第28話
アジュを女子寮に送り届けた後、研究室に戻ると、クインタスが割れた窓ガラスの応急処置をしていた。
「悪い、遅くなった」
「気にするな。アジュは送ったのか」
「ああ。明日から送り迎えをすることにした」
クインタスは手を止めず、黙々と作業を続けていた。
「俺もロイを迎えにいくべきか?」
「……いや、店主はカエを一人にできないだろう。それに、さっきも言ったけど、僕は店主が思うほど弱くない」
「そうか」
体が重い。頭も重い。全身に疲労が染み込んでいる。
今日、アジュを守るために人を殺した。
後悔はない。ネハナに来る前にも、盗賊を何人か殺している。
ただ、進んでやりたいことでもなかった。
「……店主」
「何だ」
「僕は、アジュやカエのことが、思っていた以上に大切らしい」
クインタスの手が止まった。
「……さっき、アジュが攫われそうになったとき、すごく怖かったんだ。おかしいよな。僕のようなやつに、こんな感情があるなんて」
言葉にすると、改めて実感する。
クインタスは、窓の修繕を再開した。
何も言わない彼から目を離し、僕はソファに身を沈めた。
「――俺のようなやつでも、お前を守りたいと思えた」
クインタスがぽつりと零した。
「……そうだったな」
僕は天井を見上げた。
割れた窓から、夜の空気が流れ込んでくる。
地下都市の夜。発光苔が弱まった、薄明かりの夜だ。
* * *
翌日、僕は、ハルを呼び出した。
待ち合わせ場所は、核樹に近い、静かな回廊。
根の回廊というらしい。
僕が着いたとき、ハルはすでにそこにいた。
「……来たか」
ハルの声は硬い。
当然だ。前回、僕たちは最悪の形で別れた。
「話がある」
「聞こう」
ハルは腕を組んだまま、僕を見つめた。
その目には、警戒と――かすかな期待が混じっているように見えた。
「まず、謝らせてくれ」
「……何を」
「衛生区で、君にぶつかったとき。あの瓶のことを、疑った」
ハルの目が、わずかに揺れた。
「君が何かを隠していると思った。さまよい病に関わる何かを。……それは、間違いだった」
あのとき、僕はこの街で受けた理不尽な敵意を、目の前のハルにぶつけていた。
送魔線技師を吹き飛ばした傲慢な神官。よそ者を排斥するこの街の空気。そして、母やアヴェイラム。そういったものへの苛立ちをすべて、ハル個人に向けた。
「君は、呼び水の務めで自分を削りながら、核樹を守ろうとしていた。それを知らずに、疑って、問い詰めた。……悪かった」
ハルは黙っていた。
しばらくの沈黙の後、彼は小さく息を吐いた。
「……私もあの頃は周りが見えていなかった。お相子だ」
「……」
「それに。ロイ、お前はカエを救い、さまよい病の治療法を見つけ、統一魔力を完成させた。私よりもずっと、都のために動いていた」
ハルが、初めて目を伏せた。
「……私の方こそ、謝るべきだった」
僕たちは、しばらく黙って立っていた。
回廊に、風が吹いた。核樹の枝が揺れる音がする。
「――それで、話というのは?」
ハルが顔を上げた。
「あの作戦はやめにした。恐怖や不安を煽るやり方を、僕は選ばない」
ハルの目が、わずかに見開かれた。
「……本気か」
「本気だ」
僕は頷いた。
あの夜、ハルは僕に言った。アジュとカエの前で胸を張れるなら続けるといい、と。
あの言葉が、ずっと頭に残っていた。
「だが……代わりの手段は?」
「これから考える」
正直に答えた。
「これから……か」
「心配しないでくれ。必ず見つける。僕はこれまでもそうしてきた」
ハルは僕を見つめていた。
その目には、もう警戒はなかった。
「……わかった。できることがあれば、私も協力しよう」
「ああ」
僕たちは、互いに頷き合った。
わだかまりが、溶けていくのを感じた。
* * *
ハルにああ言った手前、早く代替案を思いつく必要がある。今でも後ろ髪を引かれる思いはある。恐怖を煽って統一魔力の必要性を社会に埋め込むのが手っ取り早い。でも、その手段を取ろうとすると、アジュやカエの顔が思い浮かぶ。
僕は研究室のソファに寝転がっていた。
体が動かない。
ここ数日、ろくに眠れていなかった。外の世界では毎日誰かが奴隷にされている。そう思うと、目を閉じていても焦燥感が消えない。
――情けない。
隠蔽派に嫌がらせを受けて、アジュを危険に晒して、ハルとも衝突して。
強がったくせに、代わりの手段は思いつかない。
行き詰まっている。完全に。
扉が開く音がした。
「ロイ」
ハルの声だった。
僕は起き上がる気力もなく、そのまま寝転がっていた。
「……何か用か」
「様子を見に来た」
足音が近づいてくる。
ハルがソファの横に立っているのがわかった。
ハルは寝転がる僕の隣に座った。
そして、何を思ったのか、僕の頭に鼻を近づけて、すんすんとにおいをかいだ。
「ロイ、最後に湯あみしたのはいつだ?」
思い出そうとして、今がいつかもわからないことに気づく。
僕はハルを両手で押して、逃げるようにソファの反対側の端へ寄った。
「……反応が過剰じゃないか?」
「嫌いなんだ。自分の醜さに触れられるのが」
「それは……理解できるな」
ハルは苦笑いをした。
彼もまた、大きな期待と責任に押しつぶされそうになりながらも、弱さを隠し通してきた男だ。期待に応えるのは疲れるし、勝手に祭り上げられたり、悲劇の主人公にされるのはうざったい。
とはいえ、今回は僕がしばらく風呂に入っていなくて不衛生だというだけの話だ。
さっさと体を綺麗にしてこようと思う。
「浴場に行ってくる」
ハルが頷いたのを見て、僕はソファから立ち上がった。
部屋から出る前に、背中に声がかけられた。
「私はお前の醜さを気にしないとだけ言っておこう」
僕は立ち止まった。
振り返って何かを言い返そうかと思ったが、結局何も言わずに廊下に出た。
醜さを気にしない、か。
清廉潔白でなくてもいい。泥臭くても、醜くても、前に進んでいい。
ハルは、そう言ってくれているのかもしれない。
浴場への廊下を歩きながら、僕は少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。




