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8歳から始める魔法学  作者: 上野夕陽
第七章

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第27話


 翌日から、研究室を取り巻く空気が変わった。


 最初は些細なことだった。

 食堂で、僕が座っている隣の席だけ空いている。書庫で、僕が近づくと会話が途切れる。廊下ですれ違う研究員たちの視線が、どこかよそよそしい。


 ――よそ者の魔女の息子が、さまよい病の治療法を開発した? 出来すぎじゃないか。

 ――あいつが毒を撒いて、自分で治療して、英雄ぶってるんだ。自作自演だよ。


 そういう噂が流れているのは知っていた。隠蔽派の嫌がらせが、いよいよ本格化したのだ。

 馬鹿げている。だが、解毒薬を持っている者が犯人という論法は、一定の説得力を持ってしまう。人の疑念というのは、そういうものだ。

 

 とはいえ、僕は気にしていなかった。元々この都市で孤立しているし、グラニカではいい噂も悪い噂も散々されてきた。今さら何を言われようと、どうでもよかった。


 問題は――。


「……ロイ」


 アジュが、僕の袖を引いた。

 いつもは負けん気の強い彼女の顔が、今日は青白い。最近の僕らを取り巻く雰囲気を彼女は敏感に感じ取っていた。


「いやな感じ、する」


「大丈夫だ。気にするな」


 僕は努めて平静に答えた。だが、アジュの手は僕の袖を離さない。


 そして、その日の夕方、僕らが今日の研究を終える頃、バリン、という鋭い音が響いた。


「――っ!」


 アジュが悲鳴を上げた。

 窓ガラスが割れ、こぶし大の石が床を転がっている。

 続いて、二つ、三つ。次々と石が投げ込まれ、ガラスの破片が飛び散った。


「アジュ!」


 僕は彼女を抱え、机の下に押し込んだ。

 アジュは僕の服を握りしめながら、泣きそうな顔で震えている。


「ろい……」


「大丈夫だ」


 僕は窓の向こうを見た。

 暗闘の向こうに、人影がいくつか、逃げていくのが見えた。

 僕は拳を握りしめた。僕に噂が効かないと見て、直接的な威嚇に切り替えてきたのか。


「――今日はもう帰ろう」


 僕は立ち上がった。

 アジュは不安そうな顔をしていたが、僕の手を握ってきた。


「ろいも、いっしょだからね……」


「ああ。送っていくよ」






 * * *






 研究室から女子寮までの道は、薄暗かった。

 地下都市の夕方。地上の太陽と同期する発光苔は活動を弱め、街は淡い光に包まれている。


 人通りは少ない。

 アジュの手を引きながら、僕は考え事をしていた。

 

 この道を、アジュはいつも一人で歩いていたのか。

 六歳の子供が、この薄暗い路地を、毎日一人で。

 僕はずっと、そんなことすら気にかけていなかった。そういえば、ときどきアリスがアジュを送っていく姿を見たことがあった。その役目は僕がやらなければならなかったんじゃないのか?


 ――最低だな、僕は。


「ろ、ろい……」


 アジュの震えた声で、僕は我に返った。

 手の中が、空だった。


 いつの間にか、アジュの手を離していた。

 アジュは――見知らぬ男に抱え上げられていた。


「……っ!」


 気がつけば、三人に男たちに囲まれていた。

 考え事に没頭するあまり、接近に気づかなかった……!


「ロイ・アヴェイラムだな」


 正面の男が言った。顔は布で覆われているが、目だけが薄闇の中で光っている。


「お前の研究が気に入らない連中がいる。わかるな?」


「……隠蔽派のお使いか」


「さすが学者様。賢いじゃないか」


 男が薄く笑った。


「簡単な話だ。統一魔力を諦めろ。論文を撤回し、二度とこの件に関わるな。そうすれば――」


 そこで、男の目がアジュに向いた。


「――このガキも、無事に寮に帰れる」


「ろ、ろい……ろいっ……」


 アジュの恐怖で震える声が、耳に届く。

 その瞬間、僕の中で何かが切り替わった。


 ――考えろ。

 相手は三人。武器は短剣と思われる。アジュを人質に取っている以上、正面から突破するのは難しい。

 だったら。


 僕は両手を上げた。


「……わかった。やめる。統一魔力のことは、もう関わらない」


 男たちの緊張が、わずかに緩んだ。


「だから、その子を離してくれ。彼女には何の関係もない」


「……そうか。物わかりがいいじゃないか」


 男が薄く笑った。


「だが、保険は必要だ。お前が約束を破らないように、このガキは預からせてもらう」


「それは困る」


「は?」


「彼女は――さまよい病だ」


 空気が、凍りついた。


 アジュを抱えた男が、ぴくりと動きを止める。

 他の二人も、明らかに動揺している。


「……何だと?」


「見ればわかるだろう。初期症状が出ているじゃないか」


 もちろん嘘だ。

 アジュは恐怖で震えているだけだ。さまよい病なんかじゃない。

 だが――この街では、さまよい病は感染するという誤解が広まっている。それも核樹の疲弊を隠すために隠蔽派が流した嘘の一つだ。


「そ、そんな話は聞いていない――」


「だから僕が治療しているんだ。まだ完治していない。抱えていると、お前たちにも……」


 言い終わる前に、男がアジュを(ほう)った。


「――っ!」


 アジュの小さな体が、宙に投げ出される。


 ――今だ。


 僕は右手の指先に意識を集中した。

 無属性魔力――形を持たない、透明な力。

 この距離なら――。


 男の頭の位置を狙いすまし、僕の指先から、放つ。

 肉眼ではほとんど見えない。ただ、空気が震えるような感覚。


 次の瞬間、男が――崩れ落ちた。


 同時に、僕は足に魔力を流し込んだ。

 身体強化――筋肉と骨格を一時的に強化する。


 一歩で、距離を詰める。

 落下するアジュを、両腕で柔らかく受け止める。


 衝撃を殺しながら、地面を滑り、砂埃が舞い上がった。

 そして、アジュを抱えたまま、僕は残りの二人と対峙した。


「うわぁぁああん。ろいっ……ひぐっ……ろいーっ」


「大丈夫。目を閉じて」


 泣き叫ぶアジュを背中に庇いながら、僕は二人を睨みつけた。


「……え? おい、なんで――」


 残りの二人が、呆然としている。

 リーダーらしき男は、地面に倒れていた。首の付け根に、小さな穴が開いている。


 僕は右手を上げた。

 二人の顔が、恐怖に歪むのがわかった。


 ――逃げるか、向かってくるか。


 だが、そのどちらでもなかった。


 路地の奥から、さらに人影が飛び出してくる。

 くそっ。五人、六人――まだ仲間がいたのか……。


 全員で八人。

 アジュを抱えたままこの人数を相手できるだろうか……。

 そう思った次の瞬間、風が吹いた。


 いや、風じゃない。

 人だ。

 何かが――誰かが、僕の横を通り過ぎた。


 そして、僕は咄嗟にアジュの視界を両手で塞ぐ。

 次の瞬間、男たちがまとめて崩れ落ちた。


 一瞬だった。

 倒れた男たちの中心に、一人の男が立っていた。


「無事か?」


 散歩でもしてきたかのような、平然とした顔でクインタスが言った。


「ああ……」


 僕は喉の奥から声を絞り出した。


「ロイ、勝手に死ぬな」


 アジュを守りながら戦うのは不安があったが、そう簡単に死ぬほど、か弱くはない。


「……店主が思うほど、僕は弱くない」


 クインタスは死体を一瞥した。


「俺よりは弱いだろう」


 その言葉に僕は眉をひそめた。


「どこにいるんだよ。あんたより強いやつ」


「お前の父親」


「……なるほど」


 この上なく納得の回答だ。

 僕の父・ルーカス・アヴェイラムは、グラニカ王国で一、二を争う実力者だという。逆に言えば、あのレベル以外ならなんとかなるということだ。なんと、心強い用心棒だろうか。


「ろ、ろい……」


 アジュが、僕の服を掴んでいる。


「もう大丈夫だ」


 アジュの目を覆い隠したまま、努めて優しい声を出した。


「う、うん。でも見えないよ?」


「見なくていい」


 クインタスがこちらを見た。その目が、一瞬だけ――柔らかくなったように見えた。

 そして何も言わず、彼はアジュの頭をぽんぽんと撫でた。






 * * *






 少しして、足音が聞こえた。

 二人組――片方は白い法衣、片方は黒い外套。それと猫。


 『双璧』と呼ばれる、この都市の治安維持部隊だ。

 都市の特権階級である神官と研究員は、決められた年齢になると、都市を守る役目を二年間務めなければならない。これを奉職義務というらしい。


 そして――二人組の前を走る、灰色の影。

 灰色の毛並みに、煤のような黒い斑点がある。


 煤猫(すすねこ)だ。

 この街に古くから住みつく猫で、ときどき街を歩く姿を見かける。


 煤猫は路地に入ってくると、迷わず僕たちの方へ向かってきた。

 そして、アジュの足元にすり寄り、にゃあと鳴いた。


「……ねこ?」


 アジュが声を上げた。

 僕の手で目を覆われたままのアジュの足に、煤猫が体を擦り付けている。


 しばらく、アジュはその猫の感触に集中していた。

 ふわふわとした毛並み。温かい体温。

 ゆっくりと、アジュの体から、張り詰めた空気が抜けていくのがわかった。


「あれあれ、結構派手にやっちゃいました?」


 煤猫に追いついた女の神官が、死体の山を見下ろしてから、僕に尋ねた。

 彼女の目は笑っていて、声も軽いが、尋問されているような圧力を感じる。


 冷汗が出る。

 僕らは反撃しただけだ。

 だけど、この街での僕の悪評を思うと、厄介なことになるのは必至だった。


「襲われたんだ。研究室からの帰り道に」


「あなたは、魔力形態学研究室のアヴェイラム研究員ですね」


 コンビのもう一人、黒い外套の男の研究員が一歩前に進み出た。

 眼鏡の奥の目が、どこか真剣だ。


「お噂はかねがね」


「そうですか」


「統一魔力の論文、読ませていただきました」


「……え?」


 驚いた。てっきりよそ者とか、魔女の子といった噂の方かと思った。


「エルサ・アヴェイラム教授の論文が発表されたとき、僕たち研究者は熱狂しました。統一魔力という夢物語が、一夜にして実用の射程に入った。……あれは、革命でした」


 研究員の目が、熱を帯びている。


「そして、あなたの論文。彼女の理論を下敷きに、ついに統一魔力を完成させた。母から子へ、理論が受け継がれ、実を結んだ。……あなたたち親子と同時代に生きられたこと、研究者として、幸運に思います」


「ちょっと学者さま、今は尋問中ですよー?」


 神官が呆れたように割り込んだ。


「黙りなさい。この方がどれほどのことを――」


「はいはい。ファンレターは後で送ってくださいねー」


「学術的な敬意です」


「同じですよぉ」


 研究員がむきになって反論するが、神官は軽くあしらった。


 僕は黙っていた。

 母から子へ、理論が受け継がれ――。

 

 その言葉が、耳に残った。

 母は魔女と呼ばれている。人を奴隷に変える技術を作った、呪われた天才。

 だが、僕が受け継いだのは母の血ではなく、研究者エルサ・アヴェイラムの理論なのだ。

 

 ……そうだ。

 あの論文の美しさは、本物だった。


 僕はそれを読んで、震えた。

 その事実は、消えない。


「……あの、それで、尋問は」


 僕たちをほったらかして言い合う二人に、そっと割り込んだ。


「あっ。そうでした、そうでした」


 神官がひらひらと手を振った。


「見ればわかりますよ。こいつら統治区のゴロツキでしょう」


「巫女、勝手に断定しないでください。ちゃんと検分してから――」


「学者さまー、私の推理が間違ったことあります?」


「二度あったでしょう」


 二人は小気味よく軽口を言い合いながら、仕事を始めた。

 神官がてきぱきと現場を検分し、研究員が渋々記録を取る。


「ほらほら、遅いですよ、学者さま。そのご立派な頭脳をしっかりお使いになって?」


「……巫女、今僕を馬鹿にしましたか?」


「あら、学者さま。私ごときが偉大なる学者さまを馬鹿にするなんて。そんなそんな」


「……ならいいのですが」


「あ」


 神官が思い出したように、こちらを向く。


「もう帰ってもらって構いませんよ。だいたい終わりましたし、そちらの所属はわかってるのでー」


 まじめなのか不真面目なのかよくわからないが、仕事が早いのはいいことだ。


「ウチの猫様、すっかりあの子のことを気に入ったみたいですねー」


 神官が僕の後方に目をやった。

 僕も振り向いてそちらを見れば、アジュが猫と戯れていた。


「煤猫が事件の匂いを嗅ぎ分けるというのは、本当ですか?」


 前にアリスに、そんなことを聞いた覚えがある。


「そうですよー。猫様が動かれたので、こうして私どもはやってきたんです」


「猫様は絶対です」


 神官の言葉に研究員も真顔で頷いた。

 口論ばかりしているこの二人が、猫にだけは完全に同意しているのが面白かった。


 話を切り上げ、僕はクインタスとアジュのところまで行った。僕がやってくると、煤猫はさっとアジュの手をすり抜け、双璧の二人のもとへ戻っていった。


「――噂よりも、ずっといいお兄ちゃんでしたねー」


「同意します」


 後ろで、そう話す神官と研究者の声が聞こえた。

 アジュにお別れを言うように、煤猫が小さく鳴いた。






 * * *






 女子寮の前まで来た。


「ろい」


「なんだ?」


「さっきの人。わたしを捕まえた人」


 男の顔が思い浮かんだ。アジュを人質に取ろうとした、あのゴロツキだ。


「あれが、どうかしたか?」


「前に見たことある」


 アジュは、少し考え込むように視線を落とした。


「クロエの資料を持っていった人。あの人だった」


 僕は息を呑んだ。

 アジュは、クロエと怖い顔で話していた男のことを、神殿の服を着てた人、と言っていた。

 だが、さっきのはどう見ても、ただのゴロツキだ。

 神官のふりをしていた? なぜ?


「間違いないか?」


「顔、覚えてる」


 アジュは静かに頷いた。

 見たものを忘れない彼女の記憶は、信用できる。

 クロエの死。資料の持ち去り。そして今日の襲撃。全て繋がっている。


「……わかった。ありがとう、アジュ」


 僕は彼女の頭を軽く撫でた。

 それから、話題を変えた。


「明日から、アジュの送り迎えをするよ」


 アジュが目を丸くした。


「研究室と寮の往復。僕が一緒に行く。毎日」


「……いいの?」


「いいも何も――」


 僕は言葉を切った。

 今まで放置していた自分が情けない。六歳の子供を、毎日一人で暗い道を歩かせていたなんて。


「――もっと早くそうするべきだった。ごめん。気が回らなくて」


 アジュは少しの間、僕を見つめていた。

 それから、ふわりと――本当に、ふわりと――笑った。


「いいよ。ロイだもん、しょうがないよ」


 辛辣なアジュの言葉を、僕は甘んじて受け入れようと思う。


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― 新着の感想 ―
自分達が噂を流そうと考えるんだ、相手が同じことやもっと直接的なことをしてこない道理もない。
いい,お兄ちゃんだー
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