ある妻、ある王女、ある娘の末路
妖精の見届ける誓約は、何も口止めに限るものではない。
その本旨は、“決して破られない”ということにある。
つまり、セシルは今ここで、無条件に味方になってくれる援軍を得たのである。
異母弟から爵位を守るなどという当初の意地は、微塵も浮かんでこなかった。
***
透かし模様が広がる扇が、音もなくたたまれる。クリステは夫の唖然とした視線にも、セシルの鬼気迫る眼差しにも動じることなく、言葉を続けた。
「セシル殿の言う通り、魔法使いが故意に手を下したというのとは事情が少々異なる、というのは留意すべきと思いますの」
それまで黙って事の成り行きを見守っていた女と、果たして同一人物なのか。
そう思うほど、クリステの口はすらすらと動き、他者が言葉を挟む余地を与えなかった。
「そもそも魔法使いの子孫の罪において、たとえ年端のいかない若者であっても、罪を犯した本人のみに重い罰を与えてきたのには理由があったはず。そうでしたわね、セシル殿?」
同意を促すような王太子妃の視線に、セシルも詰め込んだ大昔の裁判記録を脳裏で反芻しながらこくこくと頷いて後を引き継いだ。
「性質上、魔法使いは単独でも強い戦力を持っていましたし、年少者のしたことで有能な親の首まではねていては、貴重な魔法使いの家柄の断絶、ひいては有事の際の国力低下が免れない、ということでした。……だからこそ、その、当時のキークロック家のご令嬢は齢十六で生涯幽閉という重い罰を受けたはずで」
セシルの言葉に「ええ、ええ」と王太子妃が相槌を打つ。
「……クリステ、きみは」
「それがローズ様の場合は違うということに、わたくしも同意したいのです。強い戦力がご本人に宿るわけではなく、同様の犯行を今後なし得るかというと、協力者無しではかなり難しいのでは?」
クリステはくるりと回した扇でレナードの困惑した声をやり過ごした。
セシルは薄氷を踏むかのような危機感にそっと唾を嚥下した。
『ローズは魔法使いとは違う』と言い切れるのは、王太子妃を含めたこの場のほぼ全員が、ローズの出生を知らないおかげだ。
「それでも」とクリステが言葉を繋げる。
「侯爵を傷つけたこと、王妃陛下相手に使うつもりでその魔法酒を奪ったことは、たとえ魔法使いでなくとも罰されるべき事案であります。かつて内乱を起こしかけたグレノア家とリリーライン家の両当主を罰し、伯爵位を剥奪したように」
両子爵の顔が気まずげに歪む一方で、セシルはどく、どく、と高鳴る心臓の音を耳の奥に感じていた。
頼ったはいいが、クリステが今、何を言おうとしているのかが、じつはさっぱり読めなかった。
けれど、彼女には分かっているはずだ。セシルにとって“一番大事なもの”が何なのか。
今この場で、セシルにその手札を切るように促したからには。
そんな、縋るような思いが胸を支配していた。証言台に置いた拳の中で、爪が食い込んでいるのも気が付かずに、クリステの顔を穴が開かんばかりに見つめた。
言葉少なだった国王が、ゆっくりと口を開く。
「つまり、クリステ妃よ。そなたは公爵夫人の罪は他の貴族を罰するとき同様に裁くべきだとお考えか? ――夫にして監督者たるエスカティード家当主が責を負うべき、と」
この件について何も言えないと思っているのか、王妃は震える唇から何も発さず、息子の妻の顔を見つめていた。
王太子妃は「そうですわね」とあっさり認めた。
「本来なら、フレイン公爵は無事では済まないでしょう。被害に遭った家の家格も考えたら、爵位の剥奪か、領土・財産の没収か、というところですわね」
セシルは段々不安になってきていた。公爵家を潰せないから、ローズは孤立状態なのだ。他の貴族ならいざ知らす、エスカティード家の特異性を、まさか王太子妃が知らないはずもあるまいに――
「本来なら、ですけど」
含みのある物言いに、一同が訝し気に眉根を寄せた。それを見た銀の髪の女は心外そうに「あら」と続ける。
「そうはいっても、無関係の一族に責任なんて取らせられないでしょう」
無関係の一族。
セシルはこぼれ落ちそうなほど目を見開いた。クリステが再び口を開いていたのにも構わず、思わず目の前の証言台を勢いよく叩いて身を乗り出し叫ぶように声を発した。
「っ、前例を踏襲するなら、白い結婚は遡って無効のはずっ! ローズ様は、“公爵夫人”として裁かれる謂われはありませんっ!」
瞬間、セシルは背後から――絵のかかった壁の向こうからのくぐもった転倒音を聞いた。
かと思えば、間髪入れずにより近いところから重なるように明瞭な転倒音がして、青ざめて固まっていたセシルも今度は思わず振り返った。
「……失礼しました」
セシルを含めた一同の視線の先では、たいして申し訳なくなさそうなアレックスが組んだ足先を揺らしていた。一度目の騒音――セシルが思うに壁の向こうで公爵が椅子を倒したのではないか――をかき消すように蹴倒されたのは、さっきまでセシル自身が腰掛けていた椅子だった。
「……アレックス殿、態度に気をつけなさい。セシル殿、許可のない発言は慎みなさい。次は退廷となりますよ」
呆れて物も言えないのか、予想外の展開についていけていないのか、クリステ以外の誰も二人を責めてはこなかった。アレックスは素直に姿勢を正し、セシルは興奮から一転して下がった血のめぐりが戻るのを感じながら、俯いて小さく謝罪した。
「では改めて、わたくしから証人セシル・ロッドフォード殿への意見陳述を許可します」
「……」
しれっとクリステが話を進めるので、レナードが戸惑いながら口を開く。しかし、王太子の方を手で制したのは他ならぬ国王だった。
ただ、発言を許されたセシルもまた、自分の中で突如閃いた論旨の筋道に自ら困惑していた。
これで、本当にいいのか、と。
視線はわずかな迷いをもって怪訝な表情の判事席の面々を渡っていった。ただひとり涼しい面持ちの王太子妃も、あくまでセシルに言わせるつもりか、その口は閉じたまま、視線だけを寄越すのみである。
鏡に映る絵画の向こうからも、背後の証人の控え席からも、物言う声はない。助言も、励ましもだ。
(……当たり前だ。これは僕が望むことだ)
幽閉に甘んじる女に待ったをかけたのは、誰に頼まれたのでもないセシルの独断だ。
視界の端で、女が呆気に取られているのは気が付いていた。きっとこんな形で公爵家と切り離されるとは微塵も予想していなかったはずだった。
きっと、この先の言葉は、もっとあなたを混乱させるだろうけれど。
セシルは前を向いた。
「此度のヴィレイ侯爵への襲撃事件は、公爵家とは何のかかわりもない、“第四王女殿下”のなさったことであり」
父の険しい顔は見慣れている。それでも王家が許した息子の発言を止めない、父伯爵の自制心に感謝した。
「明確な殺意はなかったのは明らかで、第三王子ライオネル殿下も厳罰を望んでいないこともあります」
記憶の中の、自分とそう変わらない、若い王族将校の顔を思い出す。
教会へは信心深いと聞いていた。その裏返しのように、魔法使いを快く思っていない様子だった。
そして、あるときからろくに会えなくなったであろう姉の身をその手で捕縛しながら、心底案じていた。過去の重要機密をセシルに話すまでに。
被害者たるヴィレイ侯爵の顔を伺うような目の動きが判事席の中にいくつかあったが、当の侯爵は何も言わず、セシルの言葉の続きを待っていた。
「しかしながら、その罪状は身勝手で危険なものであり、審理に積極的に協力する姿勢も見受けられないということならば」
セシルは、命だけでも助けたいと願うライオネルに啖呵を切った。
それが、本当に女のためだけだったはずはないのだ。
「王女としての、一切の権利を剥奪する、という罰は、免れないのではないかと存じます」
法廷は、何度目かの静寂に包まれた。
「……ヴィレイ侯爵。ロナルド・エネクタリア殿」
それを破ったのは国王自身だった。
「傷を負わされた御身としては、この意見はいかように思われる」
裁判長として、国王としての問いに、侯爵の髭がゆっくりと揺れた。
「負わされたも何も。何と言っても、誰に、何をされたのか、私自身は何も覚えておりませんからな。……おめおめ私の手元から奪われたという物品も出てこない中、真に公爵夫人……ローズ殿下がなさったことなのかすらわからないのに、処罰感情自体、どう持てばいいのやら」
とすれば、と男は続けた。
「監督者たる国王陛下のご意思に、従うまででございます」
――おめおめ酒を奪われたのは思わぬ不運でしたな、とことさら優しく声をかけたベグノス辺境伯にきつい眼差しを向けた後、侯爵はまた元のように口を閉ざした。
国王の視線が王妃、王太子、そしてその妃へと移っていく。
「……我らの王の、ご判断に」
王妃の顔は青白いままだった。しかしその表情と声に何かを覚悟したかのような固さを秘めて短く答えた。
レナードは、かすかに視線を下げたまま、その口からは何も発さなかった。王太子として、兄として、言うべき言葉を見失ったかのように。
ただクリステだけがはっきりと「この件において、わたくしはセシル殿の言葉に同意すると思っていただければ」と返し、そのあとは、ゆるりと扇を開いていつものように口を隠した。
国王の沈黙は、そう長くは続かなかった。
「証人、席へ戻りなさい」
黙り込んでしまった進行役の代わりに響いた声は、老いてはいたが、微塵の震えも淀みもなかった。
「被告人、ローズ・ディエニット。前へ」
父親が、出戻った娘を慰める暇もなく、勘当を言い渡す。その一部始終を、一同は静かに見守った。
堪えていたものが決壊したかのように王妃がほとほとと流す涙の意味を、正しく汲み取れたものが果たして何人いたのか、それは定かではない。
セシルにも、これが最良の結果となったのかはわかっていない。
ただひとつ、人の心が読めないオリエット伯爵の息子にも推測できることがあった。
「はい」
持参金やそこに含まれる王女名義の領地、身の預け先については追って沙汰が出るとまで言い終えた国王に、ローズは従順に頷いた。
「寛大なる判決に、心よりの感謝と、ご迷惑をお掛けした方々への謝罪を申し上げます」
頭を下げる女の金色の髪が、吊るされたシャンデリアの光にきらきらと輝く。いつか見た舞踏会の夜と同じように。
一年前の春の日の、結婚の宴と同じように。
公爵夫人とも、王女殿下とも呼ばれたくないと言って泣いていた女が、今度はまた静かに涙を流しているのは、後ろから眺めていても、鏡が見えなくても伝わってくる。
「……これで、良かったんです。本当は、最初から」
ごくかすかな、消え入りそうな呟きだった。
セシルとて、今この瞬間を迎えるまで、こんな展開が望ましいと思っていたわけではなかった。
なかったが、嫁ぎ先にも、実家にも、偽りの居場所しかなかったのなら、それが苦しいと言うのなら、そこからそっと席を動かしてやるしかない。ただ、解放したなんて偉そうに言うことはできなかった。
それでもできうる限り、傷は浅い形で、一番隠したい真実は柔らかく、厳重にくるんで。
セシルが、彼女と生涯二度と会えないなんて選択肢は除外して。
(……この人が美しい人で良かった)
底意地の悪い貴族の面々も、涙する姿の痛ましさに口をつぐむ。
そこに安堵も混じっているなんて気が付くのは、自分と、今まで苦しみ続けた何人かだけで充分なのだとセシルは信じるしかないのだ。
(……あれ、ちょっと待って)
ふと、セシルの思考は方向転換した。
ローズはもう公爵夫人ではない。これから煩雑な手続きがあるとはいえ、公爵家を巻き込みたくない王家はもう後に退かないに違いない。
そしてたった今、王女でもなくなった。ほかならぬ国王自身がそう言い渡したからだ。
公爵も、国王も、もはや彼女の保護者ではない。
つまり。
「ローズ様と結婚するのに、もう誰の許可も取らなくていいの?」
言葉は思わず口をついて出た。
被告へ向けられていた判事席の同情めいた視線が、ひんやりと冷たいものに変わって証人へと向く。
「……証人、先のクリステの言葉は覚えているな」
喉が復活したらしい王太子の無情な命令が響く。
「え、あっ、ちがっ!」
思わずしまったと口を塞いでも手遅れで、両脇にやってきた衛兵の内一人は見覚えのある目隠しを持っていた。
咄嗟にクリステを見ても、“一度だけ”しか味方になってくれない王太子妃は、つんと澄まして扇で空を撫でるのみ。
「えっ、えぇぇっ!」
オリエット伯爵アルバートが首を左右に振りながら目元を手で覆う。
アレックスはちらとセシルを見遣ったきり、他人のようなそぶりでまた視線を前に戻した。
一瞬ながら、心の底から『馬鹿じゃないの』と言わんばかりの視線だった。
動揺して無意識に立ち上がろうとしたのを何と誤解されたのか、衛兵の腕がセシルの肩を強くつかむ。
肩を押さえられて余計に慌てて、周囲を見渡すセシルの目には、大きな絵画の中の、王冠を掲げる女の目が、入室した時よりも呆れているように映った。
シャンデリア近くに漂う妖精は眼下の騒動ににこりともせず、引きずられるセシルには興味を示さない。
結局、生涯に一度あるかないかの貴重な十月裁判という法廷の、『閉廷』を聞く瞬間は、セシルには訪れなかった。
――幸いだったのは、目隠しをされる直前に見ることができたローズの顔が、呆れたような表情で、その頬は同じ名の花に劣らぬほどに真っ赤だったのだが。
ほんの一瞬口角が上がったように見えたので、かすかに照れ笑いしているように見えたことである。
まだ残っている謎のため、もう少し、お付き合い下さると嬉しいです。




