第3章 週末の蜂蜜と、届いた手紙
週末の土曜日。Lunetteはいつもより少し賑やかだった。
朝の準備を終えた真澄がコーヒーを淹れていると、勝手口から元気な声がした。
「おはよーございます! 今日は張り切ってますよ、真澄さん!」
バイトの遥が大きな紙袋を抱えて入ってきた。中身は近所の佐々木夫妻からもらった新鮮なハーブと蜂蜜だった。
「佐々木のおばあちゃんが『真澄さんに蜂蜜届けて』って。すごくいい香りするんですよ、これ」
真澄は袋を受け取りながら微笑んだ。佐々木夫妻は近所で小さな家庭菜園をやっている夫婦で、Lunetteの常連でもあった。野菜やハーブを分けてくれるだけでなく、時折「昔話」も聞かせてくれる。
「ありがと。今日のタルトに使おうかな」
午前十時を過ぎると、店は徐々に埋まっていった。山田老人はいつもの席で新聞を読み、彩花はあかりちゃんを連れてやってきた。週末は夫が珍しく帰ってくるらしく、彩花の顔が少し明るい。
「真澄さん、ここの蜂蜜タルト、最高です……!」
「よかった。蜂蜜は佐々木さんちのやつよ。自然の甘さが違うでしょ」
真澄はそう言いながら、内心で思う。
——こういう小さなつながりが、都会で働いていた頃にはなかったものだ。
昼過ぎ、拓也がまた顔を出した。今度は本を一冊持ってきていた。
「これ、真澄さんに合いそうかなと思って」
渡されたのは、古びた表紙のエッセイ集だった。タイトルは『静かな人生の愉しみ』。真澄は本を受け取りながら、軽く笑った。
「私に『静かな人生』ですか。随分と当てつけがましい」
「当てつけじゃなくて、応援です。……君が忙しそうにしてるのを見ると、ちょっと心配になる」
拓也の声は穏やかだったが、その眼差しにははっきりとした温かさがあった。真澄は一瞬、視線を逸らした。四十過ぎて、こんな風に誰かに心配される感覚が、久しぶりすぎて照れくさい。
「心配してくれるのは嬉しいけど……私はもう、派手な人生はこりごりなの。こうして毎日コーヒーを淹れて、タルトを焼いて、常連さんと話すのが、今はちょうどいいのよ」
「それなら、それでいいんじゃないかな」
拓也は蜂蜜タルトを一口食べて、目を細めた。
「すごく美味しい。蜂蜜の味が優しい」
その言葉が、真澄の胸にじんわりと染みた。
午後五時を回り、閉店時間が近づいた頃、遥が小さな封筒を見つけてきた。
「真澄さん、これ、ポストに。差出人なしです」
封筒を開けると、中には一枚の便箋と、古い写真が入っていた。写真には若い頃の祖母と、まだ幼い真澄が写っている。便箋には祖母の字でこう書かれていた。
『真澄へ
この家で、たくさんの人の笑顔が見られますように。
無理はしないで。自分のペースでいいのよ。
おばあちゃんより』
祖母が亡くなる少し前に書いたものらしい。真澄は手紙を胸に当て、目を閉じた。目頭が熱くなるのを堪える。
「……ばあちゃん、ちゃんと見てるのね」
閉店後、真澄は一人で二階の自宅に上がった。
窓を開けると、初夏の風がそっと入ってきた。
Lunetteの看板が、街灯に照らされて静かに揺れている。
今日も特別な出来事はなかった。
でも、蜂蜜の甘さ、拓也の眼差し、祖母の手紙。
小さなものが、確かに真澄の心に積み重なっていくのを感じていた。
「明日も、ちゃんと開けよう」
真澄はそう呟いて、静かに微笑んだ。




