【翌日・日中】
翌日。
紫苑は一人で街に出ていた。
目的があったわけではない。
ただ、別荘にいたくなかった。
人混みの中を歩く。
笑う人。
電話をする人。
買い物袋を持つ人。
子どもの手を引く母親。
何も知らない顔。
何も起きていない日常。
紫苑は、その中に一人だけ浮いているような気がした。
やがて、通り沿いのベンチに腰を下ろす。
紫苑
「……。」
項垂れる。
昨日の光景が、頭から離れない。
黒い爪。
胡桃の背中。
白い霊糸。
腕から流れた血。
紫苑
「……くそ。」
その時。
紫苑の前に、影が落ちた。
胡桃
「あの~~~。」
聞き覚えのある声。
紫苑の身体が固まる。
胡桃
「氷室……さん?」
紫苑は、思いきり顔を上げた。
そこには、胡桃が立っていた。
紫苑
「……え?」
胡桃
「あ、やっぱり氷室さんだ。」
胡桃は安心したように笑う。
胡桃
「どうしたんですか? 待ち合わせですか?」
紫苑
「いや……別に。」
胡桃
「そうですか。」
胡桃は少し首を傾げた。
胡桃
「項垂れてたから、気分が悪いのかなと思って近づいたら、氷室さんみたいな感じだったので。」
「それに、顔色悪くないですか? 大丈夫ですか?」
紫苑
「……。」
胡桃
「どうかしたんですか?」
紫苑
「いや。」
紫苑は視線を逸らす。
そして、胡桃の腕を見る。
包帯が巻かれていた。
紫苑
「今日は……?」
胡桃
「え?」
紫苑
「今日は、なんでここにいる。」
胡桃
「あ~~~。」
胡桃は困ったように笑った。
胡桃
「お姉ちゃんが、有給取れって聞かなくて。」
アハハ、と笑う。
胡桃
「昨日怪我したから、今日は仕事休めって。」
紫苑
「……傷、痛むのか。」
胡桃
「え?」
胡桃は一瞬、自分の腕を見る。
それから、明るく笑った。
胡桃
「あ~~~。大丈夫です!」
紫苑
「……。」
胡桃
「このくらい、いつもなんで!」
ニッコリ笑う。
その笑顔に、紫苑の胸が苦しくなる。
紫苑
「……いつも?」
胡桃
「はい!」
胡桃は軽く頷いた。
胡桃
「修行でも怪我しますし、異形相手だと、無傷ってなかなか難しいので。」
紫苑
「……そうか。」
紫苑は拳を握る。
紫苑
「強いんだな。」
胡桃
「え?」
紫苑
「お前は、強い。」
胡桃
「私が?」
胡桃は驚いたように目を丸くした。
そして、すぐに首を振った。
胡桃
「まだまだですよ~~~。」
紫苑
「……。」
胡桃
「もっと修行して、もっと強くなりたいです。」
胡桃は包帯の巻かれた腕を見た。
胡桃
「昨日も、もっと上手くできてたら、怪我しなかったと思うので。」
紫苑
「……。」
胡桃
「でも、氷室さんが無事で良かったです。」
紫苑の呼吸が止まる。
昨日と同じ言葉。
紫苑
「……なんでだよ。」
胡桃
「え?」
紫苑
「なんで、俺なんか庇った。」
胡桃はきょとんとする。
胡桃
「目の前で危なかったからです。」
紫苑
「理由になってねぇ。」
胡桃
「え?」
紫苑
「俺は……。」
紫苑は言葉を詰まらせる。
自分は、人を殺す側の人間だ。
裏社会にいる。
綺麗な場所にはいない。
胡桃とは違う。
紫苑
「俺は、助けられるような人間じゃねぇ。」
胡桃は、少しだけ黙った。
そして、紫苑の隣に腰を下ろした。
紫苑
「おい。」
胡桃
「氷室さん。」
紫苑
「……。」
胡桃
「助ける時に、その人が助けられる資格があるかなんて、考えません。」
紫苑が、ゆっくり胡桃を見る。
胡桃
「危ないと思ったから、助けました。」
紫苑
「……。」
胡桃
「それだけです。」
紫苑は何も言えなかった。
胡桃
「それに。」
紫苑
「……?」
胡桃は少し笑った。
胡桃
「氷室さん、強いじゃないですか。」
紫苑
「俺が?」
胡桃
「はい。」
紫苑は思わず、乾いた笑いを漏らした。
紫苑
「昨日、何もできなかっただろ。」
紫苑
「刃も効かなかった。」
胡桃
「でも、逃げる判断はできてました。」
紫苑
「……。」
胡桃
「普通の人なら、あそこで固まります。」
紫苑
「……。」
胡桃
「氷室さんは、怖くても動ける人です。」
紫苑
「怖くなんか……。」
言いかけて、紫苑は黙る。
怖かった。
分からないものが。
斬れない相手が。
胡桃が傷ついたことが。
紫苑
「……。」
胡桃
「怖いって、悪いことじゃないと思います。」
紫苑
「……。」
胡桃
「怖いのに動ける人は、強いです。」
紫苑は胡桃を見る。
胡桃は、いつものように柔らかく笑っていた。
紫苑
「……お前は変だな。」
胡桃
「えっ。変ですか?」
紫苑
「変だろ。」
胡桃
「えぇ~~~。」
少し不満そうな顔をする胡桃に、紫苑の口元がかすかに緩む。
ほんの少しだけ。
胡桃
「あ、笑った。」
紫苑
「笑ってねぇ。」
胡桃
「今、ちょっと笑いました。」
紫苑
「見間違いだ。」
胡桃
「ふふっ。」
紫苑は視線を逸らした。
けれど、昨日から胸の奥にこびりついていた黒いものが、少しだけ薄くなった気がした。




