プロローグ
私は、祈らない。
母は祈った。
両膝を泥につけ、敵の手を握り、「赦し」を説いた。
その背中は美しかった。
そして、世界は何も変わらなかった。
だから私は嘘をつく。
祈りの代わりに。
騎士道の代わりに。
「正義」という名の、誰かの死の代わりに。
——これは、私が「嘘で戦争を止める」までの記録。
そして、その嘘が世界を焼き尽くすまでの記録でもある。
アリス・ミルケ・ジオ
泥の中、英雄はまだ生きていた。
三日間、クスト・レアは連合軍をエルン峡谷に釘付けにした。
だが今、彼は退路なき湿地に追い込まれている。
進めば沈み、戻れば討たれる。袋小路だった。
その境界に、少女は現れた。
膝まで沈む泥を踏みしめ、ただ一人で本陣へ歩く。
「来ました。後方警戒兵、三」
背後で低い声。次の瞬間、風もなく三人が崩れ落ちた。
喉元に、銀の刃。
(……ごめんなさい)
少女は一瞬だけ目を伏せ、すぐに顔を上げる。
黒騎兵たちの視線が突き刺さる中、彼女は止まらない。
「お疲れ様です、クスト・レア将軍」
静かな声が、泥濘に落ちた。
「世界中を敵に回して、まだ余裕はありますか?」
男が振り返る。
「……アトラクト王女、アリス・ミルケ・ジオ」
その名を呼ぶ声は低く、疲れていた。
「貴公、死にに来たのか」
「いいえ」
一歩、踏み込む。
「終わらせに来たのよ」
場の空気が凍りつく。
「このままでは、貴方は聖エルマの犯人として歴史に刻まれ、アソセスは滅びる」
アリスは羊皮紙を差し出した。
王の署名入りの破門状。
「……陛下は、俺を捨てたのか」
「ええ。でも、それが救いになる」
少女はためらいなく言い切る。
「貴方がここで死ねば、国は滅びる。
でも、“いなかったこと”になれば救われる」
羊皮紙を裏返す。
そこは、真っ白だった。
「何も書かれていないのは、書けなかったからよ。
感謝も、謝罪も、全部」
沈黙。
泥の匂いだけが重く沈む。
「……卑怯だな」
「ええ」
即答だった。
「王も、私も」
アリスは一歩、さらに近づく。
「だから取引をしましょう、将軍」
その瞳は、どこまでも冷たい。
「貴方はここで死ぬ。
正確には、“死んだことにする”」
「名前も、過去も、すべて捨てて」
「私の“嘘”になるの」
ざわめきが走る。
黒騎兵たちが武器を握る。
だがクストは動かない。
「……兵はどうなる」
「奪うわ」
アリスは迷いなく言った。
「三千すべて。名前も所属も過去も」
「今日から彼らは、私の部隊になる」
「――ネームレス」
その言葉が、静かに落ちる。
「牙は折らない。むしろ研がせるわ。
アソセスが再び立つ、その日まで」
長い沈黙。
やがて、クストは剣を握りしめた。
守ってきたものの重みが、今さらのように腕に食い込む。
「……取引、か」
「ええ」
アリスは微笑んだ。
「私は貴方の武勇を買う。
貴方は、私の“嘘”を買う」
「そして一緒に地獄へ落ちる」
ほんの一瞬だけ。
(それでも、これしかない)
その表情に影が差す。
「……悪くないでしょう?」
沈黙の果てに、クストは目を閉じた。
「……分かった」
「全部、ここに置いていく」
何かが、終わった。
その夜、三千の黒騎兵は泥の中から消えた。
死体は残らない。証拠も残らない。
ただ一つだけ。
「クスト・レアは壮絶な戦死を遂げた」
という物語だけが、翌朝、世界に流れる。
それが――
この戦争を終わらせるための、最初の嘘だった。
はじめまして。べべべと申します。
はじめて投稿いたします。この物語は私が十代前半から妄想・設定をしていた黒歴史を元にした戦記小説です。
もっと明るい話になるはずでしたが、主人公アリスの嘘のお陰で、どんどんダークな話になっていきました。舞台は十五世紀から十六世紀の欧州あたりをモデルにした世界観となっております。
ぜひこの『中二病黒歴史小説』にお付き合いしていただけたら幸いです。
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