第36章 帰ってきた日常と、秋の深まり
遠出から帰った翌朝、Lunetteの鍵を開ける音がいつもより優しく響いた。
真澄はエプロンを付けながら、山の空気を思い出し、自然と口元が緩んだ。秋の山道、拓也の手の温もり、静かに寄り添った時間——すべてがまだ胸に残っている。
「おかえりなさい、真澄さん」
山田老人がいつもの席に座り、ブラックコーヒーを受け取りながら言った。
「顔が柔らかいね。いい休みだったかい?」
「ええ。とても。……少しだけ、心が軽くなりました」
真澄は微笑んで頷いた。特別な出来事があったわけではないのに、日常に戻った自分が少しだけ優しくなっているのを感じていた。
午前中、彩花があかりちゃんを連れて来た。秋らしい梨のタルトを注文し、「真澄さん、最近すごく穏やかですね」と優しく言った。遥もバイトに入り、「旅行どうでしたか!?」としつこく聞いてきたが、真澄は「秘密よ」と軽くかわした。
午後、拓也が顔を出した。手に小さな紙袋を持っている。
「書店の方で、秋の新作が好評だよ。君の梨タルト、また追加でお願いしたい」
「いいわよ。一緒に焼こうか」
二人は厨房に入り、並んで作業をした。粉が少し飛び、時折目が合って微笑み合う。遠出の余韻が、自然と二人の間に流れていた。
閉店後、二人は店のテラス席に座り、温かい紅茶を飲んだ。木々の葉がさらに色づき、夕陽が長く差し込んでいる。
「昨日の山、本当に楽しかったわ。ありがとう」
「僕もだよ。また、季節ごとに行きたいね」
拓也が真澄の手を握り、静かに引き寄せた。二人は短いキスを交わし、しばらく並んで秋の夕暮れを眺めた。
夜、二階の部屋に戻った真澄は、窓を開けて夜風に当たった。山で感じた清々しさが、まだ体に残っているようだった。
彼女はノートに書いた。
『帰ってきた日常。
特別な日が過ぎても、心は優しく満たされている。
私は今、誰かと季節を重ねる幸せを、深く感じている。
この穏やかな日々を、大切に生きていこう。』
外では、秋の夜風が優しく看板を揺らしていた。




