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優しい鳥籠は、鍵をかけない  作者: 雨音 優


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18/18

第18話 操られない愛

玲音が眠りに落ちてからも、透真はしばらくベッドの傍らを離れなかった。

 毛布に包まれた玲音の表情は穏やかだった。昨日、彼女を苦しめていた不安も涙も、今はどこにも見当たらない。規則正しい寝息が聞こえるたびに、透真の胸に安堵が広がっていく。

 しかし、その寝顔を見つめていると、昼間の玲音の姿が思い出された。

 鍵のかかった部屋で一人きりになり、泣きながら自分に謝り続けていた玲音。

 ――私が悪いんでしょ。

 あの言葉は、まだ耳の奥に残っている。

 透真は静かに立ち上がった。

 扉を閉めて廊下へ出ると、スマートフォンを取り出す。しばらく画面を見つめてから、若い使用人へ短いメッセージを送った。

『玲音の部屋、明日から鍵は外していい』

 送信を終え、スマートフォンをポケットへ戻す。

 これで少なくとも、あの扉が玲音を拒むことはなくなる。

 透真は一度だけ背後の扉を振り返った。

 あの部屋に鍵を掛けたのは、玲音を失うことが怖かったからだ。それが彼女を傷つける行為だと、わからなかったわけではない。

 それでも、止められなかった。

 もう二度と、同じことを繰り返したくはなかった。

 透真は書斎へ向かわず、自室へ戻った。

 今夜はもう、何かを調べる気にもなれなかった。

 長い廊下には彼の足音だけが響いていた。

 静まり返った屋敷の外で、秋の風が木々を揺らしている。

 夜は、まだ深かった。

◇

 翌朝、玲音が目を覚ましたときには、太陽はすっかり高く昇っていた。

 カーテンの隙間から差し込む光が、寝室の床に柔らかな模様を描いている。窓の向こうでは小鳥がさえずり、庭木の葉が風に揺れていた。

「……んん」

 玲音はゆっくりと目を開け、大きく伸びをした。

 不思議なほど身体が軽かった。

 昨日まで胸の奥に居座っていた、息苦しいほどの不安が消えている。何か悲しいことがあったような気もするのに、思い出そうとすると、その輪郭は霧の向こうへ遠ざかってしまう。

「……よく寝たなぁ」

 窓の外を眺め、玲音は小さく笑った。

「もう、おそようございますって時間ね」

 時計を見れば、朝食には遅すぎる時刻だった。

 けれど今日は、急いで何かをしなければならない気分ではない。

 透真と一緒にいられる。

 それだけで胸が温かくなった。

 昨夜、彼がそばにいてくれたことを思い出す。

 優しく名前を呼ばれ、安心して眠りについた。

 その記憶は確かだった。

 玲音は身支度を整え、部屋の扉へ向かった。

 ドアノブに手を掛けたところで、ほんの一瞬だけ指先が止まる。

 なぜだろう。

 何かを確かめなければならないような気がした。

 しかし、次の瞬間には何の抵抗もなく扉が開いた。

「……あら」

 玲音は少しだけ首を傾げた。

 廊下にはいつもと変わらない静けさが広がっている。磨かれた床には窓からの光が映り込み、遠くから食器の触れ合う小さな音が聞こえていた。

 何も変わっていない。

 そのことに、なぜかほっとした。

「玲音様。おはようございます」

 ちょうど廊下を通りかかった若い使用人が、丁寧に頭を下げた。

「朝食のご用意ができております」

「おはよう。ありがとう。今行くわね」

 玲音が微笑むと、若い使用人も控えめに笑みを返した。

 その表情には昨日までとは違う安堵があったが、玲音は特に気に留めなかった。

 軽い足取りで階段を下り、食堂へ向かう。

 扉を開くと、窓際の席に透真の姿があった。

「おはよう、透真」

 声を掛けると、コーヒーカップを手にしていた透真が顔を上げた。

「おはよう。よく寝た?」

 いつもと変わらない穏やかな声だった。

 玲音は嬉しそうに彼の向かいへ座る。

「うん、ぐっすり」

 そう答えてから、少し考えるように視線を落とした。

「なんだったんだろうね。何か心に引っかかってた気がしたけど……忘れちゃった」

 透真の指先に、わずかに力がこもった。

 カップの持ち手を握る手が一瞬だけ強張る。

 けれど玲音が顔を上げたときには、すでにいつもの微笑みに戻っていた。

「そっか。ぐっすり眠れたならよかった」

「うん」

 玲音は頷いた。

 昨日のことを思い出そうとしても、あまり意味がないように感じた。

 今こうして透真が目の前にいる。

 彼が微笑んでくれる。

 それだけで、もう十分だった。

「ねえ、透真」

「なに?」

「昨日はすごく心配をかけたと思うの」

 玲音は少し申し訳なさそうに笑った。

「だから今日は、ずっと一緒にいてもいい?」

 上目遣いに尋ねると、透真はカップをソーサーへ戻した。

「当たり前でしょ」

 あまりに自然な返事に、玲音の顔がぱっと明るくなった。

「ほんと!? 嬉しい」

 透真はそんな玲音を眺めながら、静かに微笑んだ。

 食卓には焼きたてのパンや卵料理、季節の果物が並んでいる。玲音はようやく空腹を思い出したように、嬉しそうに朝食を食べ始めた。

「ふふっ。今日は何をしようかしら?」

「庭の薔薇、そろそろ見頃だよ」

「そうね。じゃあ、お庭でゆっくりお茶がしたいわ」

「いいね」

 透真は頷いた。

 玲音が食事を楽しんでいる間、彼は何度かその表情を確かめるように見つめていた。

 昨日はほとんど食事もできなかった玲音が、今日は美味しそうにパンを頬張っている。

 その光景に安堵する一方で、透真の胸には説明しがたい苦さが残った。

 彼女が昨日泣いていた理由を、透真は忘れていない。

 今朝の玲音は、それをほとんど気にしていないように見える。

 それが救いなのかどうか、透真には判断できなかった。

◇

 朝食を終えると、二人は庭園へ出た。

「いい天気だね」

 透真の言葉に、玲音は大きく頷いた。

「うん。とってもいい天気ね」

 秋の空は高く、淡い雲がゆっくりと流れていた。

 薔薇園では赤や白、淡いピンクの花が競うように咲いている。新たに開いた花も増えたのだろう。風が吹くたび、柔らかな花弁が石畳へ舞い落ちた。

 ガーデンテーブルには、すでにティーセットが用意されていた。

 若い使用人が注いでくれた紅茶から、ベルガモットの爽やかな香りが漂う。

「いい香り……」

 玲音は嬉しそうにカップを両手で包んだ。

 透真が椅子を引いてくれる。

 礼を言って腰掛けると、向かいに座った彼も紅茶を手に取った。

 薔薇の香りと紅茶の香りが、秋風の中で静かに混ざり合う。

 こんな時間が好きだった。

 何か特別な出来事があるわけでもなく、ただ大切な人と同じ景色を眺めている。

 それだけで心が満たされていく。

 玲音はしばらく庭を眺めていたが、ふと透真へ視線を戻した。

 彼はカップを手にしたまま、どこか遠くを見るような表情をしていた。

「……透真?」

「ん?」

「何か心配ごとでもあるの?」

 透真が視線を向ける。

 玲音は少し迷ってから続けた。

「だって、あなた……浮かない顔だわ」

「心配ごと、ね」

 透真は紅茶の水面へ視線を落とした。

 薄い琥珀色の液面に、空の光が揺れている。

「心配ごとではないの?」

「……どうしてそう思うの?」

「なんだか、そんな感じがするから」

 玲音は小首を傾げた。

 透真が自分を心配してくれるのと同じように、自分も彼のことが心配だった。

 最近、彼は時折こういう顔をする。

 優しく微笑んでいても、その目の奥だけがひどく疲れているように見えることがあった。

 何か悩んでいるなら、少しくらい話してくれてもいいのに。

 そう思った。

 透真はカップを口に運び、一口だけ紅茶を飲んだ。

 それから玲音の顔を見た。

「玲音のこと」

「……え?」

「心配してるのは、玲音のこと」

 思いがけない答えに、玲音はきょとんとした。

「私のこと?」

 透真は頷いた。

「私、そんなに危なっかしいかな?」

 少し困ったように笑って尋ねると、透真も苦笑した。

「危なっかしいんじゃなくて……」

 そこまで言って、言葉を止める。

 しばらく沈黙が流れた。

 庭の向こうで薔薇が揺れている。

 ティーポットから紅茶を注ぐ小さな音が、二人の間を満たしていた。

 やがて透真が口を開いた。

「……幸せ?」

 玲音は目を瞬いた。

「え?」

「玲音は、今……幸せ?」

 穏やかな問いかけだった。

 しかしその声には、いつもより少しだけ切実な響きがあった。

 玲音は透真を見つめ、それから自然に微笑んだ。

「うん。私、幸せよ」

 左手の指輪へそっと手を添える。

 光を受けた指輪が小さく輝いた。

「だって、透真のこと……愛してるもの」

 迷いのない言葉だった。

 透真の表情から、ほんの少し力が抜けた。

「……そっか」

 彼は静かに息を吐いた。

「ならいい」

 その安堵した様子が、玲音には少し不思議だった。

「ほんと?」

「うん」

「でも、ほんとは何か思ってるんじゃない?」

 玲音が冗談めかして笑うと、透真の視線がわずかに変わった。

 今度は、笑っていなかった。

「……ひとつだけ」

「えっ?」

 玲音は慌てて座り直した。

「うんうん、なになに?」

 透真はテーブル越しに手を伸ばし、玲音の手を取った。

 大切なものに触れるような、慎重な仕草だった。

「僕は玲音に好きでいてほしい」

 玲音は微笑んだ。

 当たり前のことだと思った。

 透真のことが好きだ。

 何度だって伝えられる。

 けれど、続けられた言葉に笑みが少しだけ止まった。

「……操ってじゃなくて」

 玲音は、すぐには意味を理解できなかった。

「……操って?」

 透真は答えない。

 握られた手は温かい。

 彼の表情も穏やかなままだった。

 それなのに、今の言葉だけが周囲の景色から切り離されたように、玲音の耳へ残った。

「私は昔から透真が好きよ」

 玲音は確かめるように言った。

「……違うの?」

 自分の気持ちを疑ったことなどなかった。

 透真のそばにいると嬉しい。

 彼が笑えば自分も嬉しくなる。

 会えない時間には寂しくなる。

 それは誰かに命じられて感じるものではないはずだ。

「操って……って、どういうこと?」

 透真はしばらく玲音を見つめていた。

 何かを言おうとしたようにも見えた。

 けれど結局、ふっと笑って首を横に振る。

「なんでもない。忘れて」

 そして玲音の左手を持ち上げ、指輪へそっと口づけた。

「僕も、ずっと好きだよ」

 その声を聞くと、玲音の胸が温かくなった。

 透真に好きだと言ってもらえることが、何より嬉しい。

 けれど。

 ――操って。

 先ほどの言葉だけは、どうしても消えなかった。

 玲音は握り返した手を見つめる。

 透真の指先は、自分の手を優しく包んでいた。

 彼を好きだと思う気持ちは確かにある。

 なのに、どうしてそんなことを聞いたのだろう。

 風が吹いた。

 一枚の薔薇の花びらが舞い、二人の間のテーブルへ落ちる。

「……透真」

「なに?」

 玲音は小さく微笑んだ。

「ううん。愛してるの」

 そう言って、空になったカップへ紅茶を注ぐ。

 手は少しも震えていなかった。

 自分の心に嘘をついているつもりもなかった。

 透真を愛している。

 その気持ちだけは、何度考えても変わらなかった。

 ただ、心のどこかに小さな疑問が残った。

 それは今すぐ答えを求めるほど強いものではなかったが、忘れようとすると、かえって輪郭を持つような気がした。

◇

 午後になり、玲音は自室へ戻っていた。

 庭でのお茶会は楽しかった。

 薔薇も美しかったし、透真とゆっくり過ごせたことが嬉しかった。

 お茶会を終えたあと、透真とは一度別れた。どこへ向かったのか、詳しいことは聞かなかった。

 けれど一人になると、庭で交わした言葉が再び思い出された。

「……操って」

 玲音は窓辺に立ち、ぽつりと呟いた。

 どうして透真はあんなことを言ったのだろう。

 まるで自分が、誰かに操られているかもしれないというような。

 そんなこと、あるはずがない。

 少なくとも玲音自身は、誰かに言われたから透真を好きでいるわけではなかった。

 彼の優しいところが好きだった。

 時々甘えてくるところも、子供のように笑うところも。

 少し意地悪な冗談を言うところも。

 弱さを見せまいとするくせに、ふと寂しそうな顔をするところも。

 全部ひっくるめて、透真という人が好きなのだ。

 そう思うと、胸の奥に確かな温かさが広がった。

 けれど、その温かさの底から、別の記憶が浮かび上がる。

 冷たい風。

 見知らぬ道。

 自分に向かって伸ばされた手。

 そして、ひどく怯えていた自分。

 ――どなたか知りません。

 誰に向かって言ったのだろう。

 知らない人に?

 それとも。

「……透真?」

 玲音は無意識に呟いていた。

 胸が小さく痛んだ。

 あれは夢だと教えてもらった。

 自分が透真を拒絶するなど、ありえないことだと。

 だから悪い夢なのだと思っていた。

 なのに、今は。

「……夢じゃない……?」

 小さな声がこぼれた。

 もし本当にあんなことを言ったのだとしたら。

 どうして。

 透真のことを、こんなに愛しているのに。

 玲音は窓の外へ視線を向けた。

 庭師が薔薇の手入れをしている。

 整えられた花壇。

 丁寧に刈り込まれた芝生。

 遠くには、高い塀と門が見えた。

 この景色を眺めることにも、もうすっかり慣れていた。

 ここが自分の家。

 透真と一緒に暮らす場所。

 何も不自由などないと思っている。

 それでも、あの門の向こうにある世界を想像しようとすると、胸がざわついた。

 自分は以前、あの向こうで暮らしていたはずだ。

 買い物に行き、仕事をして、人と話して。

 そんな日常が確かにあった。

 けれど今、それを思い出そうとしても、どこか遠い出来事のように感じられた。

「……私、何か大事なことを忘れてる」

 誰に聞かせるでもなく呟く。

 言葉にした途端、胸が少し苦しくなった。

 何を忘れているのかは、わからない。

 ただ、忘れてはいけないことがあったような気がした。

 その一方で、別の声が心の奥から浮かぶ。

 ――外は、怖いところ。

 玲音は思わず窓枠へ手を添えた。

 あの門の向こうへ行きたいとは、今は思わない。

 透真がいるこの屋敷は温かい。

 守られている。

 安心できる。

 それもまた、彼女にとって疑いようのない感覚だった。

「……でも、私は透真が好きなの」

 自分に言い聞かせるように、もう一度呟く。

 透真を愛していることと、何かを忘れている気がすること。

 その二つは、玲音の中でうまく結びつかなかった。

 ただ、どちらも自分の中にある。

 今の玲音には、そう感じることしかできなかった。

◇

 夕方。

 廊下から聞き慣れた足音が近づいてきた。

 玲音は本を閉じて顔を上げた。

 控えめなノックのあと、扉が開く。

「ただいま。今日は早く終わったよ」

 現れたのは透真だった。

 珍しくスーツではなく、ゆったりとした服装をしている。

「透真!」

 玲音の顔がぱっと明るくなった。

「おかえりなさい!」

 立ち上がると、そのまま彼へ駆け寄った。

「早くて嬉しい!」

 透真は驚くこともなく、飛び込んできた玲音を受け止める。

「ご機嫌だね、今日」

 そのまま軽く抱き上げられ、玲音は嬉しそうに笑った。

「うん。ふふっ、毎日ご機嫌だよ」

「そう?」

「透真がいるから」

 あまりに自然な答えだった。

 透真はしばらく玲音を見つめ、それから小さく笑った。

 ソファへ移動して腰を下ろすと、玲音を自分の膝に座らせる。

「甘えん坊」

「うん」

 玲音は素直に頷いた。

「でも、私、透真が好きだから」

「うん?」

「甘えん坊でもいいってことで」

 透真は一瞬きょとんとした。

 それから声を出して笑った。

「何その理屈」

 その笑い方があまりに楽しそうで、玲音までつられて笑ってしまう。

「ふふっ。玲音ルール発動中だよ」

「玲音ルール?」

「そう」

 玲音は得意げに頷いた。

「好きな人には、いっぱい甘えてもいいルールなの」

 透真はおかしそうに目を細めた。

 こんなふうに声を出して笑うのは、ずいぶん久しぶりだった。

 昨日まで彼の胸に居座っていた重苦しさが、少しだけ和らいだように感じられる。

「じゃあ僕も、玲音ルール発動していい?」

「ええっ?」

 玲音はわざと困ったような顔をした。

「仕方ないなぁ。いいよ」

 透真は笑いながら、玲音の髪をくしゃくしゃに撫でた。

「もう、髪が乱れちゃう」

 玲音が笑いながら抗議すると、透真は指先で髪を整え直した。

 それから、少しだけ声を落とす。

「今日は離さない」

 玲音は彼を見上げた。

 その言葉は優しい。

 けれど不思議と、冗談だけではないようにも聞こえた。

 透真の腕が背中へ回る。

 玲音はその腕に身を預けた。

「うん……私も離してほしくない」

 そして微笑む。

「ずっとそばにいて」

 透真は答える代わりに、玲音を抱き寄せた。

 彼女が自分からそう言ってくれることが嬉しかった。

 だが、胸の奥では朝の言葉がまだ燻っていた。

 ――操ってじゃなくて。

 その疑問を追い払うように、透真は玲音の左手を取った。

「そういえば」

「なあに?」

「これ、サイズぴったりだったよね」

 窓から差し込む夕日へ指輪をかざす。

「いつ測ったか覚えてる?」

 玲音は指輪を見つめてから、首を傾げた。

「えっ……実は覚えてないの」

「そうなんだ」

「だって、透真がプレゼントしてくれたとき、もうぴったりだったもの」

 少し考えていた玲音が、いたずらっぽく笑った。

「もしかして……私が寝てるときに測ったでしょ?」

 透真はわずかに目を逸らした。

「さあ、どうだろうね」

「ふふっ。怪しい」

「そう?」

「絶対怪しいわ」

 玲音は声を立てて笑った。

 透真もそれ以上は答えず、ただ微笑んでいる。

 いつ、どうやって指輪のサイズを知ったのか。

 それは結局、わからないままだった。

 けれど玲音にとっては、今こうして指に収まっている指輪が何より嬉しかった。

 彼との約束が、形になっている。

 指輪を見つめるたび、そんな気持ちになる。

 夕暮れの光が少しずつ薄れていく。

 二人はそのままソファで他愛のない話を続けた。

 朝の庭のこと。

 今日咲いていた薔薇のこと。

 これから寒くなったら何をしようかという、ささやかな話。

 玲音が笑えば透真も笑った。

 時にはどちらかが黙り、ただ庭の向こうに沈んでいく夕日を眺めた。

 紅茶はすっかり冷めていたが、二人とも気にしなかった。

 やがて透真が時計へ目を向ける。

「ねえ、晩ご飯どうする?」

「晩ご飯?」

「このまま部屋で食べよっか」

 玲音は嬉しそうに頷いた。

「うん。じゃあそうしましょうか」

「決まり」

 透真は内線で若い使用人へ連絡を入れた。

 しばらくすると廊下からワゴンの音が近づいてきた。

 扉が開き、料理の並んだ大きなワゴンが運び込まれる。

「わあ……!」

 玲音は思わず立ち上がった。

 ローストビーフにキッシュ、彩り豊かな温野菜のサラダ。焼きたてのパンからは香ばしい匂いが立ち上っている。

 二人分とは思えないほど豪華な食卓だった。

「ええっ、すごい! 今日はご馳走ね」

 玲音は目を輝かせた。

「何かあったのかしら?」

 若い使用人が料理を並べ終えて下がるのを見届けると、透真は小さく笑った。

「なんにもない日が一番いい日でしょ」

 その言葉に、玲音はふっと表情を和らげた。

 そうかもしれない。

 何も起こらない日。

 誰かに怯えることもなく、悲しいこともなく、大切な人と一緒に食事をする。

 そんな一日こそ、本当は何より贅沢なのかもしれない。

「……そうね」

 玲音は微笑んだ。

 透真がグラスを持ち上げる。

「乾杯」

「乾杯」

 軽く触れ合ったグラスが、澄んだ音を立てた。

 スパークリングワインを一口飲むと、爽やかな味わいが広がる。

「美味しい」

 玲音は嬉しそうに笑った。

「好きなの取って。足りなかったら追加させるから」

 透真はそう言って、玲音の前へ皿を寄せた。

 けれど玲音は自分の皿より先に、透真の皿を手に取った。

「えっ、透真も食べよう?」

「食べるよ」

「じゃあ私、取ってあげる」

 張り切ってトングを手にする。

「何がいい?」

「じゃあ、ローストビーフ多めで」

「うんうん!」

 玲音は嬉しそうに料理を取り分けた。

 ローストビーフを多めに盛り、温野菜やキッシュも添える。

「お肉多めね」

「お願いします」

「承知つかまつりました」

 わざと畏まって答える玲音に、透真が吹き出した。

「どうぞ。はい、透真」

「ありがと」

 皿を受け取った透真が一口食べる。

「美味しい」

「でしょ?」

 玲音も自分の分を取り分け、満足そうに食べ始めた。

 こうして誰かのために料理を取り分ける時間が好きだった。

 透真が美味しそうに食べてくれると、まるで自分が作った料理を褒められたような気持ちになる。

 何でもないこと。

 けれど、玲音にはそれが幸福だった。

 二人はゆっくりと食事を楽しんだ。

 窓の外が暗くなっても、会話は途切れなかった。

 デザートにはチョコレートケーキとベリーのソルベが運ばれてきた。

 ワインを少し飲んだ玲音の頬には、ほんのり赤みが差している。

 食事を終え、二人は再びソファへ移動した。

 肩を寄せ合っていると、透真が玲音の顔を覗き込む。

「酔った?」

「うん。ちょっとだけ」

 玲音は笑った。

「でも、とっても美味しかったの」

「そっか」

 透真は赤くなった玲音の顔を見つめ、目を細めた。

「かわいい」

 そう言って、軽く耳に触れる。

「むっ……」

 玲音は抗議するように頬を膨らませた。

「食べ物じゃないのよー」

「食べてないよ。つまんだだけ」

 透真は楽しそうに笑う。

「もう……」

 玲音は少し考えるような顔をした。

 そして急に、いたずらっぽい笑みを浮かべる。

「そうやって意地悪する人は……こうするんだから」

 透真が何か言うより先に、玲音はそっと彼の頬へ口づけた。

「……え?」

 透真の表情が止まった。

 それから、みるみる耳まで赤くなる。

「……ずるい」

 玲音は思わず笑ってしまった。

 いつも余裕のある透真が、こんな顔をするのは珍しい。

「ふふっ」

 嬉しくなって、彼に抱きついた。

「透真、だーい好き」

「反則だって……」

 透真は少し困ったように笑った。

「僕が攻める番だったのに」

「だって、玲音ルール発動中だもん」

「まだ続いてたの?」

「もちろん」

 玲音は得意げに頷いた。

 透真もつられて笑う。

 その笑い声は、いつもの穏やかな微笑みとは違っていた。

 警戒も、計算も忘れたような、ごく自然な笑い方だった。

 玲音はその顔を見るのが好きだった。

 自分が何かをして、透真がこんなふうに笑ってくれる。

 それが嬉しかった。

 今日一日、心のどこかに引っかかっていた疑問が、少し遠ざかっていく。

 ――操って。

 朝の言葉が一瞬だけ浮かんだ。

 けれど今、目の前で笑っている透真を見ていると、自分の気持ちはやはり変わらなかった。

 好きなのだ。

 この人が。

 玲音はそっと彼を見つめた。

「……透真」

「ん?」

「愛してるわ」

 今度は冗談ではなかった。

 静かな声だった。

 透真も笑うのをやめ、玲音を見つめ返した。

 その瞳に、何かを確かめるような光が浮かぶ。

「……玲音」

 名前を呼ぶ声が、少しだけ低くなる。

 玲音は答える代わりに微笑んだ。

 言葉にしなくても伝わってほしいと思った。

 大切にしたい。

 そばにいたい。

 この人と一緒にいたい。

 それが今の自分の気持ちだった。

 透真はしばらく何も言わなかった。

 ただ、玲音を見つめていた。

 嬉しいはずだった。

 望んでいた言葉を、彼女が自分から伝えてくれた。

 それなのに、その幸福が大きければ大きいほど、心の奥に残る疑問もまた大きくなっていく。

 ――本当に?

 そう尋ねたくなる自分が、透真は嫌だった。

 今ここで玲音の言葉を疑えば、彼女をまた傷つけてしまう。

 そんなことはしたくなかった。

「……ありがとう」

 透真はようやく微笑んだ。

 玲音も嬉しそうに笑った。

 窓の外では、いつの間にか夜が深まっていた。

 遠くで時計が時を告げる。

 屋敷の中は静まり返り、二人のいる部屋だけに柔らかな明かりが灯っていた。

 やがて会話は少なくなった。

 何かを約束したわけでも、特別な言葉を交わしたわけでもない。

 それでも二人は、その夜を互いのそばで過ごした。

 昼間の薔薇の香りも、食卓の賑やかさも、少しずつ遠い記憶へ変わっていく。

 そして静かな夜が、二人の間に残された言葉にならない思いを、そっと包み込んでいった。

◇

 夜がさらに更けた頃。

 玲音は透真のそばで、穏やかに微笑んでいた。

「……ありがとう、透真」

 その声には、深い安堵が滲んでいた。

 今日一日を振り返れば、幸せなことばかりだった。

 一緒に朝食を食べた。

 薔薇園で紅茶を飲んだ。

 たくさん笑って、冗談を言い合った。

 美味しいものを食べて、透真の嬉しそうな顔を見た。

 そんな何でもない出来事が、玲音には何より愛おしかった。

 少し前まで感じていた不安は、今は遠い。

 何かを忘れているような感覚も、眠気の中では輪郭を失っていく。

 ただ、透真のそばにいられることが嬉しかった。

 やがて玲音は静かに目を閉じた。

 しばらくすると、規則正しい寝息が聞こえ始める。

 透真はその寝顔を見つめていた。

 穏やかな顔だった。

 自分を恐れて逃げようとした、あの日の玲音とはまるで違う。

 今の玲音は、自分の名前を呼ぶ。

 好きだと告げる。

 自分から近づき、笑いかけてくれる。

 それは透真が何より欲しかった幸福だった。

 けれど。

 朝、庭で口にした言葉が、再び胸の奥で響いた。

 ――僕は玲音に好きでいてほしい。操ってじゃなくて。

 あの言葉は本心だった。

 透真は誰よりも玲音に愛されたい。

 彼女の世界の中で、自分が特別な存在であり続けてほしい。

 できることなら、彼女自身に選ばれたい。

 けれど、その願いを持ちながら、透真は彼女を失わないために共鳴コードを使った。

 玲音が自分を忘れかけたときも。

 逃げようとしたときも。

 そして昨日、彼女が泣きながら自分に謝った夜にも。

 自分のしていることを、透真は理解していた。

 それでも、やめられなかった。

 玲音を自由にして失うことが、何より怖かったからだ。

 透真は眠る玲音へ視線を戻した。

 彼女の言葉は、嘘には聞こえなかった。

 今日見せてくれた笑顔も、照れた顔も、冗談を言って笑う姿も。

 どれも自然で、彼女らしかった。

 誰かに命じられたからではなく、自分の意思でそうしているように見えた。

 だからこそ、透真は苦しかった。

 もし共鳴コードがなかったとしても。

 玲音は同じように、自分を愛してくれただろうか。

 同じ笑顔を向け、同じ言葉をくれただろうか。

 その答えを知りたいと思った。

 しかし、確かめることが怖かった。

 確かめるためには、今の幸福を失う危険を受け入れなければならない。

 透真には、まだその勇気がなかった。

 玲音の頬に掛かった髪を、そっと払う。

 彼女は目を覚まさない。

 安心しきった寝顔のまま、静かな眠りを続けている。

「……おやすみ、玲音」

 透真は小さく呟いた。

 返事はない。

 ただ穏やかな寝息だけが返ってきた。

 窓の向こうでは、秋の夜風が薔薇の枝を揺らしている。

 明日もまた、同じ朝が来る。

 玲音が目を覚まし、自分の名前を呼んでくれる。

 透真はそう信じたかった。

 たとえ今は、その幸福が何によって支えられているのかわからなくても。

 眠る玲音の左手で、約束の指輪が月明かりを受けて小さく光った。

 透真はその輝きを、長いあいだ見つめていた。

 愛されたい。

 自分だけを見ていてほしい。

 そして何より、彼女自身に選ばれたい。

 その願いが、自ら彼女へ掛けた見えない鎖と矛盾していることを、透真は誰よりもよく知っていた。

 それでも、今夜も彼女を手放すことはできなかった。

 静かな部屋の中に、二人分の時間が流れていく。

 玲音は幸福な夢の中にいた。

 透真だけが、その幸福の答えを見つけられずにいた。



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