第18話 操られない愛
玲音が眠りに落ちてからも、透真はしばらくベッドの傍らを離れなかった。
毛布に包まれた玲音の表情は穏やかだった。昨日、彼女を苦しめていた不安も涙も、今はどこにも見当たらない。規則正しい寝息が聞こえるたびに、透真の胸に安堵が広がっていく。
しかし、その寝顔を見つめていると、昼間の玲音の姿が思い出された。
鍵のかかった部屋で一人きりになり、泣きながら自分に謝り続けていた玲音。
――私が悪いんでしょ。
あの言葉は、まだ耳の奥に残っている。
透真は静かに立ち上がった。
扉を閉めて廊下へ出ると、スマートフォンを取り出す。しばらく画面を見つめてから、若い使用人へ短いメッセージを送った。
『玲音の部屋、明日から鍵は外していい』
送信を終え、スマートフォンをポケットへ戻す。
これで少なくとも、あの扉が玲音を拒むことはなくなる。
透真は一度だけ背後の扉を振り返った。
あの部屋に鍵を掛けたのは、玲音を失うことが怖かったからだ。それが彼女を傷つける行為だと、わからなかったわけではない。
それでも、止められなかった。
もう二度と、同じことを繰り返したくはなかった。
透真は書斎へ向かわず、自室へ戻った。
今夜はもう、何かを調べる気にもなれなかった。
長い廊下には彼の足音だけが響いていた。
静まり返った屋敷の外で、秋の風が木々を揺らしている。
夜は、まだ深かった。
◇
翌朝、玲音が目を覚ましたときには、太陽はすっかり高く昇っていた。
カーテンの隙間から差し込む光が、寝室の床に柔らかな模様を描いている。窓の向こうでは小鳥がさえずり、庭木の葉が風に揺れていた。
「……んん」
玲音はゆっくりと目を開け、大きく伸びをした。
不思議なほど身体が軽かった。
昨日まで胸の奥に居座っていた、息苦しいほどの不安が消えている。何か悲しいことがあったような気もするのに、思い出そうとすると、その輪郭は霧の向こうへ遠ざかってしまう。
「……よく寝たなぁ」
窓の外を眺め、玲音は小さく笑った。
「もう、おそようございますって時間ね」
時計を見れば、朝食には遅すぎる時刻だった。
けれど今日は、急いで何かをしなければならない気分ではない。
透真と一緒にいられる。
それだけで胸が温かくなった。
昨夜、彼がそばにいてくれたことを思い出す。
優しく名前を呼ばれ、安心して眠りについた。
その記憶は確かだった。
玲音は身支度を整え、部屋の扉へ向かった。
ドアノブに手を掛けたところで、ほんの一瞬だけ指先が止まる。
なぜだろう。
何かを確かめなければならないような気がした。
しかし、次の瞬間には何の抵抗もなく扉が開いた。
「……あら」
玲音は少しだけ首を傾げた。
廊下にはいつもと変わらない静けさが広がっている。磨かれた床には窓からの光が映り込み、遠くから食器の触れ合う小さな音が聞こえていた。
何も変わっていない。
そのことに、なぜかほっとした。
「玲音様。おはようございます」
ちょうど廊下を通りかかった若い使用人が、丁寧に頭を下げた。
「朝食のご用意ができております」
「おはよう。ありがとう。今行くわね」
玲音が微笑むと、若い使用人も控えめに笑みを返した。
その表情には昨日までとは違う安堵があったが、玲音は特に気に留めなかった。
軽い足取りで階段を下り、食堂へ向かう。
扉を開くと、窓際の席に透真の姿があった。
「おはよう、透真」
声を掛けると、コーヒーカップを手にしていた透真が顔を上げた。
「おはよう。よく寝た?」
いつもと変わらない穏やかな声だった。
玲音は嬉しそうに彼の向かいへ座る。
「うん、ぐっすり」
そう答えてから、少し考えるように視線を落とした。
「なんだったんだろうね。何か心に引っかかってた気がしたけど……忘れちゃった」
透真の指先に、わずかに力がこもった。
カップの持ち手を握る手が一瞬だけ強張る。
けれど玲音が顔を上げたときには、すでにいつもの微笑みに戻っていた。
「そっか。ぐっすり眠れたならよかった」
「うん」
玲音は頷いた。
昨日のことを思い出そうとしても、あまり意味がないように感じた。
今こうして透真が目の前にいる。
彼が微笑んでくれる。
それだけで、もう十分だった。
「ねえ、透真」
「なに?」
「昨日はすごく心配をかけたと思うの」
玲音は少し申し訳なさそうに笑った。
「だから今日は、ずっと一緒にいてもいい?」
上目遣いに尋ねると、透真はカップをソーサーへ戻した。
「当たり前でしょ」
あまりに自然な返事に、玲音の顔がぱっと明るくなった。
「ほんと!? 嬉しい」
透真はそんな玲音を眺めながら、静かに微笑んだ。
食卓には焼きたてのパンや卵料理、季節の果物が並んでいる。玲音はようやく空腹を思い出したように、嬉しそうに朝食を食べ始めた。
「ふふっ。今日は何をしようかしら?」
「庭の薔薇、そろそろ見頃だよ」
「そうね。じゃあ、お庭でゆっくりお茶がしたいわ」
「いいね」
透真は頷いた。
玲音が食事を楽しんでいる間、彼は何度かその表情を確かめるように見つめていた。
昨日はほとんど食事もできなかった玲音が、今日は美味しそうにパンを頬張っている。
その光景に安堵する一方で、透真の胸には説明しがたい苦さが残った。
彼女が昨日泣いていた理由を、透真は忘れていない。
今朝の玲音は、それをほとんど気にしていないように見える。
それが救いなのかどうか、透真には判断できなかった。
◇
朝食を終えると、二人は庭園へ出た。
「いい天気だね」
透真の言葉に、玲音は大きく頷いた。
「うん。とってもいい天気ね」
秋の空は高く、淡い雲がゆっくりと流れていた。
薔薇園では赤や白、淡いピンクの花が競うように咲いている。新たに開いた花も増えたのだろう。風が吹くたび、柔らかな花弁が石畳へ舞い落ちた。
ガーデンテーブルには、すでにティーセットが用意されていた。
若い使用人が注いでくれた紅茶から、ベルガモットの爽やかな香りが漂う。
「いい香り……」
玲音は嬉しそうにカップを両手で包んだ。
透真が椅子を引いてくれる。
礼を言って腰掛けると、向かいに座った彼も紅茶を手に取った。
薔薇の香りと紅茶の香りが、秋風の中で静かに混ざり合う。
こんな時間が好きだった。
何か特別な出来事があるわけでもなく、ただ大切な人と同じ景色を眺めている。
それだけで心が満たされていく。
玲音はしばらく庭を眺めていたが、ふと透真へ視線を戻した。
彼はカップを手にしたまま、どこか遠くを見るような表情をしていた。
「……透真?」
「ん?」
「何か心配ごとでもあるの?」
透真が視線を向ける。
玲音は少し迷ってから続けた。
「だって、あなた……浮かない顔だわ」
「心配ごと、ね」
透真は紅茶の水面へ視線を落とした。
薄い琥珀色の液面に、空の光が揺れている。
「心配ごとではないの?」
「……どうしてそう思うの?」
「なんだか、そんな感じがするから」
玲音は小首を傾げた。
透真が自分を心配してくれるのと同じように、自分も彼のことが心配だった。
最近、彼は時折こういう顔をする。
優しく微笑んでいても、その目の奥だけがひどく疲れているように見えることがあった。
何か悩んでいるなら、少しくらい話してくれてもいいのに。
そう思った。
透真はカップを口に運び、一口だけ紅茶を飲んだ。
それから玲音の顔を見た。
「玲音のこと」
「……え?」
「心配してるのは、玲音のこと」
思いがけない答えに、玲音はきょとんとした。
「私のこと?」
透真は頷いた。
「私、そんなに危なっかしいかな?」
少し困ったように笑って尋ねると、透真も苦笑した。
「危なっかしいんじゃなくて……」
そこまで言って、言葉を止める。
しばらく沈黙が流れた。
庭の向こうで薔薇が揺れている。
ティーポットから紅茶を注ぐ小さな音が、二人の間を満たしていた。
やがて透真が口を開いた。
「……幸せ?」
玲音は目を瞬いた。
「え?」
「玲音は、今……幸せ?」
穏やかな問いかけだった。
しかしその声には、いつもより少しだけ切実な響きがあった。
玲音は透真を見つめ、それから自然に微笑んだ。
「うん。私、幸せよ」
左手の指輪へそっと手を添える。
光を受けた指輪が小さく輝いた。
「だって、透真のこと……愛してるもの」
迷いのない言葉だった。
透真の表情から、ほんの少し力が抜けた。
「……そっか」
彼は静かに息を吐いた。
「ならいい」
その安堵した様子が、玲音には少し不思議だった。
「ほんと?」
「うん」
「でも、ほんとは何か思ってるんじゃない?」
玲音が冗談めかして笑うと、透真の視線がわずかに変わった。
今度は、笑っていなかった。
「……ひとつだけ」
「えっ?」
玲音は慌てて座り直した。
「うんうん、なになに?」
透真はテーブル越しに手を伸ばし、玲音の手を取った。
大切なものに触れるような、慎重な仕草だった。
「僕は玲音に好きでいてほしい」
玲音は微笑んだ。
当たり前のことだと思った。
透真のことが好きだ。
何度だって伝えられる。
けれど、続けられた言葉に笑みが少しだけ止まった。
「……操ってじゃなくて」
玲音は、すぐには意味を理解できなかった。
「……操って?」
透真は答えない。
握られた手は温かい。
彼の表情も穏やかなままだった。
それなのに、今の言葉だけが周囲の景色から切り離されたように、玲音の耳へ残った。
「私は昔から透真が好きよ」
玲音は確かめるように言った。
「……違うの?」
自分の気持ちを疑ったことなどなかった。
透真のそばにいると嬉しい。
彼が笑えば自分も嬉しくなる。
会えない時間には寂しくなる。
それは誰かに命じられて感じるものではないはずだ。
「操って……って、どういうこと?」
透真はしばらく玲音を見つめていた。
何かを言おうとしたようにも見えた。
けれど結局、ふっと笑って首を横に振る。
「なんでもない。忘れて」
そして玲音の左手を持ち上げ、指輪へそっと口づけた。
「僕も、ずっと好きだよ」
その声を聞くと、玲音の胸が温かくなった。
透真に好きだと言ってもらえることが、何より嬉しい。
けれど。
――操って。
先ほどの言葉だけは、どうしても消えなかった。
玲音は握り返した手を見つめる。
透真の指先は、自分の手を優しく包んでいた。
彼を好きだと思う気持ちは確かにある。
なのに、どうしてそんなことを聞いたのだろう。
風が吹いた。
一枚の薔薇の花びらが舞い、二人の間のテーブルへ落ちる。
「……透真」
「なに?」
玲音は小さく微笑んだ。
「ううん。愛してるの」
そう言って、空になったカップへ紅茶を注ぐ。
手は少しも震えていなかった。
自分の心に嘘をついているつもりもなかった。
透真を愛している。
その気持ちだけは、何度考えても変わらなかった。
ただ、心のどこかに小さな疑問が残った。
それは今すぐ答えを求めるほど強いものではなかったが、忘れようとすると、かえって輪郭を持つような気がした。
◇
午後になり、玲音は自室へ戻っていた。
庭でのお茶会は楽しかった。
薔薇も美しかったし、透真とゆっくり過ごせたことが嬉しかった。
お茶会を終えたあと、透真とは一度別れた。どこへ向かったのか、詳しいことは聞かなかった。
けれど一人になると、庭で交わした言葉が再び思い出された。
「……操って」
玲音は窓辺に立ち、ぽつりと呟いた。
どうして透真はあんなことを言ったのだろう。
まるで自分が、誰かに操られているかもしれないというような。
そんなこと、あるはずがない。
少なくとも玲音自身は、誰かに言われたから透真を好きでいるわけではなかった。
彼の優しいところが好きだった。
時々甘えてくるところも、子供のように笑うところも。
少し意地悪な冗談を言うところも。
弱さを見せまいとするくせに、ふと寂しそうな顔をするところも。
全部ひっくるめて、透真という人が好きなのだ。
そう思うと、胸の奥に確かな温かさが広がった。
けれど、その温かさの底から、別の記憶が浮かび上がる。
冷たい風。
見知らぬ道。
自分に向かって伸ばされた手。
そして、ひどく怯えていた自分。
――どなたか知りません。
誰に向かって言ったのだろう。
知らない人に?
それとも。
「……透真?」
玲音は無意識に呟いていた。
胸が小さく痛んだ。
あれは夢だと教えてもらった。
自分が透真を拒絶するなど、ありえないことだと。
だから悪い夢なのだと思っていた。
なのに、今は。
「……夢じゃない……?」
小さな声がこぼれた。
もし本当にあんなことを言ったのだとしたら。
どうして。
透真のことを、こんなに愛しているのに。
玲音は窓の外へ視線を向けた。
庭師が薔薇の手入れをしている。
整えられた花壇。
丁寧に刈り込まれた芝生。
遠くには、高い塀と門が見えた。
この景色を眺めることにも、もうすっかり慣れていた。
ここが自分の家。
透真と一緒に暮らす場所。
何も不自由などないと思っている。
それでも、あの門の向こうにある世界を想像しようとすると、胸がざわついた。
自分は以前、あの向こうで暮らしていたはずだ。
買い物に行き、仕事をして、人と話して。
そんな日常が確かにあった。
けれど今、それを思い出そうとしても、どこか遠い出来事のように感じられた。
「……私、何か大事なことを忘れてる」
誰に聞かせるでもなく呟く。
言葉にした途端、胸が少し苦しくなった。
何を忘れているのかは、わからない。
ただ、忘れてはいけないことがあったような気がした。
その一方で、別の声が心の奥から浮かぶ。
――外は、怖いところ。
玲音は思わず窓枠へ手を添えた。
あの門の向こうへ行きたいとは、今は思わない。
透真がいるこの屋敷は温かい。
守られている。
安心できる。
それもまた、彼女にとって疑いようのない感覚だった。
「……でも、私は透真が好きなの」
自分に言い聞かせるように、もう一度呟く。
透真を愛していることと、何かを忘れている気がすること。
その二つは、玲音の中でうまく結びつかなかった。
ただ、どちらも自分の中にある。
今の玲音には、そう感じることしかできなかった。
◇
夕方。
廊下から聞き慣れた足音が近づいてきた。
玲音は本を閉じて顔を上げた。
控えめなノックのあと、扉が開く。
「ただいま。今日は早く終わったよ」
現れたのは透真だった。
珍しくスーツではなく、ゆったりとした服装をしている。
「透真!」
玲音の顔がぱっと明るくなった。
「おかえりなさい!」
立ち上がると、そのまま彼へ駆け寄った。
「早くて嬉しい!」
透真は驚くこともなく、飛び込んできた玲音を受け止める。
「ご機嫌だね、今日」
そのまま軽く抱き上げられ、玲音は嬉しそうに笑った。
「うん。ふふっ、毎日ご機嫌だよ」
「そう?」
「透真がいるから」
あまりに自然な答えだった。
透真はしばらく玲音を見つめ、それから小さく笑った。
ソファへ移動して腰を下ろすと、玲音を自分の膝に座らせる。
「甘えん坊」
「うん」
玲音は素直に頷いた。
「でも、私、透真が好きだから」
「うん?」
「甘えん坊でもいいってことで」
透真は一瞬きょとんとした。
それから声を出して笑った。
「何その理屈」
その笑い方があまりに楽しそうで、玲音までつられて笑ってしまう。
「ふふっ。玲音ルール発動中だよ」
「玲音ルール?」
「そう」
玲音は得意げに頷いた。
「好きな人には、いっぱい甘えてもいいルールなの」
透真はおかしそうに目を細めた。
こんなふうに声を出して笑うのは、ずいぶん久しぶりだった。
昨日まで彼の胸に居座っていた重苦しさが、少しだけ和らいだように感じられる。
「じゃあ僕も、玲音ルール発動していい?」
「ええっ?」
玲音はわざと困ったような顔をした。
「仕方ないなぁ。いいよ」
透真は笑いながら、玲音の髪をくしゃくしゃに撫でた。
「もう、髪が乱れちゃう」
玲音が笑いながら抗議すると、透真は指先で髪を整え直した。
それから、少しだけ声を落とす。
「今日は離さない」
玲音は彼を見上げた。
その言葉は優しい。
けれど不思議と、冗談だけではないようにも聞こえた。
透真の腕が背中へ回る。
玲音はその腕に身を預けた。
「うん……私も離してほしくない」
そして微笑む。
「ずっとそばにいて」
透真は答える代わりに、玲音を抱き寄せた。
彼女が自分からそう言ってくれることが嬉しかった。
だが、胸の奥では朝の言葉がまだ燻っていた。
――操ってじゃなくて。
その疑問を追い払うように、透真は玲音の左手を取った。
「そういえば」
「なあに?」
「これ、サイズぴったりだったよね」
窓から差し込む夕日へ指輪をかざす。
「いつ測ったか覚えてる?」
玲音は指輪を見つめてから、首を傾げた。
「えっ……実は覚えてないの」
「そうなんだ」
「だって、透真がプレゼントしてくれたとき、もうぴったりだったもの」
少し考えていた玲音が、いたずらっぽく笑った。
「もしかして……私が寝てるときに測ったでしょ?」
透真はわずかに目を逸らした。
「さあ、どうだろうね」
「ふふっ。怪しい」
「そう?」
「絶対怪しいわ」
玲音は声を立てて笑った。
透真もそれ以上は答えず、ただ微笑んでいる。
いつ、どうやって指輪のサイズを知ったのか。
それは結局、わからないままだった。
けれど玲音にとっては、今こうして指に収まっている指輪が何より嬉しかった。
彼との約束が、形になっている。
指輪を見つめるたび、そんな気持ちになる。
夕暮れの光が少しずつ薄れていく。
二人はそのままソファで他愛のない話を続けた。
朝の庭のこと。
今日咲いていた薔薇のこと。
これから寒くなったら何をしようかという、ささやかな話。
玲音が笑えば透真も笑った。
時にはどちらかが黙り、ただ庭の向こうに沈んでいく夕日を眺めた。
紅茶はすっかり冷めていたが、二人とも気にしなかった。
やがて透真が時計へ目を向ける。
「ねえ、晩ご飯どうする?」
「晩ご飯?」
「このまま部屋で食べよっか」
玲音は嬉しそうに頷いた。
「うん。じゃあそうしましょうか」
「決まり」
透真は内線で若い使用人へ連絡を入れた。
しばらくすると廊下からワゴンの音が近づいてきた。
扉が開き、料理の並んだ大きなワゴンが運び込まれる。
「わあ……!」
玲音は思わず立ち上がった。
ローストビーフにキッシュ、彩り豊かな温野菜のサラダ。焼きたてのパンからは香ばしい匂いが立ち上っている。
二人分とは思えないほど豪華な食卓だった。
「ええっ、すごい! 今日はご馳走ね」
玲音は目を輝かせた。
「何かあったのかしら?」
若い使用人が料理を並べ終えて下がるのを見届けると、透真は小さく笑った。
「なんにもない日が一番いい日でしょ」
その言葉に、玲音はふっと表情を和らげた。
そうかもしれない。
何も起こらない日。
誰かに怯えることもなく、悲しいこともなく、大切な人と一緒に食事をする。
そんな一日こそ、本当は何より贅沢なのかもしれない。
「……そうね」
玲音は微笑んだ。
透真がグラスを持ち上げる。
「乾杯」
「乾杯」
軽く触れ合ったグラスが、澄んだ音を立てた。
スパークリングワインを一口飲むと、爽やかな味わいが広がる。
「美味しい」
玲音は嬉しそうに笑った。
「好きなの取って。足りなかったら追加させるから」
透真はそう言って、玲音の前へ皿を寄せた。
けれど玲音は自分の皿より先に、透真の皿を手に取った。
「えっ、透真も食べよう?」
「食べるよ」
「じゃあ私、取ってあげる」
張り切ってトングを手にする。
「何がいい?」
「じゃあ、ローストビーフ多めで」
「うんうん!」
玲音は嬉しそうに料理を取り分けた。
ローストビーフを多めに盛り、温野菜やキッシュも添える。
「お肉多めね」
「お願いします」
「承知つかまつりました」
わざと畏まって答える玲音に、透真が吹き出した。
「どうぞ。はい、透真」
「ありがと」
皿を受け取った透真が一口食べる。
「美味しい」
「でしょ?」
玲音も自分の分を取り分け、満足そうに食べ始めた。
こうして誰かのために料理を取り分ける時間が好きだった。
透真が美味しそうに食べてくれると、まるで自分が作った料理を褒められたような気持ちになる。
何でもないこと。
けれど、玲音にはそれが幸福だった。
二人はゆっくりと食事を楽しんだ。
窓の外が暗くなっても、会話は途切れなかった。
デザートにはチョコレートケーキとベリーのソルベが運ばれてきた。
ワインを少し飲んだ玲音の頬には、ほんのり赤みが差している。
食事を終え、二人は再びソファへ移動した。
肩を寄せ合っていると、透真が玲音の顔を覗き込む。
「酔った?」
「うん。ちょっとだけ」
玲音は笑った。
「でも、とっても美味しかったの」
「そっか」
透真は赤くなった玲音の顔を見つめ、目を細めた。
「かわいい」
そう言って、軽く耳に触れる。
「むっ……」
玲音は抗議するように頬を膨らませた。
「食べ物じゃないのよー」
「食べてないよ。つまんだだけ」
透真は楽しそうに笑う。
「もう……」
玲音は少し考えるような顔をした。
そして急に、いたずらっぽい笑みを浮かべる。
「そうやって意地悪する人は……こうするんだから」
透真が何か言うより先に、玲音はそっと彼の頬へ口づけた。
「……え?」
透真の表情が止まった。
それから、みるみる耳まで赤くなる。
「……ずるい」
玲音は思わず笑ってしまった。
いつも余裕のある透真が、こんな顔をするのは珍しい。
「ふふっ」
嬉しくなって、彼に抱きついた。
「透真、だーい好き」
「反則だって……」
透真は少し困ったように笑った。
「僕が攻める番だったのに」
「だって、玲音ルール発動中だもん」
「まだ続いてたの?」
「もちろん」
玲音は得意げに頷いた。
透真もつられて笑う。
その笑い声は、いつもの穏やかな微笑みとは違っていた。
警戒も、計算も忘れたような、ごく自然な笑い方だった。
玲音はその顔を見るのが好きだった。
自分が何かをして、透真がこんなふうに笑ってくれる。
それが嬉しかった。
今日一日、心のどこかに引っかかっていた疑問が、少し遠ざかっていく。
――操って。
朝の言葉が一瞬だけ浮かんだ。
けれど今、目の前で笑っている透真を見ていると、自分の気持ちはやはり変わらなかった。
好きなのだ。
この人が。
玲音はそっと彼を見つめた。
「……透真」
「ん?」
「愛してるわ」
今度は冗談ではなかった。
静かな声だった。
透真も笑うのをやめ、玲音を見つめ返した。
その瞳に、何かを確かめるような光が浮かぶ。
「……玲音」
名前を呼ぶ声が、少しだけ低くなる。
玲音は答える代わりに微笑んだ。
言葉にしなくても伝わってほしいと思った。
大切にしたい。
そばにいたい。
この人と一緒にいたい。
それが今の自分の気持ちだった。
透真はしばらく何も言わなかった。
ただ、玲音を見つめていた。
嬉しいはずだった。
望んでいた言葉を、彼女が自分から伝えてくれた。
それなのに、その幸福が大きければ大きいほど、心の奥に残る疑問もまた大きくなっていく。
――本当に?
そう尋ねたくなる自分が、透真は嫌だった。
今ここで玲音の言葉を疑えば、彼女をまた傷つけてしまう。
そんなことはしたくなかった。
「……ありがとう」
透真はようやく微笑んだ。
玲音も嬉しそうに笑った。
窓の外では、いつの間にか夜が深まっていた。
遠くで時計が時を告げる。
屋敷の中は静まり返り、二人のいる部屋だけに柔らかな明かりが灯っていた。
やがて会話は少なくなった。
何かを約束したわけでも、特別な言葉を交わしたわけでもない。
それでも二人は、その夜を互いのそばで過ごした。
昼間の薔薇の香りも、食卓の賑やかさも、少しずつ遠い記憶へ変わっていく。
そして静かな夜が、二人の間に残された言葉にならない思いを、そっと包み込んでいった。
◇
夜がさらに更けた頃。
玲音は透真のそばで、穏やかに微笑んでいた。
「……ありがとう、透真」
その声には、深い安堵が滲んでいた。
今日一日を振り返れば、幸せなことばかりだった。
一緒に朝食を食べた。
薔薇園で紅茶を飲んだ。
たくさん笑って、冗談を言い合った。
美味しいものを食べて、透真の嬉しそうな顔を見た。
そんな何でもない出来事が、玲音には何より愛おしかった。
少し前まで感じていた不安は、今は遠い。
何かを忘れているような感覚も、眠気の中では輪郭を失っていく。
ただ、透真のそばにいられることが嬉しかった。
やがて玲音は静かに目を閉じた。
しばらくすると、規則正しい寝息が聞こえ始める。
透真はその寝顔を見つめていた。
穏やかな顔だった。
自分を恐れて逃げようとした、あの日の玲音とはまるで違う。
今の玲音は、自分の名前を呼ぶ。
好きだと告げる。
自分から近づき、笑いかけてくれる。
それは透真が何より欲しかった幸福だった。
けれど。
朝、庭で口にした言葉が、再び胸の奥で響いた。
――僕は玲音に好きでいてほしい。操ってじゃなくて。
あの言葉は本心だった。
透真は誰よりも玲音に愛されたい。
彼女の世界の中で、自分が特別な存在であり続けてほしい。
できることなら、彼女自身に選ばれたい。
けれど、その願いを持ちながら、透真は彼女を失わないために共鳴コードを使った。
玲音が自分を忘れかけたときも。
逃げようとしたときも。
そして昨日、彼女が泣きながら自分に謝った夜にも。
自分のしていることを、透真は理解していた。
それでも、やめられなかった。
玲音を自由にして失うことが、何より怖かったからだ。
透真は眠る玲音へ視線を戻した。
彼女の言葉は、嘘には聞こえなかった。
今日見せてくれた笑顔も、照れた顔も、冗談を言って笑う姿も。
どれも自然で、彼女らしかった。
誰かに命じられたからではなく、自分の意思でそうしているように見えた。
だからこそ、透真は苦しかった。
もし共鳴コードがなかったとしても。
玲音は同じように、自分を愛してくれただろうか。
同じ笑顔を向け、同じ言葉をくれただろうか。
その答えを知りたいと思った。
しかし、確かめることが怖かった。
確かめるためには、今の幸福を失う危険を受け入れなければならない。
透真には、まだその勇気がなかった。
玲音の頬に掛かった髪を、そっと払う。
彼女は目を覚まさない。
安心しきった寝顔のまま、静かな眠りを続けている。
「……おやすみ、玲音」
透真は小さく呟いた。
返事はない。
ただ穏やかな寝息だけが返ってきた。
窓の向こうでは、秋の夜風が薔薇の枝を揺らしている。
明日もまた、同じ朝が来る。
玲音が目を覚まし、自分の名前を呼んでくれる。
透真はそう信じたかった。
たとえ今は、その幸福が何によって支えられているのかわからなくても。
眠る玲音の左手で、約束の指輪が月明かりを受けて小さく光った。
透真はその輝きを、長いあいだ見つめていた。
愛されたい。
自分だけを見ていてほしい。
そして何より、彼女自身に選ばれたい。
その願いが、自ら彼女へ掛けた見えない鎖と矛盾していることを、透真は誰よりもよく知っていた。
それでも、今夜も彼女を手放すことはできなかった。
静かな部屋の中に、二人分の時間が流れていく。
玲音は幸福な夢の中にいた。
透真だけが、その幸福の答えを見つけられずにいた。




