第1章 朝のフィルター
朝六時五十二分。
Lunetteの勝手口の鍵が、いつもの乾いた音を立てた。
真澄は深く息を吸い込み、肺に冷たい空気を満たした。四十を過ぎてからというもの、朝の空気は少しずつ体に染み込むようになった。昔は感じなかったことだ。
「今日も、よろしくね」
エプロンの紐を結びながら、小さく呟く。亡くなった祖母の家を改装して三年。この一軒家が、自分の居場所になった実感がまだ少しだけ不思議だった。
一階の厨房に入り、まず豆を挽く。今日はエチオピアの浅煎り。軽やかな花のような香りが、静かな店内に広がっていく。真澄は目を閉じて、その香りを胸に落とし込んだ。広告代理店にいた頃、こんな香りに感動する暇などなかった。納期と数字と上司の顔色ばかりを気にしていた。
「忙しかったな、あの頃は」
自嘲気味に唇を曲げて、彼女は湯を沸かし始めた。九十一度。フィルターを丁寧に蒸らす。二十秒。習慣になった動作が、今は一番落ち着く時間だ。
九時ちょうど。木製の看板を「OPEN」にひっくり返すと、最初のお客がゆっくりと歩いてきた。
「おはようございます、山田さん」
「うむ。おはよう」
七十二歳の山田老人は、いつも通りの席——窓際の二番テーブル——に腰を下ろした。真澄はブラックコーヒーを淹れながら、軽く声を掛ける。
「昨日も遅くまで起きてたでしょ? 目が少し腫れてますよ。老人は早寝早起きが基本じゃないんですか?」
「うるさいねえ。君こそ、四十過ぎて一人でこの家に住んで、寂しくないのかい?」
真澄は肩をすくめて笑った。
「寂しいですよ。でも、寂しいってちゃんと自覚できるだけマシです。昔は忙しすぎて、寂しいことすら忘れてましたから」
山田老人はカップを傾けながら、静かに頷いた。それ以上の言葉はない。でも、この短いやり取りが二人の朝の挨拶だった。
十時半を少し過ぎた頃、若い母親が小さな女の子の手を引いて入ってきた。
「いらっしゃいませ、彩花さん。今日はいつものカフェオレでいいですか?」
「はい……すみません、いつも騒がしくて」
彩花は二十八歳。夫の単身赴任が長引き、近所で一人育児に追われている。隣であかりちゃんが、元気に椅子の上を動き回っていた。
真澄は温かいカフェオレを出しながら、特別に小さなクッキーをあかりちゃんの前に置いた。
「騒いでくれる子がいる店は、生きてる証拠ですよ。遠慮なくどうぞ」
あかりちゃんがクッキーを頰張る姿を見ていると、真澄の胸の奥がふっと温かくなった。自分には子どもがいなかった。浩平——元夫——は「今じゃない」と言ったし、自分も仕事が手放せなかった。あの頃は、それが正しい選択だと思っていた。
「ありがとうございます、真澄さん。いつも優しくて……」
彩花の目が少し潤んでいるのを見て、真澄は軽く笑った。
「私、優しいんじゃなくて、ただ暇なんです。ここ、忙しくないから」
彩花が小さく笑う。その笑顔を見ていると、少し救われた気分になった。
十一時前、店のガラス戸が静かに開いた。
「こんにちは。すごくいい香りが外までしてて」
入ってきたのは、近所で小さな書店を営む佐藤拓也だった。眼鏡の奥の瞳が柔らかく、真澄を映す。三十四歳、去年離婚したばかりだと近所で噂に聞いていた。
「いらっしゃいませ、拓也さん。今日は何にします?」
「君のおすすめを。センスを信じてるよ」
真澄は一瞬、意地悪な笑みを浮かべた。
「じゃあ今日は、『離婚したての男が飲むべき、ちょっと苦めのカフェオレ』でどうでしょう」
拓也は目を丸くしたあと、大きな声で笑った。その笑い声が店内に響き、真澄は自分の胸が小さく跳ねるのを感じた。
(……ちょっと待って。私、今、なんだろう)
照れ隠しに、真澄は慌てて背中を向けた。コーヒーを淹れる手に、わずかに力が入る。
窓から差し込む春の柔らかな光が、木のテーブルを優しく照らしていた。
Lunetteの朝は、今日も穏やかに過ぎていく。
真澄はカウンターの奥で、そっと息を吐いた。
これが、今の私の日常。
派手でも、劇的でもない。
でも、確かにここにある。




