殿下との約束ごと
『……あの、本当によろしいのですか? レナード殿下に黙って署名などして……』
猫の姿の妖精を従えて、セシルはつい先刻走り抜けてきた王宮の居住棟、王太子夫妻の寝室へと引き返すことになった。
既にレナードは広間へ戻ったのか、そこには寝台で上体を起こし、寝巻きにガウンを羽織っただけの王太子妃がやせ細った顔で静かに待っていた。
室内には心配げな顔の侍医もいたのだが、クリステに言葉少なに追い払われると、隣室にいるとだけ告げて視界から退散した。部屋のすみにはセシルを先導した侍女が控えているが、彫像のように動く気配がない。
『あら、だって、助けてもらったのは他でもないわたくしの命なのに、わたくしが知らぬ顔で見過ごせると思って?』
『……レナード殿下には、改めて恩は返すとお約束を頂いておりますが』
セシルはここにきて、死にかけていた女性に、しかも王族に自分の私利私欲の込められた誓約を頼むことに気が引けてきていた。しかし、そんな内心を知ってか知らずか、左の肩へ流された銀髪を耳にかけると、クリステは縮こまるセシルに手を差し伸べてきた。
『素直な心がけは美徳です。が、あの人、あまり優しい人間ではありませんことよ。恩を仇で返すような恥知らずではなくとも、利用するつもりが、逆に利用されるかもしれないことくらい覚えておきなさい』
『……』
『その紙と、必要なら猫をこちらに。エミリエル、ペンと、台を』
すると、エミリエルと呼ばれた侍女が素早く動く気配があり、セシルは戸惑いながらも結局羊皮紙を侍女に預けた。
紳士的な性質ゆえに、王宮に難なく入れたケット・シーも『やぁやぁお妃様、少々失礼仕る』と言いながら、とことこと人間のように後ろ足で歩いて、寝台の上によじ上っていった。
クリステは緑がかった茶色の目を羊皮紙の文面に走らせると、何の躊躇いもなくペンを立てた。
『……あの、なぜそこまでして下さるんですか』
黙っていればいいと思いつつ、セシルは尋ねずにはいられなかった。
事の発端が目の前の女性にあるとはいえ、それすら夫レナードのかつての浮気癖が原因である。加えて、レナードのセシルに対する言い分は、立場ある人間の考え方として正しいものと思う気持ちもあった。
『無断でこのようなことをなさって……レナード殿下は、その』
『怒るでしょうね』
羊皮紙から目を離さず、クリステはかすれた声で、しかしこともなげに言い放った。
『怒るでしょうし、呆れるでしょうし、もしかすると愛想を尽かされるかもしれないわね』
『……』
『でも、あの人がわたくしに無断で交友関係を広げてきたことだって、わたくしずっと怒っていたし、呆れていたし、愛想を尽かしてしまおうとしたのよ』
呆れて、などという大人しい感情ではないだろうと、セシルは思うだけにとどめた。
『そうそう、三角関係の揉め事は、なるべくこの王宮から出てからした方がよろしくてよ。わたくしの侍女が色々なところで休憩を取っていますからね』
加えて、庭園迷路での揉め事が知られていると分かって、心臓が飛び上がると同時に身を固くしてしまったせいでもある。
冷や汗を流すセシルの様子には頓着せず、クリステは飄々と『まぁ人の思いは当人ですらあずかり知らぬ方向に進むものですから』と続けた。
『……本当に愛想を尽かしていれば、立場と義務だけの妃に徹することができていれば、きっともっと楽だったのでしょうね』
みじめな横恋慕への揶揄が続くことへの覚悟は、女の苦い笑みが自嘲じみているのを目の当たりにしてどこかへ消え失せた。
と同時に、セシルには女が自分に肩入れした本当の理由が垣間見えた気がした。
ああ、この人も、“良い恋”から程遠い恋をした人なのか、と。
猫の金色の瞳が見届ける中で、王太子妃はセシルの署名のすぐ下に、自分の名前を記し終えた。セシルが部屋に入ってから、ほんの数分もかからなかった。
羊皮紙をくるくると巻いて、直接セシルへと手渡す間際、クリステはセシルに笑ってこう言った。
『あなたが一番大事なものを手に入れるとき、一度だけ、わたくしが無条件で味方になってあげましょう』
『クリステ様……』
セシルの頭には一瞬、金の髪の、紫色の目の女の顔が浮かんだ。と同時に、それを自分自身で否定する。
違う、これはもっと実利的な、自分の貴族としての立場を守るために使うのだと言い聞かせるために。
誓約書を両手で受け取って、足元に戻ってきた妖精にそれを持たせた。妖精はこのあと控えとして転写して、原本をセシルに持たせるのだ。
のぞめばクリステの分も控えを用意できるのだが、それを聞くと妃は『見つかって不都合な物はなるべく持たない』とすげなく言い捨てた。
『……ありがとうございます、王太子妃殿下』
セシルは改めて礼を述べた。ケット・シーもすました顔で気取った礼をする。
助けたのは確かにセシルの方だった。
しかし、夫を裏切ってセシルに無条件での助力を申し出るというのは、事の成り行き次第では彼女の身の破滅につながることのはずだった。
それをするだけの原動力が、全く異なる境遇から生じた同族への憐れみだと思えば、セシルはもうクリステをただの向こう見ずで気の強い女性として見ることはできなかった。
誰に詰られようとも、少なくとも、セシルだけは。
深々と頭を下げたセシルに、クリステは早くお行きと小さく笑った。
それが合図だったかのように、背後で侍女が扉を開ける気配がした。あまり長居はできないのは確かで、羊皮紙を懐にしまったセシルは急いでケット・シーを促して踵を返した。
『――あの馬鹿な男が、自分の手のひらの上で転がしていたつもりのあなたとわたくしに出し抜かれたと知った時の顔を見るのが、今からとても楽しみだわ』
視線を外す一瞬前、一転して昏く笑ったその顔に、女の底知れない恐ろしさを感じながら。
***
騒然とする諸侯をものともせず、クリステはつかの間、艶然と微笑んだ。
それはセシルがようやく手札を切ったことへの満足げな笑みのようであり。
「わたくしは、セシル殿の言うことには一理あると思いますのよ」
背後から撃たれたかのような夫の顔に“してやったり”と笑ったようでもあった。




