【翌日・日中 知らない味】
胡桃
「あの状態だったら、普通はみんな逃げてます。」
紫苑
「……。」
胡桃
「だって、怖いですもん。」
胡桃は、自分の包帯の巻かれた腕をそっと見た。
胡桃
「何か分からないものが目の前にいて、斬っても効かなくて、こっちに向かってくる。」
紫苑は何も言わなかった。
胡桃
「普通は、足が止まります。逃げます。動けなくなります。」
それから、胡桃は紫苑を見た。
胡桃
「でも……氷室さんは、立ち向かおうとした。」
紫苑
「……。」
胡桃
「なかなか、立ち向かえる人はいませんよ。」
胡桃は、ニコッと笑った。
胡桃
「おじいちゃんが言ってました。」
紫苑
「……じいさん?」
胡桃
「はい。」
胡桃は少し懐かしそうに笑う。
胡桃
「逃げるのは、いつでも出来る。」
紫苑は、ゆっくり顔を上げた。
胡桃
「でも、立ち向かう勇気は、その時にしか出せない。」
紫苑
「……。」
胡桃
「立ち向かうことで、新しいものが生まれる。」
胡桃の声は、柔らかかった。
責めるでもなく。
慰めるでもなく。
ただ、真っ直ぐに紫苑へ届く。
胡桃
「なかなか難しいぞ、って。」
胡桃はフワリと笑った。
胡桃
「だから、氷室さんは勇気がある人なんですよ。」
その笑顔が。
紫苑には、眩しかった。
綺麗だった。
あまりにも真っ直ぐで。
あまりにも温かくて。
紫苑は、息の仕方が分からなくなった。
紫苑は目を逸らした。
胸の奥が、ひどく痛かった。
傷を負ったのは胡桃のはずなのに。
痛いのは、自分だった。
紫苑
「……意味分かんねぇ。」
声が掠れた。
胡桃
「氷室さん?」
胡桃が、紫苑の顔を覗き込む。
その瞬間。
胡桃の顔が一気に焦った。
胡桃
「あわわわっ!」
紫苑
「……?」
胡桃
「氷室さん!?大丈夫ですか!?」
紫苑
「は?」
胡桃
「ど、どこか痛みます!?」
紫苑
「え?なんで。」
胡桃
「涙出てます!!!」
紫苑
「……は?」
紫苑は、自分の頬に触れた。
指先が濡れていた。
紫苑
「……。」
涙。
そう言われても、分からなかった。
泣いている感覚がない。
苦しいのか。
痛いのか。
悔しいのか。
安心したのか。
何一つ、名前がつけられなかった。
ただ。
頬だけが、濡れていた。
紫苑
「……なんだ、これ。」
胡桃
「あわわわわ……ど、どうしよう……。」
紫苑
「いや、お前が焦るな。」
胡桃
「だ、だって!氷室さんが泣いてるから!」
紫苑
「泣いてねぇ。」
胡桃
「泣いてます!」
紫苑
「これは……勝手に出ただけだ。」
胡桃
「それを泣いてるって言うんです!」
紫苑
「……。」
胡桃は慌てて周囲を見る。
胡桃
「あわわわ……どうしよう……どうしよう……。」
そして、何かを思いついたように顔を上げた。
胡桃
「そ、そうだ!」
紫苑
「……?」
胡桃
「アイス!」
紫苑
「は?」
胡桃
「アイス食べませんか!?」
紫苑
「なんでだよ。」
胡桃
「冷たいもの食べたら、ちょっと落ち着きます!」
紫苑
「……そうなのか?」
胡桃
「たぶん!」
紫苑
「たぶんかよ。」
胡桃
「ここからちょっと行ったところに、美味しいアイスを売ってるお店があるんです!」
胡桃は勢いよく立ち上がった。
胡桃
「一緒に行きましょう!」
紫苑
「いや、俺は……」
その言葉を最後まで言う前に。
胡桃が、思わず紫苑の手首を掴んだ。
紫苑
「あっ……。」
胡桃
「あっ、ごめんなさい!」
手を離そうとする。
すると紫苑は思わず胡桃の手を取った。
胡桃
「……氷室さん?」
紫苑
「……別に。」
紫苑は視線を逸らした。
紫苑
「嫌じゃねぇ。」
胡桃
「え?」
紫苑
「行くんだろ。」
胡桃の顔がパッと明るくなる。
胡桃
「はい!」
胡桃はもう一度、紫苑の手首を軽く掴んだ。
胡桃
「行きましょう!」
紫苑
「お、おい。引っ張るな。」
胡桃
「こっちです!」
紫苑は、胡桃に引かれるまま歩き出した。
人混みの中。
昨日まで知らなかった温度が、手首に残っていた。
紫苑
「……。」
胡桃
「氷室さん、何味が好きですか?」
紫苑
「……知らねぇ。」
胡桃
「えっ。アイスの味、知らないんですか?」
紫苑
「そうじゃねぇ。考えたことねぇだけだ。」
胡桃
「じゃあ、今日は選びましょう!」
紫苑
「……何を。」
胡桃
「好きな味です!」
紫苑
「……。」
胡桃
「まずは、そこからです!」
紫苑は、胡桃の横顔を見る。
包帯を巻いた腕。
それでも明るく笑う顔。
自分を責めない声。
紫苑
「……変な女。」
胡桃
「また変って言いましたね?」
紫苑
「変だろ。」
胡桃
「むぅ。」
紫苑の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
胡桃
「あ、また笑いました。」
紫苑
「笑ってねぇ。」
胡桃
「笑いました。」
紫苑
「見間違いだ。」
胡桃
「ふふっ。」
胡桃に手首を引かれながら、紫苑は歩いた。
昨日の血の匂いとは違う。
刃の重さとも違う。
ただ、柔らかくて、少し眩しい午後の中を。




