第27話
翌日から、研究室を取り巻く空気が変わった。
最初は些細なことだった。
食堂で、僕が座っている隣の席だけ空いている。書庫で、僕が近づくと会話が途切れる。廊下ですれ違う研究員たちの視線が、どこかよそよそしい。
――よそ者の魔女の息子が、さまよい病の治療法を開発した? 出来すぎじゃないか。
――あいつが毒を撒いて、自分で治療して、英雄ぶってるんだ。自作自演だよ。
そういう噂が流れているのは知っていた。隠蔽派の嫌がらせが、いよいよ本格化したのだ。
馬鹿げている。だが、解毒薬を持っている者が犯人という論法は、一定の説得力を持ってしまう。人の疑念というのは、そういうものだ。
とはいえ、僕は気にしていなかった。元々この都市で孤立しているし、グラニカではいい噂も悪い噂も散々されてきた。今さら何を言われようと、どうでもよかった。
問題は――。
「……ロイ」
アジュが、僕の袖を引いた。
いつもは負けん気の強い彼女の顔が、今日は青白い。最近の僕らを取り巻く雰囲気を彼女は敏感に感じ取っていた。
「いやな感じ、する」
「大丈夫だ。気にするな」
僕は努めて平静に答えた。だが、アジュの手は僕の袖を離さない。
そして、その日の夕方、僕らが今日の研究を終える頃、バリン、という鋭い音が響いた。
「――っ!」
アジュが悲鳴を上げた。
窓ガラスが割れ、こぶし大の石が床を転がっている。
続いて、二つ、三つ。次々と石が投げ込まれ、ガラスの破片が飛び散った。
「アジュ!」
僕は彼女を抱え、机の下に押し込んだ。
アジュは僕の服を握りしめながら、泣きそうな顔で震えている。
「ろい……」
「大丈夫だ」
僕は窓の向こうを見た。
暗闘の向こうに、人影がいくつか、逃げていくのが見えた。
僕は拳を握りしめた。僕に噂が効かないと見て、直接的な威嚇に切り替えてきたのか。
「――今日はもう帰ろう」
僕は立ち上がった。
アジュは不安そうな顔をしていたが、僕の手を握ってきた。
「ろいも、いっしょだからね……」
「ああ。送っていくよ」
* * *
研究室から女子寮までの道は、薄暗かった。
地下都市の夕方。地上の太陽と同期する発光苔は活動を弱め、街は淡い光に包まれている。
人通りは少ない。
アジュの手を引きながら、僕は考え事をしていた。
この道を、アジュはいつも一人で歩いていたのか。
六歳の子供が、この薄暗い路地を、毎日一人で。
僕はずっと、そんなことすら気にかけていなかった。そういえば、ときどきアリスがアジュを送っていく姿を見たことがあった。その役目は僕がやらなければならなかったんじゃないのか?
――最低だな、僕は。
「ろ、ろい……」
アジュの震えた声で、僕は我に返った。
手の中が、空だった。
いつの間にか、アジュの手を離していた。
アジュは――見知らぬ男に抱え上げられていた。
「……っ!」
気がつけば、三人に男たちに囲まれていた。
考え事に没頭するあまり、接近に気づかなかった……!
「ロイ・アヴェイラムだな」
正面の男が言った。顔は布で覆われているが、目だけが薄闇の中で光っている。
「お前の研究が気に入らない連中がいる。わかるな?」
「……隠蔽派のお使いか」
「さすが学者様。賢いじゃないか」
男が薄く笑った。
「簡単な話だ。統一魔力を諦めろ。論文を撤回し、二度とこの件に関わるな。そうすれば――」
そこで、男の目がアジュに向いた。
「――このガキも、無事に寮に帰れる」
「ろ、ろい……ろいっ……」
アジュの恐怖で震える声が、耳に届く。
その瞬間、僕の中で何かが切り替わった。
――考えろ。
相手は三人。武器は短剣と思われる。アジュを人質に取っている以上、正面から突破するのは難しい。
だったら。
僕は両手を上げた。
「……わかった。やめる。統一魔力のことは、もう関わらない」
男たちの緊張が、わずかに緩んだ。
「だから、その子を離してくれ。彼女には何の関係もない」
「……そうか。物わかりがいいじゃないか」
男が薄く笑った。
「だが、保険は必要だ。お前が約束を破らないように、このガキは預からせてもらう」
「それは困る」
「は?」
「彼女は――さまよい病だ」
空気が、凍りついた。
アジュを抱えた男が、ぴくりと動きを止める。
他の二人も、明らかに動揺している。
「……何だと?」
「見ればわかるだろう。初期症状が出ているじゃないか」
もちろん嘘だ。
アジュは恐怖で震えているだけだ。さまよい病なんかじゃない。
だが――この街では、さまよい病は感染するという誤解が広まっている。それも核樹の疲弊を隠すために隠蔽派が流した嘘の一つだ。
「そ、そんな話は聞いていない――」
「だから僕が治療しているんだ。まだ完治していない。抱えていると、お前たちにも……」
言い終わる前に、男がアジュを放った。
「――っ!」
アジュの小さな体が、宙に投げ出される。
――今だ。
僕は右手の指先に意識を集中した。
無属性魔力――形を持たない、透明な力。
この距離なら――。
男の頭の位置を狙いすまし、僕の指先から、放つ。
肉眼ではほとんど見えない。ただ、空気が震えるような感覚。
次の瞬間、男が――崩れ落ちた。
同時に、僕は足に魔力を流し込んだ。
身体強化――筋肉と骨格を一時的に強化する。
一歩で、距離を詰める。
落下するアジュを、両腕で柔らかく受け止める。
衝撃を殺しながら、地面を滑り、砂埃が舞い上がった。
そして、アジュを抱えたまま、僕は残りの二人と対峙した。
「うわぁぁああん。ろいっ……ひぐっ……ろいーっ」
「大丈夫。目を閉じて」
泣き叫ぶアジュを背中に庇いながら、僕は二人を睨みつけた。
「……え? おい、なんで――」
残りの二人が、呆然としている。
リーダーらしき男は、地面に倒れていた。首の付け根に、小さな穴が開いている。
僕は右手を上げた。
二人の顔が、恐怖に歪むのがわかった。
――逃げるか、向かってくるか。
だが、そのどちらでもなかった。
路地の奥から、さらに人影が飛び出してくる。
くそっ。五人、六人――まだ仲間がいたのか……。
全員で八人。
アジュを抱えたままこの人数を相手できるだろうか……。
そう思った次の瞬間、風が吹いた。
いや、風じゃない。
人だ。
何かが――誰かが、僕の横を通り過ぎた。
そして、僕は咄嗟にアジュの視界を両手で塞ぐ。
次の瞬間、男たちがまとめて崩れ落ちた。
一瞬だった。
倒れた男たちの中心に、一人の男が立っていた。
「無事か?」
散歩でもしてきたかのような、平然とした顔でクインタスが言った。
「ああ……」
僕は喉の奥から声を絞り出した。
「ロイ、勝手に死ぬな」
アジュを守りながら戦うのは不安があったが、そう簡単に死ぬほど、か弱くはない。
「……店主が思うほど、僕は弱くない」
クインタスは死体を一瞥した。
「俺よりは弱いだろう」
その言葉に僕は眉をひそめた。
「どこにいるんだよ。あんたより強いやつ」
「お前の父親」
「……なるほど」
この上なく納得の回答だ。
僕の父・ルーカス・アヴェイラムは、グラニカ王国で一、二を争う実力者だという。逆に言えば、あのレベル以外ならなんとかなるということだ。なんと、心強い用心棒だろうか。
「ろ、ろい……」
アジュが、僕の服を掴んでいる。
「もう大丈夫だ」
アジュの目を覆い隠したまま、努めて優しい声を出した。
「う、うん。でも見えないよ?」
「見なくていい」
クインタスがこちらを見た。その目が、一瞬だけ――柔らかくなったように見えた。
そして何も言わず、彼はアジュの頭をぽんぽんと撫でた。
* * *
少しして、足音が聞こえた。
二人組――片方は白い法衣、片方は黒い外套。それと猫。
『双璧』と呼ばれる、この都市の治安維持部隊だ。
都市の特権階級である神官と研究員は、決められた年齢になると、都市を守る役目を二年間務めなければならない。これを奉職義務というらしい。
そして――二人組の前を走る、灰色の影。
灰色の毛並みに、煤のような黒い斑点がある。
煤猫だ。
この街に古くから住みつく猫で、ときどき街を歩く姿を見かける。
煤猫は路地に入ってくると、迷わず僕たちの方へ向かってきた。
そして、アジュの足元にすり寄り、にゃあと鳴いた。
「……ねこ?」
アジュが声を上げた。
僕の手で目を覆われたままのアジュの足に、煤猫が体を擦り付けている。
しばらく、アジュはその猫の感触に集中していた。
ふわふわとした毛並み。温かい体温。
ゆっくりと、アジュの体から、張り詰めた空気が抜けていくのがわかった。
「あれあれ、結構派手にやっちゃいました?」
煤猫に追いついた女の神官が、死体の山を見下ろしてから、僕に尋ねた。
彼女の目は笑っていて、声も軽いが、尋問されているような圧力を感じる。
冷汗が出る。
僕らは反撃しただけだ。
だけど、この街での僕の悪評を思うと、厄介なことになるのは必至だった。
「襲われたんだ。研究室からの帰り道に」
「あなたは、魔力形態学研究室のアヴェイラム研究員ですね」
コンビのもう一人、黒い外套の男の研究員が一歩前に進み出た。
眼鏡の奥の目が、どこか真剣だ。
「お噂はかねがね」
「そうですか」
「統一魔力の論文、読ませていただきました」
「……え?」
驚いた。てっきりよそ者とか、魔女の子といった噂の方かと思った。
「エルサ・アヴェイラム教授の論文が発表されたとき、僕たち研究者は熱狂しました。統一魔力という夢物語が、一夜にして実用の射程に入った。……あれは、革命でした」
研究員の目が、熱を帯びている。
「そして、あなたの論文。彼女の理論を下敷きに、ついに統一魔力を完成させた。母から子へ、理論が受け継がれ、実を結んだ。……あなたたち親子と同時代に生きられたこと、研究者として、幸運に思います」
「ちょっと学者さま、今は尋問中ですよー?」
神官が呆れたように割り込んだ。
「黙りなさい。この方がどれほどのことを――」
「はいはい。ファンレターは後で送ってくださいねー」
「学術的な敬意です」
「同じですよぉ」
研究員がむきになって反論するが、神官は軽くあしらった。
僕は黙っていた。
母から子へ、理論が受け継がれ――。
その言葉が、耳に残った。
母は魔女と呼ばれている。人を奴隷に変える技術を作った、呪われた天才。
だが、僕が受け継いだのは母の血ではなく、研究者エルサ・アヴェイラムの理論なのだ。
……そうだ。
あの論文の美しさは、本物だった。
僕はそれを読んで、震えた。
その事実は、消えない。
「……あの、それで、尋問は」
僕たちをほったらかして言い合う二人に、そっと割り込んだ。
「あっ。そうでした、そうでした」
神官がひらひらと手を振った。
「見ればわかりますよ。こいつら統治区のゴロツキでしょう」
「巫女、勝手に断定しないでください。ちゃんと検分してから――」
「学者さまー、私の推理が間違ったことあります?」
「二度あったでしょう」
二人は小気味よく軽口を言い合いながら、仕事を始めた。
神官がてきぱきと現場を検分し、研究員が渋々記録を取る。
「ほらほら、遅いですよ、学者さま。そのご立派な頭脳をしっかりお使いになって?」
「……巫女、今僕を馬鹿にしましたか?」
「あら、学者さま。私ごときが偉大なる学者さまを馬鹿にするなんて。そんなそんな」
「……ならいいのですが」
「あ」
神官が思い出したように、こちらを向く。
「もう帰ってもらって構いませんよ。だいたい終わりましたし、そちらの所属はわかってるのでー」
まじめなのか不真面目なのかよくわからないが、仕事が早いのはいいことだ。
「ウチの猫様、すっかりあの子のことを気に入ったみたいですねー」
神官が僕の後方に目をやった。
僕も振り向いてそちらを見れば、アジュが猫と戯れていた。
「煤猫が事件の匂いを嗅ぎ分けるというのは、本当ですか?」
前にアリスに、そんなことを聞いた覚えがある。
「そうですよー。猫様が動かれたので、こうして私どもはやってきたんです」
「猫様は絶対です」
神官の言葉に研究員も真顔で頷いた。
口論ばかりしているこの二人が、猫にだけは完全に同意しているのが面白かった。
話を切り上げ、僕はクインタスとアジュのところまで行った。僕がやってくると、煤猫はさっとアジュの手をすり抜け、双璧の二人のもとへ戻っていった。
「――噂よりも、ずっといいお兄ちゃんでしたねー」
「同意します」
後ろで、そう話す神官と研究者の声が聞こえた。
アジュにお別れを言うように、煤猫が小さく鳴いた。
* * *
女子寮の前まで来た。
「ろい」
「なんだ?」
「さっきの人。わたしを捕まえた人」
男の顔が思い浮かんだ。アジュを人質に取ろうとした、あのゴロツキだ。
「あれが、どうかしたか?」
「前に見たことある」
アジュは、少し考え込むように視線を落とした。
「クロエの資料を持っていった人。あの人だった」
僕は息を呑んだ。
アジュは、クロエと怖い顔で話していた男のことを、神殿の服を着てた人、と言っていた。
だが、さっきのはどう見ても、ただのゴロツキだ。
神官のふりをしていた? なぜ?
「間違いないか?」
「顔、覚えてる」
アジュは静かに頷いた。
見たものを忘れない彼女の記憶は、信用できる。
クロエの死。資料の持ち去り。そして今日の襲撃。全て繋がっている。
「……わかった。ありがとう、アジュ」
僕は彼女の頭を軽く撫でた。
それから、話題を変えた。
「明日から、アジュの送り迎えをするよ」
アジュが目を丸くした。
「研究室と寮の往復。僕が一緒に行く。毎日」
「……いいの?」
「いいも何も――」
僕は言葉を切った。
今まで放置していた自分が情けない。六歳の子供を、毎日一人で暗い道を歩かせていたなんて。
「――もっと早くそうするべきだった。ごめん。気が回らなくて」
アジュは少しの間、僕を見つめていた。
それから、ふわりと――本当に、ふわりと――笑った。
「いいよ。ロイだもん、しょうがないよ」
辛辣なアジュの言葉を、僕は甘んじて受け入れようと思う。




