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第五章 見えない絞首刑 Ⅲ

 5. リスパトの沈黙


 王都リスパトの朝市。

 エララは関所での交渉に失敗し、力なく街に戻っていた。


 商店の棚は空ではない。

 空ではないが、並んでいる小さなパン一つが、一ヶ月前なら肉が買えたはずの値段になっている。


「……平和になったはずじゃないのか」


 広場で炊き出しを待つ老婆が、力なく呟いた。


 エララは自ら炊き出しの列に加わり、老婆の手を握る。

 かつてこの手は、民への慈愛を説くためのものだったが、今は共に泥にまみれることしかできない。

 路地裏で燻る不満。


 それは、物理的な暴力よりも深く、民の心を腐らせていく。

 カーターベイはそれを承知の上で、あえてアソセスの自警団には一切手を出さなかった。


「自分たちの不幸を、自分たちの政府(アリス)のせいにさせる」


 その狙いは、的中していた。


 エララがどれほど「これはカーターベイの策謀です」と説いても、飢えた民の耳には届かない。


「……エララ様、もういいんだ。分かっている。……アリス王女は、私たちを売ったのさ。アトラクトが豊かになるために、アソセスをガレスの家畜にしたんだ」


 ある母親が、固くなったパンの欠片を握りしめ、泥濘の中に膝を突いた。彼女が呪っているのは、略奪を行う兵士ではない。


「平和」という名の鎖で自分たちを縛り付け、優雅な王宮で微笑んでいるはずの「アトラクトの王女」であった。


 エララは、アリスへの憎悪を募らせる民衆を前に、言葉を失い、ただ降りしきる雨に身を任せるしかなかった。


 6. 蝕まれるアリスの盤面


 アトラクト王宮の奥。


 届く報告書のすべてが怨嗟の声で埋め尽くされている。


 アリスは吐き気を感じ机に突っ伏していた。

 報告書の末尾には、エララの動向が記されている。


『……民衆の間では、アリス王女への反発が高まり、エララ王女への同情が集まっています』


「……カーターベイ、恐ろしい組織。彼らは一滴の血も流さず、私の署名を『絞縄(しめなわ)』に変えてしまった。……そしてエララ様まで、私の嘘の犠牲にしている」


 その声は低くかすれていた。

 だが、その瞳にはまだ鋭い光が残っている。


 彼女は報告書をめくり、連合国が管理する「公的な帳簿」と、「裏の計量」を懸命に照らし合わせていた。


 窓の外では、父王がシオンと無邪気に遊んでいる。


 父王は、娘が必死に編み上げる「蜘蛛の糸」が、いつか自重で千切れるのを待っている。


「……クスト。貴方が守りたかった国を、私は嘘の糸で繋ぎ止めている。けれど、この糸がいつまで保つか……」


 その日の深夜の執務室。

 アリスは帳簿を前に、蝋燭の火を揺らしていた。


 そこへ、小さなノックの後、老大臣パラネスが入室してくる。


「……夜更かしは肌に毒ですぞ、アリス姫」


 パラネスは、かつての師としての鋭い眼差しを向けた。

 彼は広げていた書類の上へ、一通の赤い封紙の報告書を置く。


「姫様が『アソセスの残党監視』という名目で動かしている機密費……。その流出先が、オマール国境付近で不自然に膨れ上がっております。 計量単位をいじって隠しているつもりでしょうが、私の目は誤魔化せません」


 アリスは「魔女」の笑みを浮かべてみせた。


「……あら、パラネス先生。監視にはコストがかかるものですわ。あの『番犬』や、消えた黒騎兵たちの幽霊を追いかけるのは大変なんですのよ」


「その『亡霊部隊』の維持費と、アソセスへ流れている物資の金額……。既に一国の軍事予算を脅かす規模に達している。王宮の監査官たちが貴女に疑惑の目を向けていますぞ」


 パラネスは、声を更に低くする。


「貴女が救おうとしている『命』の重さが、そのまま貴女を処刑台へ送る『金貨の重さ』に変わろうとしている」


「美しすぎる嘘は、いつか必ず破綻する。……それでも、この危険な賭けを続けるおつもりか?」


 アリスは震える指先を隠すように帳簿を閉じ、月光の差し込む窓の外を見つめた。


「ええ。……数字で国を殺すのが彼らのやり方なら、私は数字で人を救ってみせる。たとえ、この帳簿が私の首を絞める綱になろうとも」


 パラネスは深く溜息をつき、去り際に一言だけ残した。


「……やれやれ。シオン様には、姉様は夜なべをして新しいドレスを縫っているとでも嘘を言っておきましょう。……精々、その綱が千切れる前に、計算を終わらせることですな」


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