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8歳から始める魔法学  作者: 上野夕陽
第七章

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第25話


 僕の犬になってもらう。

 そう言ったのは僕のはずだが、ハルは今、アジュとカエの遊び相手になっている。


 研究室にいるのは僕とアジュとカエ、そして何度目かの訪問になるハルだった。


 彼は神官服を脱いで質素な外套を羽織っている。神殿の若き象徴がこんな場末のラボに通うのだから、当然の偽装だ。

 なのだが。


「ほら、こうやって回すと綺麗でしょう」


 ハルは手のひらの上で淡い光の球を回転させていた。百年に一人の才能と言われ、当代の還し手に満場一致で選ばれたその才が、子供を喜ばせる余興に使われている。なんて贅沢な。

 アジュは大喜びで、ハルの前で目を輝かせている。


「もっとはやく回して」


「こうかい?」


 光の球が加速する。アジュは身を乗り出して、珍しく声を上げて笑った。


 僕は机の上の論文から顔を上げ、その光景を凝視する。


 待て。あのアジュが、笑っている?


 僕があの子を笑わせるのにどれだけかかったと思っている。最初は口もきいてくれなかった。目も合わせてくれなかった。僕がどれだけ気を遣って、少しずつ距離を詰めて――。


 なのにこの男は、三度目の訪問でもう懐かれている。


「ちがう! もっとこっち!」


 アジュがハルの手を引っ張っている。引っ張っている! あのアジュが、他人に触れている!

 ハルは嫌がる様子もなく、むしろ穏やかな表情で言われるがままにされていた。引っ張られているのは右手だ。かつて、酷使したせいで魔力溜まりがあった手は、この研究室での治療によって順調に回復している。

 その経過観察は、彼がこの研究室に通う理由の一つにもなっている。


「……」


 僕は無意識のうちにペンを握る手に力を込めていた。

 ペンが軋む音がする。

 いや、別にいいのだ。いいのだが。


 僕が面白くないのは、ハルに対してではない。

 いや、多少はある。あの「触るな」はなんだったのか。あの「二度と私の前に現れるな」は何だったのか。確かに誤解は解けた。彼が拒絶していたのはよそ者の僕ではなく、さまよい病を他人に感染させることだった。でも、それにしたって、あの冷たさと今のアジュやカエに対する柔らかさの落差はなんなのだ。


 だが、本当に面白くないのは、アジュの態度だ。


 僕があの子と打ち解けるのに、どれだけ時間がかかったと思っている。

 何度無視されたか。何度睨まれたか。少しずつ、少しずつ距離を詰めて、ようやく信頼され始めたばかりだというのに。

「アジュ」


 ハルが光の球を消し、真剣な顔でアジュに向き合う。


「君は将来どうなりたい?」


「研究者」


「立派だ。勉強を怠ってはいけないよ」


「当たり前よ! すぐにロイみたいになるんだから!」


「そうか。それは頼もしい」


 ハルとアジュが笑いあった。


「……ハル」


 僕はたまらず声をかけた。


「なんだ」


 振り向いた彼の顔は、もう元の無表情に戻っていた。


「いや……別に」


 何を言えばいいのかわからない。

 そのときだった。


「――凍った泉に最初の一滴を落としたのは、誰だったかしら」


 静かな声が聞こえた。

 カエだ。

 彼女は長椅子に座ったまま、ぼんやりと窓の外を見ている。


「その一滴がなければ、氷は溶けなかった。後から来た者たちは、その一滴のおかげで水を汲めるのよ」


 それは、いつものように物語か何かの引用だった。けれど、彼女の言葉は僕の心を読んで慰めてくれているようだった。


 アジュが今、ハルにこうして打ち解けられるのは、僕が最初に彼女の心を溶かしたからだ、と。

 カエの言葉は、いつも僕の考えを一歩だけ先回りする。


「賢い子だ」


 アジュと戯れていたハルが、カエを見て目を細めた。

 カエはハルの言葉には何も答えず、ちょこんと僕の隣に座った。

 その唇は、かすかに、得意げな笑みを浮かべているように見えた。


「……そうだな」


 僕は小さく頷き、ハルにこちらへ来るよう目で訴えた。


 神殿の扉は、内側からしか開かない。

 だから僕には内側で動く手足が必要で、統一魔力の社会実装は彼にかかっていると言ってもいい。


「それで? 中の様子はどうだ」


「ええ」


 ハルはアジュの頭をぽんと撫でてから――アジュは嫌がらなかった――僕の方へ歩いてきた。


「アジュ、カエ。隣の部屋で待っていてくれ」


 僕がそう言うと、アジュは不満そうに唇を尖らせた。


「なんで?」


「大人の話だ」


「私だって大人だもん」


「六歳は大人じゃない」


 アジュは僕を睨んだが、カエが静かに立ち上がり、アジュの手を取った。

 カエに引かれるまま、アジュは渋々と隣室へ消えていく。


 扉が閉まった瞬間だった。


 ハルの顔から、さっきまでの柔らかさが消えた。

 まるで仮面を付け替えたかのように、そこには冷徹な神官の顔があった。


「……祭主様との謁見が終わった」


 その声は、子供たちと戯れていた時とは別人のように低かった。


「どうだった」


「状況は最悪と言っていいでしょう」


 ハルは僕の正面の椅子に腰を下ろし、額に手を当てた。


「祭主様は……もう、私が知っている祭主様ではないのかもしれない」


「……どういうことだ」


「言葉通りの意味です」


 ハルは目を閉じ、あの日のことを語り始めた。






 * * *






 神殿の最奥。祭主の居室は、静謐な空気に包まれていた。


 ハルは膝をつき、祭主の前に頭を垂れた。

 齢八十を超える老人は、豪奢な椅子に深く沈み込んでいる。かつては都市全体を導いた威厳ある指導者。だが今、その節々には深い疲労の色が浮かんでいた。


「祭主様。還し手のハルにございます」


「……ああ、ハルか」


 祭主は微かに笑んだ。だが、その笑みはどこか薄い。まるで、心ここにあらずのような。


「本日は、核樹様の状態についてご報告に参りました」


「核樹。……そうだな、核樹はどうだ」


 祭主の声は、応答としては自然だった。だがハルの胸に、わずかな違和感が残った。幼い頃、ハルの才能を見抜き、厳しく導いてくれた祭主。

 その威厳が、今の声には見出せなかった。


「はい。実は――」


「祭主様」


 横から、別の声が割って入った。

 統治区長官だ。祭主の傍らに控えていた男が、にこやかな笑みを浮かべて立ち上がる。


「お疲れのところ、長話は禁物でございます。還し手殿、報告は私がお聞きしますので」


「いえ、これは祭主様に直接――」


「祭主様のお身体を案じてのことです」


 長官の笑みは崩れない。だが、その目は笑っていなかった。

 ハルは言葉を飲み込んだ。ここで逆らえば、二度と謁見の機会は与えられないだろう。


 ハルが頭を下げ、引き下がろうとしたときだった。


「……ああ、そうだ。ハル、あれはどうなった」


 祭主が呟いた。

 ハルは足を止めた。


「あれ、とは」


「ほら、あれだ。前に話しておっただろう。……何だったか」


 祭主は溜息を吐いた。

 それが、思い出せないためのものなのか、それとも、思い出せなくなっているという自覚から来るものなのか、ハルには分からなかった。


「……疲れておいでのようです。失礼いたします」


 ハルは低く頭を下げ、居室を後にした。

 背後で、長官が祭主に何か囁いている声が聞こえた。






 * * *






「……それが、謁見の全貌です」


 ハルは目を開け、僕を見た。


「祭主様は、もう判断ができる状態ではない。今、神殿を動かしているのは長官です」


「つまり……長官が実質的に拒否権を握っているわけだな」


 ハルは小さく頷いた。

 神殿の祭主は、賢者会議の決定に対して拒否権を持つ。

 たとえ他の賢者全員が賛成しても、祭主が首を縦に振らなければ、決議は成立しない。


「長官は祭主の拒否権を絶対に手放さないでしょう」


 ハルが深刻な顔で言った。


「だろうな。やつは核樹の疲弊を隠蔽している連中の中心人物だ。魔力供給の利権が崩れる。だから統一魔力は、絶対に通さない」


 長官に受けた屈辱を思い出し、拳に力が入る。


「だからこそ、ハル、君が頼りなんだ」


 僕はハルをまっすぐに見た。ハルは深く頷く。


「……まだ、手はある。先代の還し手様をこちらの味方につけることができれば」


「先代……というと君の前の還し手ということか?」


「ああ。次代の祭主と目されるほど、神殿内でも影響力がある方だ。それに、なにより彼女は、祭主様の現状にとても心を痛めておられる。私が接触し、有事の際の協力を取り付けよう」


「……それは、祭主様に刃を向けることにはならないのか」


「逆です。これは祭主様を守るための行動。判断能力を失った指導者が、悪意ある者に利用されている。それを正すのは、神官としての務めでしょう」


 僕は、ハルの顔をじっと見た。

 そこには、子供たちの前で見せていた柔らかさは微塵もなかった。代わりにあるのは、静かな怒りと、氷のような決意だ。


「……わかった。任せる」


「ええ、是非そうしてください」


 ハルは立ち上がり、外套を羽織り直した。


「次に来るときには、もう少し良い報告ができるでしょう」


 そう言って、彼は隣室の扉を開けた。

 途端に、部屋の中にアジュが飛び込んでくる。


「終わった? ねえ、もう終わった?」


「ああ、終わったよ」


 ハルの声は、もう柔らかかった。

 まるで、さっきまでの冷徹な神官が嘘だったかのように。


 僕は、その背中を見送りながら思った。

 優しさも、冷徹さも、そして自らを省みない献身も、彼にとっては同じ延長線上にある。

 守るために、その都度、振る舞いを選んでいるだけなのだ。


 それが、この男の強さなのかもしれない。


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― 新着の感想 ―
明確に謁見行為というかだからなぁ…。 敵対してもどうにかせざるを得なかろう。
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