第2章 午後のレモンと、予感
午後二時を回った頃、Lunetteの店内は穏やかな喧騒に包まれていた。
雨が降り始めたせいか、普段より客が入っていた。真澄はカウンターの中で、タルトの準備をしながら時折客席に目をやる。窓際では山田老人が新聞を読み終え、代わりに若い会社員の女性がノートパソコンを開いていた。彩花母子はもう帰った後だ。
「真澄さん、忙しいですね」
週末限定でバイトに入っている大学生の遥が、トレイを持って厨房から顔を出した。十九歳。ショートカットがよく似合う、明るくて少し生意気な子だ。
「忙しいってほどじゃないわよ。ここは十四席しかないんだから」
真澄はそう言いながら、微笑んだ。遥は大学で文学を学んでいるらしく、休憩時間になるとよく本を読んでいる。
「でも、真澄さんって元々すごかったんでしょ? 広告代理店でバリバリ働いてたって聞いたけど……なんでカフェなんて始めたんですか?」
突然の質問に、真澄は手を止めた。レモンの皮を薄く剥くナイフが、わずかに止まる。
「バリバリ働きすぎて、心が磨り減っちゃったの。夫とも別れて……ちょうど祖母が亡くなって、この家が空いたから。逃げたって言ってもいいわよ」
遥は目を丸くしたあと、照れくさそうに笑った。
「逃げたんじゃなくて、リセットしたんですよ。かっこいいじゃないですか。私もいつか、そんな風に生きてみたい」
真澄は小さく肩をすくめた。
——かっこいい、か。
若い子はまだ知らない。四十過ぎてゼロから始めるのが、どれだけ怖いことか。
午後三時半。雨脚が強くなった。
店内に新しい客が入ってきた。拓也だった。朝に来たばかりなのに、再び顔を出した。
「また来ちゃいました。雨宿りついでに」
「いらっしゃいませ。さっきの苦めカフェオレの続きですか?」
「今度は甘いものが欲しい気分です。レモンタルト、ありますか?」
真澄は頷き、ちょうど焼き上がったばかりのものを取り出した。さっぱりとしたレモンと、ほろ苦いアーモンドクリームのバランスが取れた一品だ。拓也の前に出すと、彼はフォークを入れながら静かに言った。
「この店に来ると、なんだか時間がゆっくり流れてる気がする。書店も同じはずなのに」
「書店は静かすぎて、逆に時間が止まってるんじゃないですか?」
拓也が笑う。眼鏡の奥の目が、少し優しく細められた。
「真澄さんは、昔からこういうお店やりたかったんですか?」
「まさか。まさかこんな人生になるなんて、思ってもみなかった」
真澄はそう答えながら、自分の言葉に小さく驚いた。拓也の前では、つい本音がこぼれやすい。離婚以来、誰かにこんな風に話す機会がほとんどなかったからかもしれない。
閉店時間が近づく午後六時半。
最後の客を見送り、真澄は看板を「CLOSED」にひっくり返した。遥が帰った後、店内は再び静かになる。
カウンターを拭きながら、真澄はふと窓の外を見た。雨は小降りになっていた。街灯の光が濡れた路面に反射している。
スマホが震えた。画面に表示された名前を見て、真澄の表情がわずかに曇る。
《浩平》
元夫からのメッセージだった。
『元気? たまに連絡したくなるよ。仕事はどう?』
真澄はため息をつき、画面を消した。返事はしない。もう、あの人の人生に付き合う義理はない。
厨房の片付けを終え、二階の自宅へ上がる階段に向かう。
今日も一日が終わろうとしていた。
特別なことは何もなかった。
でも、拓也の笑顔と、遥の言葉と、レモンタルトの香りが、胸のどこかに小さく残っていた。
真澄は電気を消す前に、独り言を呟いた。
「まあ、悪くない一日だったわね」




