【引き返せない者たち・前編】
病室。
荷物は、ほとんど片付いていた。
明日には退院。
そう告げられたはずなのに、
誰一人として、晴れた顔をしていなかった。
海斗
「……俺たち、どうする?」
ぽつりと落ちた声に、
病室の空気が止まる。
誰も、すぐには答えなかった。
紫苑
「…………。」
紫苑は、窓の外を見ていた。
夕方の光が、病室の床に細く伸びている。
紫苑
「……知らないままなら、まだ良かったのか。」
その声は、問いかけというより、
自分自身に向けたものだった。
蓮
「はっ。」
蓮が、小さく鼻で笑う。
蓮
「なんか気に食わねー。」
蓮
「性に合わねぇな。」
海斗
「何が?」
蓮
「全部だよ。」
蓮
「何も知らねぇまま助けられて、
何も知らねぇまま守られて、
何も知らねぇまま帰れって言われるのが。」
蓮
「……気に食わねぇ。」
鷹臣
「…………。」
鷹臣は、ベッドの背にもたれたまま目を伏せる。
鷹臣
「……知った所で、どうにかなるのか?」
低い声だった。
責めているわけではない。
ただ、現実を見ている声。
鷹臣
「俺たちは、何も知らない。」
鷹臣
「見えないものに対して、
どう構えればいいのかも分からない。」
鷹臣
「知れば強くなるわけじゃない。」
鷹臣
「知ったせいで、壊れる事もある。」
その言葉に、誰も反論しなかった。
一樹
「…………。」
一樹は腕を組んだまま、静かに口を開く。
一樹
「分からん。」
一樹
「情報が少なすぎる。」
一樹
「冠崎家が何を抱えているのか。
俺たちがどこまで踏み込めるのか。
踏み込んだ結果、何が起こるのか。」
一樹
「全部、未知数だ。」
海斗
「未知数って言われるとさぁ……」
海斗は苦く笑った。
海斗
「余計に怖くなるんだけど。」
誰も笑わなかった。
玲央
「…………。」
玲央は黙っていた。
組長である玲央が何かを言えば、
それが答えになる。
だからこそ、
簡単には言えなかった。
海斗
「玲央?」
玲央
「……俺は……。」
言いかけて、止まる。
言葉が出ない。
知らないままでいれば、
今まで通りの世界に戻れるのかもしれない。
だが、もう見てしまった。
血では説明できないもの。
傷では説明できない治癒。
普通ではあり得ない力。
そして。
自分たちを守るために、
当たり前のように傷ついていた冠崎家の姿。
玲央
「……俺は、まだ分からない。」
蓮
「玲央。」
玲央
「行くべきだとは思ってる。」
玲央
「でも、行くと言えば、
お前たち全員を巻き込む。」
玲央
「知らない方が良かったものを、
無理に知る事になるかもしれない。」
玲央
「俺一人の意地で、決めていい話じゃない。」
病室に、沈黙が落ちた。
その沈黙は重かった。
けれど、逃げるための沈黙ではなかった。
考えている。
迷っている。
恐れている。
それでも、誰一人として、
「忘れよう」とは言わなかった。
紫苑
「…………胡桃は。」
全員の視線が紫苑へ向く。
紫苑
「胡桃は、あの世界にいるんだろ。」
玲央
「……ああ。」
紫苑
「真奈も、杏奈も、冠崎家も。」
紫苑
「俺たちが知らない場所で、
ずっとあれを相手にしてきた。」
蓮
「…………。」
紫苑
「知らなかったから関係ない、で済むのか。」
紫苑
「……俺には、分からない。」
海斗
「紫苑が、分からないって言うの珍しいね。」
紫苑
「分からないものは、分からない。」
海斗
「だよねぇ……。」
海斗は天井を見上げる。
海斗
「俺も分かんないわ。」
一樹
「俺もだ。」
鷹臣
「……俺も、答えは出ていない。」
蓮
「俺は気に食わねぇ。それだけだ。」
玲央は、ゆっくり息を吐いた。
玲央
「……なら、今は決めない。」
蓮
「は?」
玲央
「明日、退院する。」
玲央
「外に出て、自分たちの目で見る。」
玲央
「それでもまだ、知りたいと思うなら……その時に決める。」
一樹
「保留か。」
玲央
「ああ。」
玲央
「逃げるための保留じゃない。」
玲央
「ちゃんと考えるための保留だ。」
誰も反対しなかった。
病室の外から、看護師の足音が聞こえる。
いつもの病院。
いつもの白い壁。
いつもの消毒液の匂い。
けれど。
もう、何もかもが、
今までと同じには見えなかった。
海斗
「……退院、か。」
蓮
「やっと外に出れるってのに、全然めでたくねぇな。」
鷹臣
「普通なら喜ぶ所だがな。」
一樹
「普通ではないからな。」
紫苑
「…………。」
玲央
「明日だ。」
玲央
「明日、外に出る。」
玲央
「それから考える。」
誰も頷かなかった。
けれど、誰も否定もしなかった。
答えは、まだ出ていない。
ただ一つだけ分かっているのは、
彼らがもう、何も知らなかった頃には戻れないということだった。
その時だった。
廊下の方から、
異様な音が聞こえた。
ズ……。
ズル……。
ズ……。
何かを引きずるような、
湿った音。
最初に反応したのは、鷹臣だった。
鷹臣
「…………?」
わずかに眉を寄せる。
蓮
「どうした? 鷹臣。」
鷹臣
「いや……。」
鷹臣は、病室の扉の方を見る。
鷹臣
「なんか、変な音してないか?」
蓮
「は? いや?」
海斗
「何も聞こえないけど。」
一樹
「…………。」
一樹も耳を澄ませるが、
聞こえるのは病院特有の生活音だけだった。
遠くのナースコール。
廊下を歩くスリッパの音。
誰かの話し声。
鷹臣
「いや……廊下の方から、何かが引きずられてるような……。」
玲央が、ゆっくりと立ち上がる。
玲央
「見てくる。」
扉を開ける。
廊下には、看護師がいた。
患者がいた。
付き添いらしき人影もある。
白い壁。
消毒液の匂い。
いつもの病院の風景。
何も、変わったものはない。
玲央は廊下を見渡し、病室へ戻る。
玲央
「何もないぞ。」
玲央
「気のせいじゃないか?」
鷹臣
「……そっか。」
鷹臣は、少しだけ間を置いてから頷いた。
鷹臣
「なら、いいんだ。」
海斗
「おい~~。怖いこと言うなよ~~。」
一樹
「ビビったのか?」
海斗
「んなわけねーだろ!?」
蓮
「顔、引きつってんぞ。」
海斗
「引きつってねぇ!」
病室に、笑い声が響く。
ほんの少しだけ、空気が緩んだ。
けれど。
鷹臣だけは、笑わなかった。
扉の向こう。
誰もいないはずの廊下の奥を、
静かに見つめていた。




