第七章 亡霊の行軍
1. 雪原の邂逅
数日後、ラインベルト国境付近。
雪混じりの雨が世界を鈍色に塗りつぶしていた。
ラヌムスが放った「偽装クスト部隊」は、再び略奪の火を上げている。
かつての英雄の鎧を纏った男が、無防備な農民に剣を振り下ろそうとした。
その瞬間。
雪煙を裂き、「黒い風」が戦場を横切った。
――ガツッ。
内臓に響くような重い衝撃音。
偽物の剣は、突如として現れた白銀の仮面の騎士の一撃によって、弾き飛ばされた。
「……なっ、何者だ!? アトラクトの刺客か!?」
偽装兵たちが色めき立つ。
だが、目の前の騎士は一切の言葉を発しない。
ただ静かに宝剣の柄に手をかけた。
抜刀。
その瞬間、周囲の空気が凍りついた。
音が消える。
雪の落ちる速度すら遅くなったような、無駄を削ぎ落とした神速。
一閃。
三人の偽装兵の喉笛が裂る。
鮮血が純白の雪原を染める。
鉄仮面の騎士は、返り血を拭うことすらしない。
一歩。
踏み込みと同時に次の一人の剣を弾き、そのまま喉元へ刃を滑り込ませる。
動きに迷いも、無駄もない。
ただただ、正確で速い。
彼はもはや人間ではなかった。
人を切る「現象」として、淡々と偽装兵を解体していく。
「ば、馬鹿な……。あんな動き、人間じゃない……!」
偽物のリーダー格の男が、恐怖に顔を歪めて後退する。
彼はクストの戦術や剣を徹底的に叩き込まれているはずだった。
だが目の前の怪物の動きは、まるで違う。
これは「本物」だ。
理解した瞬間、足がすくむ。
雪原にただ一人、白銀の死神が立っていた。
2. 影の嘲笑 雄弁な告白
一里離れた丘の上。
その光景を見下ろすラヌムスは、震える手で自身の口元を覆っていた。
怒りではない。
それは、狂おしいほどの歓喜だった。
「……ああ、そうだ。それだ」
吐息混じりの声が漏れる。
「その踏み込み、その剣筋。……隠せていないぞ、クスト」
彼の目は獲物を見つけた獣のように細められる。
「どれだけ仮面で顔を隠し、声を殺そうとも、その『武』こそが貴公の告白だ」
ラヌムスは、ゆっくりと伝令兵に視線を向ける。
「全軍撤退させろ」
あまりにあっさりとした命令。
「……今はまだ、あの男を追い詰める必要はない」
口元に歪んだ笑みが浮かぶ。
「……ラインベルトのラノアに伝えろ。『アトラクトが、正体不明の怪物を放って証拠隠滅を始めた』とな」
ラヌムスは理解していた。
本物のクストが動けば動くほど、その「圧倒的な強さ」が逆に仇となる。
神出鬼没に現れるこの仮面騎士。人間離れした剣技。
疑念はやがて確信へと変わる。
あこそが、本物のクスト・レアだ。
その疑念は、かつての友ラノアの心に、毒のように染み込んでいく。
アリスの救済は、ラヌムスの手によって「隠蔽」に翻訳される。
雪原に残されたのは、偽装兵の死体の山と、一騎。
雪の中に立ち尽くす白銀の仮面。
そして、その背後。
常に項と向けられた、ジークシールドの冷たい視線だけだった。
「……引き上げよう、ネームレス」
ジークの声は低く、感情がない。
「……獲物は逃げた。これ以上の深追いは、姫様の嘘を危険に晒す」
鉄仮面の騎士は無言で剣を鞘に収めた。
血の匂いと雪の中で、クストは理解していた。
自分を否定するために、自分の名を持つ者を斬り続ける。
それは救済ではない。終わりのない巡礼だ。
出口のない泥濘を、歩き続けるための。
3. 裁定者の眼差し
その時だった。
死体だけが転がる静寂の戦場に、場違いな美しい羽音が響いた。
空から舞い降りたのは、一羽の真っ白な梟。
血の臭いすら寄せ付けぬ正常な軌道を描き、それは白銀の鉄仮面の騎士の肩口をかすめて旋回する。
その足爪から、ひとつの書状が落ちた。
それは蝋封すらされていない、剥き出しの紙。
隠す意思すらない、宣告。
ジークシールドが無言でそれを拾い上げる。
内容を改めることもなく任務としてそれを懐に収めた。
数刻後。
その書状はアトラクト王宮の奥、アリスの私室へと届けられた。
暖炉の火が、ぱちりと爆ぜる。
それ以外の音はない。
アリスは封もない紙を開き、そして止まった。
『アリス・ミルケ・ジオ』
名を呼ばれただけで、背筋に氷が走る。
『貴女の嘘が、雪原を赤く染めている』
心臓を冷たい手で掴まれたような錯覚。
呼吸が浅くなり、戦慄がアリスを襲った。
ミーテラス女王は、すべてを見通している。
クストの生存。
鉄仮面の正体。
機密費を洗浄。
オマールの救済の道。
そして、それがいまやラヌムスの手によって虐殺の侵攻路として利用されている事実。
すべて。一切の例がなく。
『聖エルマの合意が破られた場合、その裁定権を貴女個人に委ねます』
アリスの指が、わずかに震える。
『……白紙の委任状を授けます。好きに記しなさい』
一瞬だけ、可能性という甘い響きが脳裏をかすめる。
だが、次の一文がそれを引き裂く。
『ただし、それは、貴女の嘘を支える柱にもなり得るが、同時に貴女自身を断罪する台座ともなる』
静かな文章。
だがそれは選択ではなく、責任の押し付けだった。
ミーテラス女王は、裁かない。
ただ、裁く権利を与える。
そして、失敗したものを例外なく切り捨てる。
それが「裁定者」。
沈黙という形でアリスを引き上げ、同時に断崖へと立たせる存在。
「……試されているのね」
声が掠れてた。
「私が、この『死体』を」
無意識に、その名を呼びかけて止まる。
「……使いこなせるかどうかを」
震える手で書状を握りしめる。
女王からの「裁定権」という強大な力。
この力があれば、ベベクロの「第十二条」を正面から破壊できる。
アソセスの物流封鎖を、法的に無効かできる。
だがもし書き込めば、それはラヌムスが捏造した「虐殺」の罪を、自分が引き受けることを意味する。
背後で嘲笑う父王の狂気。
そして目の前に提示された「白紙の断頭台」。
(……ええ)
ゆっくりと、息を吐く。
(私はもう、選んでいる)
善意の嘘。救済のための虚構。
そのすべてが、いまや自分の首を締め上げる構造になっている。
だが、それでも。
「……なら、その綱で、世界を締め返す」
アリスの瞳から迷いが消え、冷たい決意だけが残る。
嘘は、もはや手段ではなく、彼女自身の在り方となっていた。




