第33章 残暑の午後と、静かな約束
八月に入り、Lunetteは残暑の厳しい陽射しに晒されていた。
朝の空気さえも熱を帯び、店を開けるとすぐに扇風機を回すのが日課になっていた。真澄は冷たい水出しコーヒーを多めに用意しながら、窓の外を眺めた。セミの声が一段と大きくなっている。
「夏も、もう終わりに近づいてるのかしら」
山田老人がいつもの席で冷たいコーヒーを飲みながら言った。
「暑さはまだ続くだろうが、夕方の風が少しずつ変わってきたな」
真澄は頷いた。確かに、日が落ちる時間帯の風に、どこか秋の気配が混じり始めている気がした。
午前中は比較的静かだった。彩花があかりちゃんを連れて来て、涼しい店内でゆっくり過ごしていった。遥は夏休みの課題に追われながらも、バイトを頑張っていた。
午後、拓也が顔を出した。手に小さな紙袋を持っている。
「書店で人気だったレモンクッキー、追加で作ってくれないか? 夏の終わりにぴったりだと思う」
「いいわよ。一緒に焼こうか」
二人は厨房に入り、並んで生地をこねた。粉が少し飛び、時折笑い合う。残暑の中でも、この時間だけは涼しく感じられた。
閉店後、二人は店のテラス席に座り、冷たいハーブティーを飲んだ。夕陽が長く沈み、空がオレンジ色に染まっていく。
「ねえ、拓也。夏が終わったら、少し遠出でもしない? 秋の気配を感じに」
「いいね。近場の山とか、紅葉が綺麗なところに行こうか」
拓也が真澄の手を握り、静かに微笑んだ。
「君となら、どこに行っても楽しいよ」
真澄は握り返しながら、小さく頷いた。特別な約束ではない。でも、こうして未来の小さな計画を一緒に考えられることが、今はとても幸せだった。
夜、二階の部屋に戻った真澄は、窓を開けて夜風に当たった。まだ熱いけれど、どこか柔らかい風。
彼女はノートに書いた。
『残暑の午後。
夏はまだ終わらないけれど、心はもう次の季節を見つめている。
私は今、誰かと一緒に未来を考えることが、自然になっている。
この穏やかさを、大切に抱えていこう。』
外では、残暑の夜風が優しく看板を揺らしていた。




