第26話
アリスが研究室に現れたのは、日が沈み始めた頃だった。
彼女は無言で僕の前に紙束を置いた。外界から持ち込まれた新聞や報告書の写しだ。ネハナは隠れ里である以上、外の情報が入ってくること自体が稀だが、アリスは諜報を得意としている。
彼女が普段何をしているのかは知らないが、もしかしたら都市の外へ頻繁に出ているのかもしれない。
「最新の情勢よ。目を通しておいて」
僕は紙をめくった。読み進めるほどに、胃の底が冷えていく。
――グラニカ帝国、南方遠征を拡大。アイヒ大陸第三次侵攻を発表。
――周辺諸国、『資源確保協定』に署名。
――『統一魔力変換技術』の普及により、エネルギー需要が爆発的に増大。各国の奴隷調達競争が激化。
そして、その技術の開発者として、繰り返し現れる名前。
エルサ・アヴェイラム。僕の母の名だ。
「……」
紙を握る手が震えた。
僕が誘拐されたことが、この狂気の引き金になった。グラニカはそれを最大限に利用し、急進的な軍拡と奴隷化を正当化した。
母の変換技術は、本来なら人類全体を豊かにするはずだった。だが今、それは奴隷化魔法と結びつき、人間を生きた魔力タンクに変える道具として使われている。
僕は統一魔力の生成を成し遂げた。母の変換よりも上位の技術だ。
これが広まれば、奴隷から魔力を搾り取る必要はなくなる。母の技術は陳腐化し、帝国主義の歯車は止まる……はずだ。
だが――。
僕は研究室の壁を見つめた。
この閉じた地下都市の中で、僕の論文がいくら評価されようと、外には届かない。
ネハナは外界に知られていない隠れ里だ。情報が漏れることはない。
つまり、僕がここで何を成し遂げようと、外の世界は変わらない。
「……急がないと」
呟いた声は、自分でも驚くほど切迫していた。
「外の世界は止まらない。毎日、誰かが奴隷にされている。僕がぐずぐずしている間に」
「焦っても仕方ないわ」
アリスは冷静だった。
「ネハナは技術の流出を何よりも嫌う。特に、統一魔力なんて切り札、絶対に手放さないわ」
アリスは冷ややかな声で告げた。
「無理やり外に持ち出そうとすれば、あなたは技術を持ち逃げする裏切り者とみなされる。『双璧』だって動くでしょうね」
「……」
「だから、まずはこの都市で社会実装を成功させるしかないの。話はそれからよ」
「わかってる。わかってはいるが――」
そのとき、扉が開いた。
ハルだった。
彼は質素な外套を脱ぎながら、僕たちの方へ歩いてきた。その顔は、いつものように無表情だが、どこか疲労の色が見える。
「先代に会って、話をしてきた」
「どうだった」
「協力を取り付けた。有事の際に、彼女はこちらに味方する」
ハルは簡潔に報告した。
「ただし、時間がかかる。祭主様を守りながら、長官の横暴を正すには、神殿内部での根回しが必要だ。拙速に動けば、逆に弾圧されるでしょう」
「時間……」
僕はその言葉を噛み締めた。
時間。
外の世界では、毎日誰かが死んでいる。奴隷にされている。人間として扱われなくなっている。
なのに、時間がかかる?
「もっと早い方法はないのか」
「ない」
ハルは断言した。
「政治とはそういうものです。急いで崩れるよりも、確実に積み上げる方がむしろ早い」
「確実に積み上げている間に、何人死ぬんだ」
僕の声が尖った。ハルは眉をひそめた。
「何を言っている」
「外の世界は待ってくれない。グラニカは今日も侵略している。僕の母は今日も奴隷を作っている。僕たちがここで悠長に根回しをしている間に」
「だからと言って、急いでも仕方がないでしょう」
ハルは、宥めるように言った。
「もっといい方法があるはずだ」
頭の中で、ある考えが形を成していた。最初からそこにあったのかもしれない。ずっと目を背けていた、最も手っ取り早い方法。
「嘘を流そう」
「……何?」
「民の不安を煽るんだよ。たとえば、そうだな……核樹の病気が子供の発達に悪影響を及ぼしている、とか。そういう噂を流すんだ」
ハルの顔から、表情が消えた。
「なぜこの都市に統一魔力が必要かといえば、それは、核樹がもうすでに限界だからだろう? つまり、僕らは、隠蔽派が隠すその事実を広めればいい」
「それなら、単に事実を流せばいい。わざわざつまらぬ嘘で不安を煽るべきではない」
「情報というのは、正しければ広がるわけじゃない。恐怖、不安、疑念。それらが最も拡散力が高い。真実かどうかは関係がない」
「だから、嘘で民を操ると? それはあなたが倒そうとしている連中と、何が違うのですか?」
ハルの声は、氷のように冷たかった。
「違う! 僕は、この都市を救おうとしているんだ!」
「悪いが、子供を思う親の心を利用することが正しいとは思えない」
「正しさがなんだよ。敵が嘘の情報を流し、大衆を扇動しているんだ。統一魔力には魂がないなどと非科学的な馬鹿げたことを吹聴しているんだぞ! 僕らがやり返さない道理はないだろ!」
「道理だと?」
ハルの目が、冷たく細められる。
「私は倫理の話をしている」
「はっ。下々の送魔線技師風情を突き飛ばすようなお貴族様が、僕にお説教か?」
言った瞬間、後悔した。だが、もう遅かった。
ハルの顔が怒りの形相に変わる。
次の瞬間、僕は胸倉を掴まれ、ドン、と壁に押さえつけられていた。
「――っ」
背中が壁に叩きつけられる衝撃。ハルの握力が、僕の鎖骨を圧迫する。
彼の目が、至近距離で僕を射抜いた。
「……アジュとカエの前で胸を張れるなら続けるといい」
低く、抑えた声だった。
「私は加担しないがな」
そして、ハルは襟から乱暴に手を離し、僕に背を向けた。
扉が開き、彼が出ていく。
扉が閉まる音の後、沈黙だけが研究室に残った。
「ちっ」
僕は舌打ちをした。
ハルに向けたものじゃない。自分への苛立ちだった。
僕の案が倫理に悖ることくらいわかっている。
目的を達する最良の選択をしないなんて、できないだろ。それが僕で、それが研究者だろう!
あの偉大な研究者、エルサ・アヴェイラムだって……。エルサなら……。
同じ状況であの人がどうするか考えてみても、僕にわかるわけがなかった。僕は母のことを何も知らないのだから。
アリスが、小さく息を吐いた。
「……言い過ぎたわね、ロイ」
「……わかってる」
僕は壁に背をつけたまま、ずるずると座り込んだ。
アリスの声は冷静だった。
「私は、彼みたいに高潔じゃないから、あなたの案も否定しないわ。でも、それをしてしまったら、あなたは、もう以前のあなたじゃなくなる。私のわがままだけどね、ロイにはもっと綺麗な道を歩いてほしいかな」
アリスは立ち上がり、扉へ向かった。
「ま、少し頭を冷やしなさい」
扉が閉まった。
僕は一人、暗くなり始めた研究室に取り残された。
――アジュとカエの前で胸を張れるなら。
ハルの言葉が、頭の中で繰り返される。
あの二人の前で、卑劣な嘘を流したと言えるか?
親に子供を失う恐怖をちらつかせることを、同じ病で苦しんだカエの前で誇らしげに語れるか?
言えるさ。
僕はそういうやつだから。僕の血がそうなんだから。
世界は、待ってくれない。
綺麗事を言っている間に、核樹の病は進行し、さまよい病は広がる。地上では、奴隷化によって、今も誰かが不幸になっている。
暗くなり始めた研究室で一人考え続けたが、思考は堂々巡りするだけだった。




