第41章 クリスマスの準備と、灯る思い
十二月も半ばを過ぎた頃、Lunetteは静かに、しかし確実にクリスマスの気配に包まれ始めていた。
朝の空気は冷たく澄んでいて、吐く息が白く揺れる。真澄はいつものように少し早めに店の鍵を開け、暖房を点けた。窓の外では、昨夜の雪が薄く残り、朝日に照らされてキラキラと光っている。店内に入ると、昨日飾った小さなイルミネーションが、まだ点灯していないのに、すでに温かい気配を漂わせていた。
真澄はエプロンを結びながら、深く息を吸った。スパイスの効いたホットチョコレートの香りを想像するだけで、心が少しほぐれる。今年のクリスマスは、例年より特別に感じられた。拓也の存在があるからだろうか。それとも、この店を開いてから積み重ねてきた時間の重みだろうか。
豆を挽き、湯を沸かし、ハンドドリップで最初の一杯を淹れる。湯気が立ち上る様子を眺めながら、真澄は小さく微笑んだ。
「今年も、ちゃんとここにあるわね」
九時を少し回った頃、最初の客である山田老人が現れた。いつもの窓際の席に座り、真澄が差し出したブラックコーヒーを両手で包むように受け取る。
「おはよう。今日は一段と冷えるな」
「おはようございます、山田さん。体を冷やさないでくださいね」
山田老人はコーヒーを一口すすり、窓の外の雪景色を眺めながら言った。
「クリスマスの飾り、もう始めたのかい。今年はいつもより手が込んでる気がする」
「少しだけ気合いを入れてみました。せっかくの季節ですから」
「ふふ。君の店は、季節ごとにちゃんと顔が変わる。それがいいんだよ。派手すぎず、控えめなのに温かい。この街にぴったりだ」
真澄はカウンターの奥で、軽く頭を下げた。山田老人の言葉は、いつも短くて、でも芯がある。この人が毎朝通ってくれることが、どれほど自分の支えになっているか、言葉ではうまく伝えられない。
午前中は比較的穏やかだった。十時を過ぎた頃、彩花があかりちゃんの手を引いて入ってきた。あかりちゃんは窓に貼った雪の装飾を見つけるなり、「きれい!」と小さな声を上げて目を輝かせた。
「いらっしゃいませ。今日は温かいココアと、クリスマス仕様のクッキーでどうですか?」
「ぜひお願いします。ここにくると、家にいるより安心するんです」
彩花はそう言って微笑んだ。夫との関係が安定し、表情が明るくなった彼女を見ていると、真澄の胸も温かくなる。あかりちゃんがクッキーを頰張りながら「おいしい!」と繰り返す姿に、真澄は自然と笑顔になった。
昼過ぎ、遥がバイトに入ってきた。大学の冬期休暇に入ったらしく、いつもより元気が一層増している。
「真澄さん! クリスマスの飾り付け、手伝いますよ! あと、今年のクリスマスケーキどうしますか? 私、イチゴたっぷりのがいいと思います!」
「遥はいつも元気ね。ケーキはシンプルに、でもちょっと特別感のあるものにしようと思ってるの。スパイスを効かせたガトーショコラとかどうかしら」
「いいですね! 絶対に人気出ますよ!」
遥が嬉しそうに厨房に消えていくのを見送りながら、真澄は小さく息を吐いた。若い子の勢いに引っ張られるように、自分も少しずつ前を向ける。それが、この店のいいところだと改めて思った。
午後三時を過ぎた頃、拓也が肩に薄い雪を乗せて入ってきた。眼鏡のレンズが少し曇っていて、それを拭きながら真澄に微笑む。
「こんにちは。今日は一段と冷えるね」
「いらっしゃい。温かいもの、淹れるわよ」
拓也はカウンター席に座り、真澄が淹れたホットチョコレートを両手で包んだ。湯気の向こうで、二人の視線が自然と重なる。
「書店でクリスマスギフトセットを試作したんだ。Lunetteの焼き菓子を中心にしたもの。よかったら味見してくれないか?」
「もちろん。一緒に確認しましょう」
二人は厨房に移り、小さなテーブルに試作品を並べた。蜂蜜のスコーン、スパイスの効いたクッキー、ミニサイズのガトーショコラ。真澄は一つずつ口に運び、感想を丁寧に伝えた。拓也も真剣な顔でメモを取り、時折「ここをもう少し甘くしたほうがいいかな」と意見を求める。
作業の合間に、二人の手が触れ合う。もう、特別な緊張はなかった。ただ、自然で温かい距離感があるだけだった。
「ねえ、拓也。今年は本当にいろいろなことがあったわね」
真澄がぽつりと言うと、拓也は手を止めて彼女を見た。
「うん。君と出会って、一緒に季節を重ねて……春も夏も秋も、そしてこの冬も。僕にとって、かけがえのない一年だったよ」
「私もよ。最初はただの常連さんだったあなたが、今ではこんなに近くにいる。不思議ね」
拓也は小さく笑い、真澄の手をそっと握った。
「不思議だけど、自然なことだと思う。君がいてくれるから、僕もここにいられる」
閉店時間が近づくと、常連さんたちが自然と顔を出し、店内は小さな温かい空間になった。山田老人が「今年もありがとう」と短く礼を言い、彩花が「また来ます」と頭を下げ、遥が「真澄さん、今年も最高でした!」と大きな声で言った。
皆が帰った後、店内には真澄と拓也だけが残った。キャンドルを二本灯し、簡単な夕食を取りながら、二人は今年一年を静かに振り返った。
「拓也。これからも、隣にいてくれる?」
真澄が少し照れくさそうに聞くと、拓也は真剣な目で頷いた。
「もちろん。君のペースでいい。ずっと、隣にいたい」
二人は短いキスを交わし、しばらく並んで店内の灯りを眺めた。イルミネーションの光が、優しく二人の影を揺らしている。
夜、二階の部屋に戻った真澄は、窓を開けて夜の雪を見つめた。静かに舞う雪片が、街灯の光に照らされてキラキラと輝いている。
彼女はテーブルに座り、ノートを開いた。ペンを走らせる手に、自然と力がこもる。
『クリスマスの準備が進んでいる。
店内に灯りが増え、心にも温もりが増えていく。
私は今、誰かと温もりを分け合う場所がある幸せを、深く、確かに感じている。
この冬を、穏やかに、大切に過ごしていこう。
そして、来年も、その先も——。』
真澄はペンを置き、窓の外をしばらく眺めた。Lunetteの看板が、雪の中で柔らかく灯っている。
「これからも、よろしくね」
独り言のように呟いて、彼女は静かに微笑んだ。
外では、冬の夜風が優しく看板を揺らし、雪が静かに街を白く染めていた。




