第12章 夏の午後と、変わりゆく朝
デートから三日後の朝、Lunetteの空気はいつもより少しだけ甘く感じられた。
真澄は豆を挽きながら、自分の頰が自然と緩んでいることに気づいた。
昨夜、拓也からもらった「今日も頑張ってね」という短いメッセージを思い出すと、つい口元が緩む。四十過ぎて、こんな気持ちになるなんて——自分でも少し驚いていた。
「おはようございます」
山田老人がいつもの席に座り、新聞を広げた。真澄がコーヒーを出すと、老人は目を細めて言った。
「顔がいいね。恋はするものだ」
「またそれですか……山田さん、暇なんですね、本当に」
「暇じゃなくて、観察が趣味だよ。君が少しずつ笑顔を取り戻してるのが、こっちも嬉しいんだ」
真澄は苦笑しながらも、素直に礼を言った。
「ありがとうございます。おかげさまで、毎日が少しずつ楽しくなってきてます」
午前中はいつも通りの賑わいだった。彩花があかりちゃんを連れて来て、ミニタルトをテイクアウトしていった。遥はバイトの合間に「拓也さんとの進展どうですか?」としつこく聞いてきて、真澄に「余計なお世話よ!」と軽く叱られた。
昼過ぎ、店が少し落ち着いた頃、佐々木夫妻が新鮮な夏野菜を届けてくれた。
「今年のトマトは特に甘いよ。真澄さんのタルトに合いそうだから、たくさん持ってきたよ」
「おばあちゃん、いつもありがとうございます」
夫妻が帰った後、真澄は届いたばかりのトマトを眺めながら、ふと思った。
——この店を始めた頃は「一人でやるんだ」と思っていたのに、今はたくさんの人の優しさに囲まれている。
午後三時を過ぎた頃、拓也が書店の合間に顔を出した。
カウンター越しに短い会話を交わすだけの、ささやかな時間。
「昨日のメッセージ、ありがとう。忙しかった?」
「ううん。こちらこそ。……今夜、ちょっと遅くまで店に残るけど、閉店後にコーヒーでも飲みに来る?」
真澄は少し迷ってから、頷いた。
「いいわよ。簡単なものなら、夜食用に何か作っておく」
拓也の顔が明るくなった。その笑顔を見ていると、真澄の胸がふわっと軽くなる。
夕方、店が閉まった後、真澄は厨房で軽い食事を作り始めた。
オリーブオイルを絡めた夏野菜のグリルと、簡単なキッシュ。ワインも少し冷やしておく。
拓也がやってきたのは八時半頃だった。二人はカウンター席に並んで座り、静かに食事をしながら他愛もない話をした。
本の話、カフェの常連の話、夏の夜空の話。
食事が終わると、拓也が真澄の手をそっと握った。先日の夜と同じ温かさ。
「ゆっくりでいいって言ったけど……こうして一緒にいると、もっと君のことを知りたくなる」
真澄は握り返しながら、小さく微笑んだ。
「私もよ。……でも、本当に急がないでね。まだ、心の準備ができてない部分もあるから」
「わかってる。一緒に、ゆっくり時間を重ねていこう」
その夜、拓也が帰った後、真澄は二階のベランダで一人、夜風に当たっていた。
夏の星空が、静かに瞬いている。
Lunetteの看板の灯りと、遠くの街の明かりが混ざり合って、優しい景色を作っていた。
真澄はグラスに残ったワインを一口飲み、独り言のように呟いた。
「この夏は、ちょっと特別になりそうね」
心が、静かに、でも確かに、開き始めていた。




