第一章 復讐の季節 Ⅱ
3. 霧の中の密約 ―― 誰が為の秤か
王都を出て十日。
連合軍がカレル平原を望む丘陵に布陣を終えようとする頃、深い霧に包まれたオマール軍の野営地で、極秘の会談が行われていた。
オマール。
義賊の王ガレイシアが治める山岳国家。
かつてラインベルトを退けた山は、いまも傭兵と密偵の巣窟だ。
「……ハッ。供も連れず、俺の斧の射程に入ってくるとはな。命知らずの鳥が迷い込んだか」
ガレイシアの前に立つのは、深いフードで顔を隠した一人の少女だった。
しかし、霧の奥、少女の背後に、もう一つ影があった。
彼女の副官兼護衛のジーク・シールドである。
「ずいぶん静かな護衛だな」
「音を立てる刃は、三流です」
少女は微笑み、ジークは一言も発しない。
巨大な戦斧を岩に突き立て、ガレイシアが不敵に笑う。
その傍らには、隻眼の老人軍師モースがいた。
大陸中の古い街道や廃道を網羅した「生ける地形図」である。
「軍議の前に、貴方にだけは伝えておきたかったのです、山の王よ」
霧を透き通る鈴の音のような少女の声。
「あの軍師は、戦の後に大陸の“価値”を書き換えるおつもりです。」
「戦の後だと? 騎士道だの復讐だのと騒いでいる連中の裏で、そんな退屈な夢を見ている奴がいるのか」
「ええ。不気味な時代の足音を、ガレイシア王、貴方なら嗅ぎ取っているはず。ガレスがアソセスを完全に飲み込めば、次はその『秤』の上に、あなたの国が載せられる。……それが嫌なら、賭けに出ません?」」
ガレイシアは、背後のモースと視線を交わした。
モースが隻眼を細め、静かに頷く。
「いいだろう、お嬢ちゃん。俺たちは『秩序』って奴が大嫌いでね。モース、隠し街道を使わせろ。俺たちは山側の退路を『封鎖』し、連合の連中には落盤で全滅したとでも言っておいてやるよ」
「十分ですわ。残りは私が受け持ちます。本営は、よく響く場所ですから。」
少女は優雅に会釈し、霧の向こうへと消えていった。
ガレイシアは、その背中を見送りながら、愉快そうに斧を肩に担いだ。
4. 歪んだ正義の円卓 アリス・ミルケ・ジオ
カレル平原を一望する北側の丘陵。
少女は、連合軍本営へと歩を進めていた。
眼下には、アソセス王国が誇る四万五千の軍勢が展開している。
――諸将が居並ぶ幕内。
ガレスの軍師ベベクロは、指先で銀貨を弄び続けていた。
深い隈の浮いた瞳は、目の前の戦況図ではなく、鉄の壁のどこかに潜むはずの「継ぎ目」を執拗に追いかけている。
「……どれほど厚い鉄の殻とて、継ぎ目を見誤らなければ、指先一つで砕けるものですからな」
その湿り気を帯びた独白を遮るように、凛としたあまりにも場違いな「鈴の音」が響いた。
軍幕を警護する兵たちが、弾かれたように直立不動の姿勢をとり、左右へ分かれる。
逆光の中、ゆっくりと歩み寄る一つの影があった。
「遅れてしまって、申し訳ありません。――アトラクト王国全権使節、アリス・ミルケ・ジオです」
現れた少女がフードを脱ぐと、霧の中に月光を溶かしたような銀色の金髪がこぼれ落ちた。
五年前の大戦を調停した「聖女エルザ」を彷彿とさせながら、纏っているのは白銀の意匠が施された深紅の軍装。
その指揮官としての立ち姿は、彼女が単なる「聖女の忘れ形見」としてここに来たのではないことを物語っていた。
「聖女様の出来損ないの娘さんよぉ!」
ガレスの大将軍バスタレインが罵声と共に唾を飛ばす。
「一万の兵しか出さぬアトラクトの小娘が、今更何の用だ! 貴様の兵の布陣は、我らの背後を狙っているようにも見えるぞ。これは、神聖なる復讐への不忠と見なしてもよいのだな!」
野卑な洗礼に、アリスは立ち止まりさえしない。その様子を見たベベクロが
「将軍、それくらいに。女王の姪を処刑台へ送るのは我々の仕事ではない」
と冷ややかにたしなめた。
「アリス姫……。くく、相変わらず美しい。だが、その美しさ以上に恐ろしい」
ベベクロは、粘つくような視線をアリスに固定したまま、掌で銀貨をゆっくりと押さえつけた。
「貴女はその『賢すぎる瞳』で、連合側でありながら、一万の兵を最後尾に置き、高みの見物と洒落込む。戦を観測し、死臭のなかから最も甘い汁だけを掬おうという、実に欲張りなお積もりだ」
アリスは、優雅に扇を広げた。
扇の陰で、彼女の唇は冷たく歪んでいる。
「勘違いしないでください、ベベクロ様。私の一万は、貴方たちが『正義』を逸脱し、伯母であるミーテラス女王の裁定を“受ける側”に回らないための保険です」
氷のように冷たいアリスの視線が、ベベクロの毒を真っ向から押し返す。
「聖エルマで殺された、あの少年……。彼が殺された瞬間、母が命を賭して結んだ契約は破棄されたのです。」
「私はお母様のように祈りはしません。ただ、貴方たちが正軌を逸したとき、速やかに『処理』いたします。女王の怒りを買い裁定が下る前にね」
ベベクロは、恍惚とした表情を浮かべた。
「処理、ときた。くく……。やはり姫様は、私と同じ側の人間だ。この世界がどこから、どんな音を立てて瓦解するのか……それを特等席でお楽しみにしていらっしゃる」
粘つく視線がアリスに注がれる。
その視線を遮るように、ジークシールドがアリスの斜め前に立ち、無言のまま圧をかけた。 アリスはジークの肩越しに、冷たく言い放つ。
「処理するのは私ではなく、私の影です。……行きましょう」
アリスは翻り、軍幕を去った。
その背中を見送るベベクロの瞳には、獲物を定める蛇のような執着が、濁った光となって宿り続けていた。
やっとこさ、主人公のヒロインの名前が出てきました。
でも彼女最初の設定では影も形もない存在だったのに。




