第二十三話 『レニット・サーマル』下
目的の孤児院に到着し、リリーが用意してくれた夕食を食べ終えたレニットはすぐに寝てしまった。彼女自身、初めて長距離を徒歩で移動したのだ。道中、わがままを言うことなくデウスと手を繋いで歩いたというだけで、最大限に褒められるべきだろう。
娘の可愛らしい寝顔を見届け、デウスは食器を返すために部屋を出る。
孤児院がどういう間取りをしているか分からなかったが、二階は子供たちのものであろう部屋が多く並んでいるため、一階に降りる。
時刻は夜の8時。光源が乏しい世界において、特段の理由が無ければ大人も寝る時間である。
窓から差し込む月光を頼りにするしかない足元で一階を散策していると、硬いモノを軽く打ち付ける音が聞こえた。音の発信源を辿ると、厨房と思われる場所でリリーがランタンを灯して食器を洗っていた。
彼女は厨房を覗くデウスに気付き、彼に声をかける。
「デウスさん、わざわざありがとうございます。レニットちゃんの口には合いましたかね?」
「うん、美味しそうに食べてたよ。ご飯は君が?」
「いえいえ! 私は盛り付け程度で、ご飯は院長先生が作ってくれてるんです。代わりに私が食器洗いを」
役割分担としては妥当かもしれないが、リリーが担う仕事量にデウスは驚く。
デウスが孤児院に着いてからリリーの気を引こうとした子供たちは十人以上で、それで全員とは限らないために二十人近い子供たちが孤児院にいるはずだ。その子らを賄う食事を用意するための鍋や食缶、盛り付けのための食器にスプーンやフォークなど、シンクに収まらないほどに洗い物で溢れている。
子供らが手伝うならいざ知らず、リリー一人でこれを片付けるなど正気ではない。イビりを疑うほどで、デウスはリリーに問い掛ける。
「代わりにって……君はそれでいいのか? 君だってあの子たちと同じ――」
「同じ……ではないんですよ。この孤児院は私のために出来たようなものです。私がいなければ院長先生は未だに現場にいたかもしれません。心優しい先生だから、私を引き取ってくれたのです。そのご恩には少しでも報いなければ……」
ゆるゆると首を振るリリーは、悲哀を見せるどころか優しい眼差しで微笑んでいる。
「それに、私はあの子たちの“お姉さん”ですから」
灯に照らされている横顔は、どこか見覚えがある顔つきだった。
デウスは慈愛という概念そのものを目の当たりにした気がする。
それもそのはず、後にリリーはルノワール帝国帝都にて【聖女】と呼ばれるほどの人格者なのだから。
そのような未来など見通せるはずのないデウスは、この健気な少女の献身に報いたかった。
「何か……俺に出来ることはないか?」
「あっ……でしたら、食器を拭いてもらえませんか?」
リリーは一瞬目を丸くするが、すぐに頬を緩めて編み目の大きい籠を指差す。
籠には洗われた食器が立て掛けられていて、デウスは近くにあった布巾で拭く。子供たちの数だけ多くなる、尋常でない枚数の食器を続けざまに拭いた。布巾一枚では足りず、リリーに替えの布巾の場所を教えてもらうほどだ。
これだけの作業を、これまでは一人で……デウスはリリーに尊敬の念を抱き始めた。
結局、デウスが途中から手伝ったというのに、食器を全て片付けるまで20分近く要した。
ひと段落ついたデウスは、リリーと共に近くのテーブルにランタンを置いて座る。
「デウスさん、ありがとうございます。長旅でお疲れのところを……」
リリーはテレーズから話を聞いていたようだ。
「絶対とは言い切れませんが、レニットちゃんのことはお任せください。不肖リリー、デウスさんの頑張りを無駄にはさせません」
「ありがとう」
拳を当てた胸を張る姿は非常に頼もしく、笑みを浮かべて礼を述べる。
「それで……デウスさんはこの先どうされるんですか? よろしければ孤児院の管理人の一人になって頂ければ……何分男手が欲しい時は多々ありますし――」
「え? 俺は……ここに居ていいのか?」
「ん? え、ええ……孤児院に大人がいちゃいけないなんてことは……レニットちゃんもあれだけデウスさんに懐いているのですから、いなくなってしまわれたら、それはひどく泣いてしまいますよ?」
「そっか……そうだよな」
考えていなかった。デウスは、娘をここまで送り届けることが自分の最後の役目だと思っていた。自分がいたところでレニットに出来ることなどない。そう思い込んでいた。
しかし、そんなことを気にする必要がないのは当然だ。むしろ、デウスはレニットの“おとーちゃん”で在り続けなければならない。
そう思えば、新たな使命と希望――天啓を得たように感じる。
デウスはレニットの成長を見守り続けなければならない。そして、ようやく一歩目を踏み出せた、娘の輝かしい人生の道のりを特等席で見ることが出来る。
なんて素晴らしい――
~~~
「ハァっ……ハァっ……! あ”あ”あ”あ”ッ!!」
デウスは孤児院を飛び出し、訳も分からず森林を駆けている。
怖くなった。恐ろしくなった。慄いた。
レニットは優しい子だ。
おままごとの延長線だとしても、デウスが料理を運ぶのを手伝おうとしてくれる。
情けなくも疲れた素振りを見せれば「だいじょーぶ?」と心配してくれる。
旅の途中、デウスが魔獣と戦えばその度に『おとーちゃん』を描いてくれる。
この先、反抗期となってデウスに無垢な優しさを見せなく――
嗚呼、なんて素晴らしい。それほどまでにレニットが成長できるなんて。
しかし、レニットが母の存在に疑問を抱けば、どう思うだろうか。
不出来な父を導いてくれる優しい娘が母の死を知れば、どう思うだろうか。
自分が――
いや、そんな事実は絶対にない。
レニットは望まれ、祝福されて生まれたのだ。
そこに残酷な事実などあるはずがない。
あってはならない。
母は愛していた。想っていた。理解していた。
生んだばかりの娘が他の子供たちと比べて、ほんの少しだけ特別な才能を持っているという事実を。
その上で託した。今際の際にあっても、口から零れたのは娘の未来を繋ぐ無償の愛そのものの言葉。
しかしながら、娘に愛を伝える母はもういない。
この事実を心優しい娘はどう捉えるだろうか……
声を大にして否定したいのに、最悪の未来が容易に浮かぶ。
あってはならない。
無垢な娘の未来を後ろから引きずる事実など、あってはならない。
そして、デウスの存在自体が、その事実をレニットに突きつける。
あってはならない。
父という存在が、娘にあってはならなかったのだ。
デウスは木の根に躓き、森の中に倒れ込む。うずくまる。咽び泣く。
満月を覆う雲がデウスを闇に引き込む。
デウスは自分の存在が掻き消えないように声を上げる。
「ごめん……ごめん! レニィ! もう離れないって……約束したのに! 何もしてやれない……おとーちゃんを許さないでくれ……」
誰にも届かない懺悔を口にすると、懐に強烈な違和感を感じた。
取り出すと、それは折り畳まれた一枚の紙。レニットが初めて描いてくれた『おとーちゃん』。
「ああ……ア”ア”っ……ア”ア”ア”ア”ア”ア”!!!」
叫ぶ。
吠える。
「チクショウっ……! なんで……こんな、クソっ……! ああ……レニット……! また、俺を……おとーちゃんを描いてくれぇぇぇぇぇぇ!!!」
『おとーちゃん』がクシャクシャになるほど握りしめ、慟哭を夜空に向けて撒き散らす。
満月が嘲笑うかの如く雲間から顔を出し、哀れな父を照らし出す。
違う。自分のことは、もうどうでもいい。
せめて、願わくば、愛する娘の行く末を温かく照らしてほしい。
ただ、それだけを想って――
~~~
翌日。
レニットが起きると、父の姿はない。代わりになどなるはずもないリリーが沈痛な面持ちで目の前にいた。
そして告げられる。父はいなくなったと。
当然ながらこの事実を受け入れられるはずもないレニットは発狂。あたり構わず吸熱と発熱を暴走させた。
リリーはこれに全力で対処し、少なからず被害が他の子供たちに及ばないようにすることが出来た。
その後、レニットは塞ぎ込んだ。食事は空腹に耐えられなかった時にだけ食べ、三日に一度食べれば良い方だった。絵を描くこともなくなり、一日中ベッドの上に横たわっている。
この状態が一年間続いたが、その間もテレーズとリリーは献身的にレニットに寄り添った。
彼女たちはデウスが失踪した理由について、おおよその見当はついていた。あまりに愚直で、娘に対して真摯であろうとした父の心情は、察して余りあるものであると理解していた。同時期に孤児院へ物資を届ける商人の中に覆面の男が加わるようになり、なお一層この事実の痛ましさを感じた。
それ故、レニットの時間を止めてはならない。何としてでも前へ進ませなければ、親子の不幸をみすみす受け入れるという唾棄すべき未来に屈することになってしまう。そのような運命に抗うためにも、テレーズとリリーはレニットに向き合い続けた。
その甲斐あってか、レニットは次第に回復していった。
彼女は父との思い出を薄れさせることで、立ち直ろうとしたのである。
結果的に自己補完の忘却は成功し、絵を描けるまでに回復した。
自分の近くに居続けるリリーを実の姉のように慕い始め、彼女の監督の下で先天魔性の制御を身に着けることが出来た。魔獣相手にも有効なリリーの能力は重宝されており、彼女が参加する討伐任務に付き添っては誰よりも戦果を挙げていた。
誰にもサポートされずに魔獣を殺した単独討伐の数でいえば、レニットは7才の時点で一等魔術士のテレーズを上回っている。
魔術学校にすら通っていないレニットの強さは大人たちに注目されていたのだが、孤児院の子供たちとは距離があった。そもそもとしてリリーとテレーズがぽっと出のレニットを構っている時点で反感を買っていたにも関わらず、他の大人たちもレニットを特別扱いするのである。どのような経緯であれ、親の愛情に乏しい子供たちの精神衛生はレニットの出現によって明らかに悪化したはずだ。
むしろ、レニットが子供らの顔と名前が一致しないほどに接触を避けていた。この点においてだけは、学のない7才のレニットも子供ながらに達観していた。
根本的に、自分は生物としてのレベルが違うということを他の子供たちから嫌というほど感じていた。子供たちはあまりにも弱すぎる。それは大人たちにも言えることだった。唯一勝つビジョンを描けない生き物は、自身の力をことごとく封じてくるリリーのみだった。
決して悪感情によって周囲を見下していたわけではない。ただ、自分が“化け物”の類であると自覚するようになっただけである。
そして、顔すら思い出せない自分の親は、化け物が手に負えずに捨てたのだろうと自己完結した。
そこからはとんとん拍子で話が進み、8才で史上最年少の一等魔術士に認定され、同時期にリリーがルノワール皇帝の勅命によって帝都へ行ってしまった。別れの際に想いの丈が溢れてしまったわけだが、暴走することなく成長した姿をリリーに示すことが出来た。
そして、10才で魔術都市に向かうように魔術士組合から辞令が下った。テレーズとの別れを惜しんだが、これも化け物の役目と割り切って故郷を後にした。
メンデールでは飛竜を討伐する化け物としての役割を求められ、自身の力を遺憾なく発揮。11才で史上最年少の特等魔術士に任命された。
思い当たる障害もないまま世界の頂点に立ったレニットだが、彼女にとって8年もの間、解決できていない悩みがあった。時間さえあれば絵を描いていたわけだが、たまに筆が全く動かない状態に陥るのである。
頭に霧がかかり、その先を描くことが出来ない事実にフラストレーションが溜まる。飛竜相手には決して思わない無力感に近い。その時は決まって、レニットにとっての会心の出来になりそうな作品を描いている時だ。
原因が分からずとも、絵を描くことをやめることは出来ない。
誰に一番、自分の絵を見てほしいのかすら忘れたままに。
『レニット・サーマル』は、『最高の一枚』を追い求めて白紙を色付ける者の名である。




