第一章 復讐の季節 Ⅱ
3. 霧の中の密約 ―― 誰が為の秤か
王都を出て十日。
連合軍がカレル平原を望む丘陵に布陣を終えようとする頃、深い霧に包まれたオマール軍の野営地で、極秘の会談が行われていた。
オマール。
義賊の王ガレイシアが治める山岳国家。
かつてラインベルトの代官の圧政を退けた山は、いまも傭兵と密偵の巣窟だ。
「……ハッ。供も連れず、俺の斧の射程に入ってくるとはな。命知らずの鳥が迷い込んだか」
ガレイシアの前に立つのは、深いフードで顔を隠した一人の少女だった。
しかし、霧の奥、少女の背後に、もう一つ影があった。
彼女の副官兼護衛のジーク・シールドである。
「ずいぶん静かな護衛だな」
「音を立てる刃は、三流です」
少女は微笑み、ジークは一言も発しない。
彼がアリスの影になったのは、五年前のことだ。
エルマの神殿。母が死んだあの日。
誰も気づかない場所で、誰も知らない方法で、 この男はずっとアリスを守っていた。
祈りが届かない場所で、 鉄だけが真実だと知っている男。
アリスにとって、それは何よりも信頼できる証明だった。
巨大な戦斧を岩に突き立て、ガレイシアが不敵に笑う。
その傍らには、隻眼の老人軍師モースがいた。
大陸中の古い街道や廃道を網羅した「生ける地形図」である。
「軍議の前に、貴方にだけは伝えておきたかったのです、山の王よ」
霧を透き通る鈴の音のような少女の声。
「あの軍師は、戦の後に大陸の“価値”を書き換えるおつもりです。」
「戦の後だと? 騎士道だの復讐だのと騒いでいる連中の裏で、そんな退屈な夢を見ている奴がいるのか」
「ええ。不気味な時代の足音を、ガレイシア王、貴方なら嗅ぎ取っているはず。ガレスがアソセスを完全に飲み込めば、次はその『秤』の上に、あなたの国が載せられる。……それが嫌なら、賭けに出ません?」
ガレイシアは、背後のモースと視線を交わした。
モースが隻眼を細め、静かに頷く。
「いいだろう、お嬢ちゃん。俺たちは『秩序』って奴が大嫌いでね。モース、隠し街道を使わせろ。俺たちは山側の退路を『封鎖』し、連合の連中には落盤で全滅したとでも言っておいてやるよ」
「十分ですわ。残りは私が受け持ちます。本営は、よく響く場所ですから。」
少女は優雅に会釈し、霧の向こうへと消えていった。
ガレイシアは、その背中を見送りながら、愉快そうに斧を肩に担いだ。
4. 歪んだ正義の円卓 アリス・ミルケ・ジオ
カレル平原を一望する北側の丘陵。
眼下には、アソセスの四万五千の軍勢が展開している。
その上を、少女は一人で歩く。
連合軍本営に向かって。
諸将が居並ぶ幕内には、すでに重苦しい空気が満ちていた。
ガレスの軍師ベベクロは、指先で銀貨を転がしている。
眼鏡の奥の深い隈の浮いた瞳。
視線は盤面ではなく、存在しない何かを探すように、空間を撫でていた。
「……どれほど堅い甲羅とて、継ぎ目がある」
銀貨が止まる。
「そこさえ見誤らなければ、指先一つで砕ける……」
その独白を断ち切るように、音が鳴った。
鈴の音のような足音。
兵たちが、一斉に道を開ける。
逆光の中、ゆっくりと歩み寄る一つの影があった。
「遅れてしまって、申し訳ありません」
空気が変わる。
「――アトラクト王国全権使節、アリス・ミルケ・ジオです」
フードを脱ぐと、
霧の中に月光を溶かしたような銀色の金髪がこぼれ落ちた。
聖女エルザを思わせる面影。
だが纏うのは祈りではなく、血のような深紅の軍装だった。
「ふざけるな、聖女様の出来損ないの小娘!」
ガレスの大将軍バスタレインが罵声を飛ばす。
「一万ぽっちしか出さぬアトラクトの小娘が、今更何の用だ!」
唾が飛ぶ。
「 貴様の兵の布陣は、我らの背後を狙っているようにも見えるぞ!」
アリスは立ち止まりさえしない。
そのまま、中央へ。
「将軍、それくらいに」
ベベクロが静かに割り込む。
「女王の姪を処刑する権限は、我々にはない」
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「アリス姫……。くく、相変わらず美しい。」
銀貨を掌でゆっくりと押さえる。
「一万の兵を最後尾に置き、戦場全体を観測する。死体の中から、
最も甘い汁だけを掬おうという、実に欲張りなお積もりだ」
粘りつく視線と、試すような声。
アリスは、優雅に扇を広げた。
その陰で、彼女の口元は冷たく歪んでいる。
「誤解です」
声は静かだったが、温度はない。
「私の兵は『保険』です」
視線が真っ直ぐベベクロを射抜く。
「あなた方が正義を踏み外し、伯母であるミーテラス女王の裁定が下る前のね」
一瞬、空気が凍る。
「聖エルマの少年……。彼の死と共に、
母が命を賭して結んだ契約もに似ました」
扇が閉じる。
「私は母のように祈りません」
一歩、踏み込む。
「逸脱したものは、ただ処理します」
……沈黙。
ベベクロは、恍惚とした表情を浮かべた。
「……くく」
喉の奥で笑う。
「……処理、ときた。やはり貴女はこちら側だ」
愉悦と確信が混ざる。
「世界が壊れる音を、理解している目だ」
粘つく視線を遮る影。
ジークシールドが、一歩前に出る。
言葉はなく、ただ圧だけがある。
「違いますよ、ベベクロ様」
アリスは淡々と否定した。
「処理するのは私ではなく、私の影です」
それだけ言って、背を向ける。
躊躇はない。
振り返りもせず、そのまま幕外へ。
残された静寂の中で、ベベクロは動かない。
ただ、その背を蛇の様な目で見続ける。
「……面白い」
銀貨が、再び転がり始めた。
やっとこさ、主人公のヒロインの名前が出てきました。
でも彼女最初の設定では影も形もない存在だったのに。




