第4話 戻る道
ブロムスの灰鷹に加わった翌朝。
アルクスは宿屋ノックスの一階で、薄い麦粥を口にしていた。
味は薄い。
肉も少ない。
だが、温かい。
それだけで十分だった。
宿屋の食堂には、灰鷹の面々がそろっている。
ジュドは卓の端で地図を広げていた。ミリアは椅子の背にもたれながら干し肉をかじっている。
フィリアは宿の女主人が下げようとしていた食器を、自然な動作でまとめていた。
ガルネは朝からよく食べている。
リッカは卓の端で紙と小袋を並べ、何かを確認していた。
ダインは眠そうな顔で粥をすすっている。
昨日加わったばかりのアルクスには、まだこの距離感が少し分からない。
彼らは遠慮がなかった。誰かが何かを言えば、すぐに別の誰かが返す。呼び方も、口調も、まるで昔から同じ家で暮らしている者たちのようだった。
「ダイン、それ私の干し肉」
「違う。こっちに置いてあった」
「置いてあったんじゃなくて、私が置いたの」
「なら名前を書いとけよ」
「肉に?」
「袋に」
「袋ごと持っていこうとしたくせに」
ミリアとダインがそんなやり取りをしている横で、ガルネが笑っている。
ジュドは地図から顔を上げずに言った。
「食い物で揉めるな」
「ジュドがもっと稼いでくれば揉めない」
「痛いところを突くな」
団長と団員。そう呼ぶには、やはり遠慮がなさすぎる。だが、乱れているわけではない。軽口の奥に、互いをよく知っている空気があった。
アルクスは粥を口に運びながら、その様子を静かに眺めていた。
「アル」
ふいに、ミリアがこちらを見た。
「いくつ?」
「年か」
「ほかに何があるのよ」
アルクスは一瞬だけ迷った。
本当の年齢は分からない。闇に沈む前、自分は二十五だったはずだ。少なくとも、今の見た目はその頃から変わっていない。
「二十五だ」
そう答えると、ミリアが少し目を丸くした。
「私と同じじゃない」
「そうなのか」
「そうなの。じゃあ、うちでは最年長組ね」
「最年長」
アルクスはその言葉を、内心で少しだけ奇妙に思った。
二十五。
最年長。
その程度の年齢として扱われることに、違和感と安堵が同時にあった。今はそれでいい。そう見えるのなら、そのように振る舞えばいい。
リッカが紙をまとめながら、ちらりとアルクスを見る。
「アルって、反応が少し遅れる時があるのね」
「そうか?」
「そう。今も少しだけ」
「考えていただけだ」
「そういうことにしておく」
リッカはそれ以上追及しなかった。
だが、その目はよく見ている。
アルクスは、少しだけこの女が苦手かもしれないと思った。
食事が終わる頃、ジュドが地図を畳んだ。
「アル。少し話せるか」
「ああ」
「二階でいい。昨日入ったばかりだから、うちの事情を少し話しておきたい」
アルクスは頷いた。ジュドは立ち上がり、食堂の女主人に軽く手を上げてから階段へ向かった。
アルクスも後に続く。
二階の部屋には、まだ誰もいなかった。
昨夜、灰鷹の者たちが使っていた部屋だ。荷袋が壁際にまとめられ、武器がいくつか立てかけられている。
窓は半分だけ開いていた。
外から、シュトラの朝の音が入ってくる。
荷車の軋み。
人の話し声。
遠くで鳴る鐘。
その中に、かすかに聖教会の祈りの声らしきものも混じっていた。
ジュドは窓を閉めた。
それから、椅子に腰を下ろす。
「昨日はばたばたして悪かったな」
「気にしていない」
「こっちは人手が欲しかった。アルは仕事が欲しかった。都合は合った。けど、何も知らないまま連れ回すわけにもいかないからな」
ジュドは地図を卓の上へ広げた。
「まず、俺たちがなぜシュトラにいるのかを話しておく」
「助かる」
「俺たちは一昨日、シュトラに着いた。東トランジェスタ方面の都市、トランからここまで、商人の荷馬車を護衛する依頼を受けていたんだ」
「トランからか」
「ああ。俺たちの今の拠点がある町だ。古いが、戻れる家もある」
「依頼は終わったのか」
「終わった。荷は無事に届いた。怪我人もいない。依頼としては成功だ」
ジュドは苦笑した。
「ただし、報酬は多くない。途中の食費、宿代、薬代でかなり消えた」
「だから、ここで次の仕事を探しているのか」
「そういうことだ」
あまりにも率直だった。
だが、それだけで灰鷹の現状は分かる。
小さな団。
少ない人数。
若い団員たち。
そして、金の余裕もない。
「シュトラで大きな仕事があるとは思ってなかった」
ジュドは地図の上で、シュトラの位置を指で叩いた。
「この町は小さい。人も数百人程度だ。仕事があるとしても、荷運びや短い護衛くらいだろうと思っていた」
「なら、仕事がなければすぐ戻るのか」
「いや。トランへ戻る途中で、いくつか町を回るつもりだ。受けられる仕事を受けて、路銀を作りながら戻る」
「各地を回るのか」
「ああ。真っ直ぐ戻っても金は増えないからな」
ジュドの言葉を聞きながら、アルクスは内心で静かに考えた。
それは、好都合だった。傭兵団に混じって町を移れば、今の世界のことを少しずつ知ることができる。
アルミドに住んでいた人々がどうなったのか。
アルミドの英雄と呼ばれた者が、今どう語られているのか。
この大陸の国々が、どのように変わってしまったのか。
聖教会とは何なのか。
一人で聞き回れば怪しまれることでも、傭兵として町を渡り歩く中なら、少しずつ探れるかもしれない。
「アル?」
ジュドが声をかける。
「いや」
アルクスは顔を上げた。
「町を回るなら、情報も集まると思っただけだ」
「情報が欲しいのか」
「知らない土地では、知らないまま動く方が危ない」
「それはそうだな」
ジュドは特に疑わなかった。アルクスはそのことに、少しだけ安堵する。
知りたいことは多い。
だが、それを見せすぎてはいけない。
この団に身を置くつもりなら、知らなすぎる人間に見えるのは危険だった。
アルクスは話題を少しずらす。
「そういえば、このあたりでは聖暦を使うのか」
「聖暦?」
「ああ。道で会った老婆が、今は聖暦五十年だと言っていた。俺のいた辺りでは、その暦を使っていなかった」
「ああ、そういうことか」
ジュドは納得したように頷いた。
「聖暦は、聖教国家の中や、聖教会の影響が強い土地で使われる暦だ。トランジェスタではあまり使わない。東も西も、まだ旧暦を使う者が多い」
「なら、今年聖暦五十年ということは、旧暦では何年になる?ちょっと知りたくてな。」
問いながら、アルクスは声が硬くならないように気をつけた。
知りたい。
だが、知らなすぎると思われるわけにはいかない。
聖暦を使わない土地にいた者として、暦の換算を尋ねる。
それなら、不自然ではないはずだった。
「五十年か。たぶん五十一年のことだな」
「違うのか?」
「田舎の年寄りだと、そのあたりは曖昧なこともある。今は聖暦五十一年だ」
「五十一年」
「ああ。聖暦元年は、旧暦三百三十八年に当たる。悪魔戦役が終わった年だと、聖教会は教えている」
「では、今は旧暦で」
「三百八十八年だな」
ジュドは少し考えた後、そう答えた。
旧暦三百八十八年。
その数字が、アルクスの胸の奥へ落ちた。
自分が覚えている最後の年は、旧暦三百二十七年だったはずだ。
ならば、六十一年。
二十五だった自分は、年の上では八十六になる。
アルクスは一瞬だけ、指先に力が入るのを感じた。
「アル?」
ジュドが怪訝そうに見る。
「いや」
アルクスは短く息を吐いた。
「そうか」
今は、それだけでいい。
その数字について深く考えれば、表情に出る。いずれ一人になった時に考えればいい。
今は、ジュドとの会話を続ける方が先だった。
「旧暦を使っていたなら、聖暦は慣れないだろうな」
「ああ」
「俺たちも聖教国家に入ると、契約書の日付でたまに面倒になる。リッカがよく確認してる」
「リッカが契約を見ているのか」
「ああ。報酬、条件、日数、危険の程度。あいつはそういうところをよく見る。俺より細かい」
「団長よりか」
「団長にも向き不向きがある」
ジュドは真顔で言った。
アルクスは少しだけ口元を緩めた。
この団では、役割がはっきり分かれている。 ジュドは団長。だが、契約や荷物はリッカ。食事や身の回りではフィリアがよく動く。
前へ出るのはガルネ。
ミリアはよく喋り、よく周囲を見る。
ダインは若く、まだ危うい。
小さな団だからこそ、一人一人の役割が大きいのだろう。
ジュドは再び地図に視線を落とした。
「トランジェスタは、東西に分かれて長い。そこは知ってると思うけど」
「ああ」
アルクスは短く頷いた。
本当のところ、今の東西の事情までは知らない。だが、ここで知らない顔をするのは不自然だった。
分裂がもし悪魔戦役の頃なら、今の時代の者にとっては、すでに昔の話だ。
知らない方が目立つ。
「東は貴族や軍の力が強い。西は旧王都と王家の正統性を抱えてる。細かい話は、トランに行けば嫌でも聞く」
「今も揉めているのか」
「大きな戦じゃない。けど、国境沿いの小競り合いはある。俺たちみたいな傭兵に仕事が回ってくるくらいにはな」
「そうか」
アルクスはそれ以上、国の話を続けなかった。聞きすぎるのは危うい。怪しまれる。
ジュドは、今度はシュトラ周辺に指を戻す。
「ここは聖教国家領だ。昔のボードイン王国があった辺りに、聖教会が入り込んで、今の形になった」
「聖教会が国を持っているのか」
「ああ。少なくとも、この辺りじゃそういうものとして扱われてる」
「お前たちは、聖教会を嫌っているのか?」
「嫌っているというより、気味が悪い」
ジュドは少し声を低くした。
「俺たちはこの国の者じゃない。聖教会についても詳しくはない。だから余計にな。町の人間は当たり前みたいに聖印をつけている。兵は通りに立っている。何を信じるか、何を話すかまで、見られているみたいだ」
「だから、早く出たいのか?」
「ああ。一昨日着いたばかりだが、長居するつもりはない」
ジュドは地図を畳み直した。
「一仕事して、食料と薬を買う。仕事がなければ、別の町へ移る。どちらにしても、最終的にはトランへ戻る」
「分かった」
アルクスは静かに頷いた。
灰鷹の事情は見えてきた。
トランから荷馬車護衛でシュトラへ来た。
依頼は終わった。
だが、得た報酬は少ない。
シュトラは小さく、大きな仕事は期待できない。それでも仕事を探し、なければ別の町へ移る。
町を回りながら、最終的にトランへ戻る。
アルクスにとっても、悪くない状況だった。この町に長くいるのは危険だ。
だが、灰鷹と共に町を渡れば、今の世界を知る機会が増える。道中で、国のことも、戦の後のことも、少しずつ聞けるかもしれない。
ただし、聞き方には気をつけなければならない。知らなすぎる者は怪しまれる。
それはすでに分かった。
ジュドが、ふとアルクスを見る。
「アル」
「何だ」
「さっきも言ったが、うちは普通の傭兵団とは少し違う。みんな距離が近い。新しく入ってきた相手にまで、すぐ同じようにしろとは言わない。でも、あんまり壁を作られると、こっちもやりづらい」
「壁か」
「ああ。アルは、何というか……遠い」
ジュドは言葉を選ぶように言った。
「目の前にいるのに、ずっと別の場所を見ているみたいだ」
アルクスは返事に詰まった。
別の場所。
その言葉は、妙に正しかった。
アルクスは、今のシュトラを見ている。
ブロムスの灰鷹の部屋にいる。
だが、本当に見ているのは、滅びたアルミドだった。
壊された石像だった。
思い出せない仲間の顔だった。
闇の底で聞いた声だった。
「悪い」
アルクスは言った。
「すぐには難しい」
「それでいい。無理に笑えとは言わない。ただ、俺たちは仲間になった相手を、いつまでも客扱いするのが下手なんだ」
「分かった」
「だから、俺たちもアルって呼ぶ。アルも、俺たちを呼び捨てでいい」
「ジュド」
アルクスがそう呼ぶと、ジュドは少し笑った。
「それでいい」
その笑みは若かった。団長としての顔ではなく、年相応の男の顔だった。
アルクスは、ふと自分の年齢を考えそうになった。だが、すぐにやめた。
今は二十五だと言った。見た目も、肉体も、おそらくその頃のままだ。
ならば、この団の中ではそういうことにしておけばいい。
考えすぎれば、表情に出る。
それは避けるべきだった。
その時、階段を上がってくる足音がした。
軽いが、少し急いでいる。
扉が叩かれた。
「ジュド」
リッカの声だった。
ジュドが顔を上げる。
「どうした?」
「少し厄介そうな依頼が来た」
短い言葉だった。
だが、部屋の空気が変わった。
ジュドはすぐに立ち上がる。
「大きい依頼?」
「うん。契約内容を少し見てきた。報酬は、うちには悪くない」
「誰からだ?」
「町の役人。北西の旧街道で起きている事故について、調べてほしいって」
「北西か」
ジュドの表情がわずかに険しくなる。
アルクスはそれを見逃さなかった。
北西。
旧街道。
その言葉に、ジュドは何かを感じている。
「詳しくは下で話すって」
リッカは扉を半分開けたまま、アルクスの方を見る。
「アルも聞く?」
ジュドは一瞬だけ考え、すぐに頷いた。
「聞かせる。もう灰鷹の一員だ」
「早いね」
「人手が足りない」
「そればっかり」
リッカは呆れたように言ったが、止めはしなかった。ジュドはアルクスを見る。
「アル。来るか?」
「ああ」
アルクスは立ち上がった。
依頼。
ブロムスの灰鷹に入ってから、初めて聞く大きな仕事。
ただの調査かもしれない。
この時代を知る手がかりになるかもしれない。あるいは、もっと厄介なものに繋がっているかもしれない。
期待と不安が、胸の中で静かに混ざった。
アルクスは左腕の籠手に目を落とす。
黒い腕は、その下に隠れている。
今はまだ、誰も知らない。
この小さな傭兵団の中に、壊された石像に名を刻まれていた男がいることも。
悪魔と呼ばれる名が、自分のものだということも。
アルクスは扉へ向かった。
ブロムスの灰鷹。
村の名を背負う、小さな傭兵団。
その依頼が、自分をどこへ連れていくのか。結果がどうなるのか、今のアルクスにはまだ分からなかった。




