第42章 クリスマスの夜と、灯る約束
十二月二十四日。クリスマスイブの朝は、いつもより静かに始まった。
真澄は少し早めに店の鍵を開け、暖房を強めに入れた。窓の外では昨夜からの雪が薄く積もり、朝日に照らされて柔らかく輝いている。店内にはすでにイルミネーションが点灯しており、赤い実のリースと小さなクリスマスツリーが、空間を優しく彩っていた。
エプロンを結びながら、真澄は深く息を吸った。スパイスの効いたホットチョコレートと、昨夜焼いたガトーショコラの甘い香りが、まだ厨房に残っている。今年のクリスマスは、例年とは明らかに違っていた。拓也の存在が、日常の空気を少しだけ特別なものに変えていた。
「今年も、ちゃんとここにある」
独り言のように呟きながら、豆を挽き始める。いつもの動作なのに、今日は一つ一つの音が丁寧に感じられた。
九時を回った頃、山田老人が現れた。いつもの席に座り、真澄が差し出したブラックコーヒーを両手で包む。
「おはよう。今日は特別な日だな」
「おはようございます、山田さん。メリークリスマス」
「メリークリスマス。……君の店で過ごすクリスマスは、落ち着いていていいよ」
山田老人はコーヒーを一口すすり、窓の外の雪景色を眺めながら続けた。
「今年は、顔が一段と柔らかい。いいことだ」
真澄はカウンターの奥で、小さく微笑んだ。この人の短い言葉が、どれほど自分を支えてくれてきたか。改めて感謝の気持ちが込み上げる。
午前中は予約の客が中心だった。彩花とあかりちゃんが早めに訪れ、あかりちゃんはツリーの飾りをじっと見つめて目を輝かせていた。
「真澄さん、メリークリスマス。ここにくると、本当に心が温かくなります」
「メリークリスマス。あかりちゃんも、楽しんでいってね」
彩花の穏やかな笑顔を見ていると、真澄の胸も自然と温かくなる。あかりちゃんがガトーショコラを頰張りながら「おいしい!」と繰り返す声が、店内に優しく響いた。
昼過ぎ、遥がバイトに入ってきた。今日は特別に少し早めに上がる予定だったが、それでも元気いっぱいだった。
「真澄さん! メリークリスマス! 今日は絶対にいいことありますよ!」
「遥らしく勢いがあるわね。ありがとう」
遥は厨房で手伝いをしながら、時折「拓也さん、今夜はどうするんですか?」と聞いてくる。真澄は軽く「秘密よ」とかわしながらも、内心では今夜のことを考えて頰が緩んでいた。
午後三時を過ぎた頃、拓也が雪を肩に乗せて入ってきた。眼鏡を拭きながら、真澄に優しく微笑む。
「メリークリスマス」
「メリークリスマス。冷えたでしょう。温かいもの、淹れるわね」
拓也はカウンター席に座り、ホットチョコレートを両手で包んだ。湯気の向こうで、二人の視線が自然と重なる。
「今夜は、店を早めに閉めて、二人で過ごさないか? 簡単な食事を用意してきた」
「いいわ。ずっと、そうしようと思ってた」
閉店時間を一時間早め、常連さんたちを見送りながら、真澄は心の中で静かに感謝を繰り返した。山田老人が「良い夜を」と短く言い、彩花が「楽しんでください」と微笑み、遥が「いってらっしゃい!」と大きな声で見送ってくれた。
皆が帰った後、店内には真澄と拓也だけが残った。キャンドルを数本灯し、拓也が持ってきた簡単な夕食をテーブルに並べる。ローストチキンの小さなピース、サラダ、そして二人で焼いたガトーショコラ。
窓の外では雪が再び舞い始め、イルミネーションの光が優しく二人を照らしていた。
「今年は本当に、いろいろなことがあったわね」
真澄がワインを少し傾けながら言うと、拓也は静かに頷いた。
「うん。君と出会って、一緒に季節を重ねて、店のことも一緒にやって……僕にとって、かけがえのない一年だった」
「私もよ。最初はただの常連さんだったあなたが、今ではこんなに近くにいる。不思議だけど、自然なことみたい」
拓也は真澄の手をそっと握り、真剣な目で彼女を見た。
「真澄さん。これからも、隣にいていいだろうか。君のペースでいい。ただ、一緒に日々を重ねていきたい」
真澄は少しの間、黙ってから、ゆっくりと微笑んだ。
「ええ。隣にいて。私のペースを、尊重してくれるあなたとなら……一緒にいていたい」
二人は短い、でも確かなキスを交わし、しばらく並んでキャンドルの灯りを見つめた。雪の音も、遠くの喧騒も、すべてが遠くに感じられる。ここにあるのは、ただ二人の静かな時間だけだった。
食事が終わった後、二人はソファに並んで座り、残ったワインをゆっくりと飲んだ。特別な会話は続かない。ただ、肩が触れ合う距離で、互いの存在を確かめるように過ごした。
夜も更けた頃、拓也が帰り支度を始めた。真澄は店の入り口まで見送り、もう一度だけ手を握った。
「メリークリスマス。そして……ありがとう」
「メリークリスマス。またすぐに会おう」
拓也が去った後、真澄は一人で店内の灯りを少しずつ消していった。最後に残ったキャンドルの炎を見つめながら、深く息を吐く。
二階の部屋に戻ると、窓の外では雪が静かに降り続いていた。真澄はテーブルに座り、ノートを開いた。
『クリスマスの夜。
雪が降り、灯りが揺れている。
私は今、誰かと温もりを分け合う場所がある幸せを、確かに感じている。
この夜を、この季節を、この人との時間を、大切に胸に刻もう。
そして、これからも——穏やかに、隣にいよう。』
ペンを置き、窓の外をしばらく眺めた。Lunetteの看板が、雪の中で柔らかく灯っている。
「これからも、よろしくね」
独り言のように呟いて、真澄は静かに微笑んだ。
外では、クリスマスの夜の雪が、街を優しく白く染めていた。




