第六章 その男、ラヌムス
1. 英雄を汚す「翻訳者」
断歴996年、冬。
ラインベルト国境付近、宿場町「リフレイン」
静かな町は突如として阿鼻叫喚の地獄へと変貌した。
「……見ろ! あの紋章、あのアソセスの『黒い太陽』だ!」
凍てつく闇の中、燃え盛る民家が、漆黒の騎兵集団を浮かび上がらせる。
逃げ惑う守備兵たちが目撃したのは、炎の中に悠然と佇む、あの「カレル平原の怪物」クスト・レアの鎧であった。
燃える街を見下ろす男、ラヌムス。
彼の口角は、どろりとした愉悦に吊り上がっていた。
(――ああ、いい気分だ。クスト、貴公が夜闇に紛れてコソコソと、アリスの毒を糧に物資を運んでいることは知っている)
(貴公のその『高潔な救済』を、私が最高に『残酷な惨劇』に翻訳してやろう)
彼にとって、クスト・レアは、人生のすべてを否定し続ける呪いだった。
かつてアソセス軍において、二人は常に比較される運命にあった。
武勇においてラヌムスが敵を十人斬れば、クストは静かに百人を退けた。
ラヌムスが冷徹な戦術で勝利を掴めば、兵たちは「汚い手を使う副官」と彼を疎む。
ただ前線で血を流すだけのクストを「高潔な英雄」と崇めた。
どれほど実績を上げても、ラヌムスの席は常にクストの背中越しにしか用意されていなかった。
自分の方が世界の「不条理」を理解し、効率的に戦っているはずなのに、世界はいつも、光り輝くクストばかりを愛でる。
(貴公のその沈黙が、その高潔さが、どれほど私の自尊心を削ってきたか……。英雄? 守護者? 吐き気がする。所詮、時代に使い潰されるだけの木偶ではないか)
ラヌムスはクストを憎んでいた。
(世界が結果ではなく物語を評価するなら、俺は物語を作る側に回る)
「……さあ、徹底的にやれ。クストの名の元に、あらゆる慈悲を焼き尽くせ」
「偽りのクスト」は、英雄が最も忌み嫌った、非戦闘員の蹂躙を開始した。
彼らはラインベルトの救護所を襲い、逃げ遅れた医師や女子供を無慈悲に斬り伏せていく。
ラヌムスが仕組んだ「演劇」は、徹底していた。
襲撃の跡地には、アリスの家紋が刻印された矢が意図的に遺棄される。
冤罪ではなく状況証拠が完璧すぎる真実。
(貴公の『武』と、王女の『嘘』。この二つが組み合わさったとき、世界はそれを救済とは呼ばない。……『裏切り』と呼ぶのだ)
アリスが心血を注いで維持していたオマールの「垂直の道」は、いまやラインベルトへの侵攻路へと塗り替えられた。
アリスが民を救うために編み上げた「蜘蛛の糸」は、ラヌムスが放った「嘘」という名の業火によって、アトラクトとアソセスを心中させる「絞縄」へと変貌してしまったのである。
2.リフレインの「雷鳴」
ラインベルト国境付近、宿場町リフレインへと続く街道。
ラヌムスが放った「偽装クスト部隊」の一部隊は、絶好の獲物を捉えたと確信していた。雪の轍を刻みながら進む、豪華な商隊。
それは自由都市カーターベイの武装商船団が、陸路の利権を広げるために送り込んだ先行隊であった。
「ハハハ! 逃げろ、金に汚い守銭奴ども! 将軍クスト・レアの『慈悲』を、その身に刻んでやる!」
黒騎兵の鎧を模した偽装兵たちが、英雄の名を汚す咆哮を上げながら突撃する。
鋼の蹄が地面を叩き、蹂躙が始まる。
だが、商隊の男たちは、恐怖に震えるどころか、事務的な手際で荷台の覆いを跳ね除けた。
そこに並んでいたのは、剣でも槍でもない。
「黒い鉄の棒」であった。
「……標的、確認。迎撃を開始する」
商人の一人が、感情を排した声で命じた。
一瞬の沈黙。
次の瞬間、静寂を「雷鳴」が引き裂いた。
ズドォォンッ!!
凄まじい爆音と、視界を白く染める硝煙。
突撃の先頭を駆けていた偽装兵たちが、目に見えない衝撃に叩き伏せられた。
自慢の重装の鎧が、まるで紙細工のように貫通され、背中から血の霧が噴き出す。
「な……ッ!? 何が起きた!? 魔法か!?」
パニックに陥る偽装兵たち。
二射、三射。
煙の中から放たれる「雷鳴」が、偽装兵たちの馬を、鎧を、事務的に、淡々と粉砕していく。
それは戦闘ではなく、「不良在庫の処分」に近い光景であった。
この光景を、一里離れた丘の上から単眼鏡で眺めている男がいた。
ガレスの軍師、ベベクロである。
彼は兵たちの断末魔を耳にしながら、手元の帳簿に精密な数字を書き留めていた。
「……なるほど。南方の友人たちが寄越した『玩具』は、存外に使い勝手が良いようだ」
「一人の英雄を育てるには十年の歳月と多額の金が必要だが……あの鉄の棒なら、農奴を三日も仕込めば騎士の胸当を貫通させられる。アリス王女、貴女の『知略』も、この圧倒的な『効率』の前には、ただの古いお伽噺になり果てるでしょうな」
ベベクロは満足げに帳簿を閉じ、闇の中へと姿を消した。
後に残されたのは、英雄を騙り、時代の進歩という名の雷鳴に焼かれた偽装兵たちの死骸と、すべてを覆い隠そうとする冷たい冬の霧だけであった。




