「今度の週末、時間あったら一緒に飯でもどうですか? 店のことじゃなくて、普通に」
真澄はフォークを置く手を止め、拓也の顔を見た。
「……急にどうしたの?」
「急じゃないです。前から思ってた。ただ、タイミングを計ってただけ」
真澄は小さく息を吐いた。毒舌が自然と出てしまう。
「私、四十過ぎて離婚歴ありよ? 面倒くさい女かもよ」
「それでもいいんです。面倒くさいところも含めて、知りたい」
雨上がりの光が、店内の木のテーブルを優しく照らしていた。
真澄は結局、はっきりとは返事をしなかった。でも、首を横には振らなかった。
閉店後、一人で店を片付けながら、真澄は祖母の手紙をもう一度読み返した。
『無理はしないで。自分のペースでいいのよ』
「自分のペース、ね……」
真澄は微笑み、ため息をついた。
少しずつ、自分のペースが、少しだけ広がっていく気がした。




