第2話 シュトラの街
シュトラが見えた時、アルクスは思わず足を止めた。
記憶の中のシュトラは、小さな町だった。
アルミドと同じくらいの規模で、暮らしている者は百人ほど。
町というより、国境沿いの集落に近かった。
低い木柵があり、入り口には古びた門があり、通りは一本しかなかった。
行商人が来れば、町の者たちが物珍しそうに集まり、子どもたちは荷車の後ろを追いかけた。
アルクスも、子どもの頃に父に連れられて何度か来たことがある。
だが、目の前にあるシュトラは、記憶の中の町ではなかった。
町を囲む柵は、古びた木柵ではなくなっていた。
低い石垣が築かれ、その上に新しい木組みの補強が加えられている。
門も大きくなっていた。
見張り台と呼ぶほど立派なものではないが、門の左右には人が立てる場所があり、そこに槍を持った男たちがいた。
町の外側には、新しく増えたらしい家が並んでいる。
荷車が行き交い、煙突から煙が上がり、人の声が聞こえた。
生きている町だった。
それだけで、アルクスの胸の奥に奇妙な痛みが走る。
アルミドには、何もなかった。
灯りも、声も、食事の匂いもなかった。
けれど、ここには人がいる。
暮らしがある。
それは喜ぶべきことのはずだった。
なのに、アルクスは素直に安堵できなかった。
アルミドと同じくらいだったはずの町が、見違えるほど大きくなっている。
昔の二倍ほどはあるだろう。
人の数も、百人どころではない。
三百人。
いや、それ以上いるかもしれない。
ただ、都市と呼ぶほどではなかった。
あくまで、国境沿いの町だ。
だが、アルクスが知っているシュトラではない。
「……ここが、シュトラか」
声に出してみても、実感はなかった。
聖暦五十年。
老婆はそう言っていた。
だが、それが自分の知る暦からどれほど離れているのか、まだ分からない。
ただ一つ分かるのは、アルクスが知らない間に、町の姿は変わってしまったということだった。
アルクスは門へ近づいた。
見張りの男がこちらを見る。
アルクスは自然に左腕を外套の下へ隠した。
右脚には布を巻いている。
左腕にも同じように古い布を巻いていた。
遠目には怪我人に見えるはずだ。
だが、見張りの目は少し長くそこに留まった。
「旅人か」
「ああ」
「怪我か」
「古傷だ」
「町で揉め事は起こすなよ」
「ああ」
それだけだった。
名を聞かれることはなかった。
門の男は、アルクスを怪しんではいるようだったが、止めるほどではないと判断したのだろう。
アルクスは短く頷き、シュトラへ入った。
町の中は、外から見た以上に変わっていた。
通りは広くなっている。
昔は荷車が一台通ればいっぱいだった道が、今は二台すれ違えるほどになっていた。
道の脇には露店が並び、野菜、干し肉、布、油、木工品が売られている。
鍛冶屋の音も聞こえた。
宿屋の看板もある。
古い記憶にある建物は、ほとんど残っていなかった。
ただ、通りの曲がり方や、町の奥へ向かう緩い坂だけが、かすかに昔と重なる。
アルクスはゆっくり歩いた。
通り過ぎる人々の多くが、胸元に小さな飾りをつけている。
白い円と、槍を重ねたような印。
老婆がつけていたものと同じだった。
聖印。
聖教の信徒の証。
それが、町のあちこちで光っている。
店番の男も。
水桶を運ぶ女も。
子どもの手を引く母親も。
荷車を押す若者も。
皆が当然のようにそれを身につけていた。
アルクスの知らない印。
アルクスの知らない信仰。
だが、この町では、それが当たり前になっている。
さらに気になったのは、警備の者たちだった。
門にいた男たちだけではない。
通りの角。
広場の端。
町の中心へ向かう道。
ところどころに、白と灰色を基調にした外套を羽織った者たちが立っていた。
胸元には聖印がある。
槍を持つ者もいれば、短剣を腰に下げる者もいる。
町の警備兵なのか。
聖教会の兵なのか。
今のアルクスには分からない。
ただ、物々しい町だとは思った。
昔のシュトラは、こんな町ではなかった。
小さく、騒がしく、少し貧しいが、どこかのんびりした町だった。
今は違う。
人が増え、建物が増え、商いも増えた。
だが、通りには見張られているような空気がある。
アルクスは顔を伏せ、歩調を変えずに進んだ。
情報が必要だった。
聖暦。
悪魔戦役。
聖教。
アルミドの悪魔。
知らない言葉ばかりだ。
それらを知らないままでは、何も判断できない。
だが、誰に聞けばいいのか。
老婆は、詳しいことは知らないと言っていた。
あれ以上聞いても、おそらく同じだっただろう。
町の者たちも、同じかもしれない。
それに、無闇に聞き回れば怪しまれる。
アルクスは通りの先にある看板を見た。
酒場だった。
こういう場所には、人が集まる。
噂も集まる。
旅人や商人がいれば、遠くの話も聞ける。
アルクスは酒場へ入った。
昼を少し過ぎた時間だったが、店内には何人か客がいた。
奥の席で、商人らしき男たちが食事をしている。
壁際には、革鎧を着た若い男が一人。
中央の卓では、聖印をつけた兵らしき者が二人、薄い酒を飲みながら話していた。
アルクスは、その者たちを見た瞬間、余計なことを聞くのは危険だと判断した。
酒場の空気は悪くない。
だが、自由でもない。
店の者も、客も、聖印の兵たちの方をどこか気にしている。
アルクスは空いている席へ座った。
店の親父が近づいてくる。
「何にする」
「水と、食えるものを」
「あいよ」
親父は短く答え、奥へ下がった。
アルクスは店内を見回す。
耳を澄ませる。
客たちの会話は、畑の出来、荷の値段、近くの道のぬかるみ、税の話。
どれも今の世界を知る手がかりにはなる。
だが、アルミドや悪魔戦役について話している者はいない。
こちらから聞けば、目立つ。
聖印の兵たちがいる前で、アルミドの悪魔について尋ねる気にはなれなかった。
やがて、親父が水と黒いパン、豆の煮込みを運んできた。
アルクスは代金を払おうとして、手を止めた。
持っているのは、古い銀貨だ。
老婆は町で両替すれば使えると言っていた。
だが、この場で出せば、また怪しまれるかもしれない。
アルクスは親父へ視線を向けた。
「先に聞きたい。古い銀貨は使えるか」
親父は眉を上げた。
「どのくらい古い」
アルクスは銀貨を一枚取り出した。
親父はそれを受け取り、表裏を見た。
「こりゃまた、ずいぶん古いな」
「使えないか?」
「銀は銀だが、ここでそのまま使うには面倒だ。換金屋へ行け。通りを出て右、赤い屋根の店だ」
「分かった」
「食うなら先に食え。逃げそうな顔はしてない」
親父はそう言って、銀貨をアルクスに返した。
アルクスは少しだけ頷き、食事を取った。
味は薄い。
だが、温かかった。
それだけで、不思議なほど身体に染みた。
自分は生きている。
その実感が、今さらのように戻ってくる。
食事を終えると、アルクスは酒場を出た。
まずは金を替える必要がある。
情報を得るにも、宿を取るにも、身なりを整えるにも、今の金がいる。
通りを右へ進むと、親父の言った通り、赤い屋根の小さな店があった。
扉の横に、硬貨と天秤の印がある。
換金屋だった。
中に入ると、細い目をした中年の男が帳簿をつけていた。
アルクスが古い銀貨を何枚か出すと、男は一枚ずつ確認し、低く口笛を吹いた。
「古いな。どこで手に入れた」
「旅の途中で」
「ふうん」
男は疑わしそうにアルクスを見たが、銀貨そのものには問題がないらしい。
「今の銀貨に替えるなら、少し手数料を取るぞ」
「構わない」
「古銭として欲しがる物好きもいるが、急ぐなら普通に替える方が早い」
「それでいい」
男は何枚かを秤に乗せ、重さを確かめ、今の銀貨と銅貨を出した。
アルクスはそれを受け取る。
古い銀貨が、現代の金へ変わった。
ただそれだけのことなのに、胸の奥に冷たいものが残った。
自分の持っていた金は、もう今の町でそのまま使える金ではない。
自分の知っている暦も、国の名前も、町の姿も、変わっている。
それでも、まだ分からない。
自分がどれほどの時間を失ったのか。
あの聖暦という暦が、何を基準に数えられているのか。
そして、なぜアルミドの名が悪魔と結びつけられているのか。
アルクスは金をしまい、店を出た。
次に必要なのは、布をどうにかすることだった。
左腕と右脚に巻いたボロ布は目立つ。
道行く者たちは、あからさまに見ないようにしながらも、ちらちらと視線を向けていた。
怪我人に見える。
だが、怪我人にしては歩き方がしっかりしている。
旅人に見える。
だが、旅人にしては片腕と片脚の布が不自然すぎる。
このままでは、いずれ誰かに声をかけられる。
アルクスは鍛冶屋を探した。
通りの奥に、鉄を打つ音が聞こえる。
そこへ向かうと、軒先に農具と簡単な武具が並んでいた。
店主は大柄な男だった。
「防具はあるか」
アルクスが尋ねると、店主は彼の腕と脚を見た。
「怪我隠しか」
「そんなところだ」
「傭兵か」
「今は違う」
「今は、ね」
店主は特に追及しなかった。
棚から革と鉄を組み合わせた籠手を出す。
「左腕なら、これだな。少し重いが、布よりはましだ」
次に、脚甲を出した。
「右脚はこれ。旅人用じゃない。戦う者向けだ」
「構わない」
「見た目は物々しくなるぞ」
「布を巻いて歩くよりはいい」
店主は短く笑った。
「それはそうだ」
アルクスは籠手と脚甲を試した。
左腕の黒い肌を見られないよう、奥の仕切りを借りて装着する。
革の内側に布を残し、その上から籠手を固定した。
右脚にも脚甲をつける。
動いてみる。
重さはある。
だが、支障はない。
むしろ、黒い腕と脚を隠せるだけで、かなり楽になった。
店主が外から声をかける。
「どうだ」
「問題ない」
仕切りから出ると、店主はアルクスを見て頷いた。
「それなら傭兵に見えるな」
「傭兵か」
「ああ。旅人というより、そっちだ。剣も持ってるしな」
アルクスは腰の黒喰に触れた。
傭兵。
その言葉が、頭の中に残った。
この町で、アルミドや悪魔の話を聞いて回るのは危険だ。
聖印をつけた者が多すぎる。
聖教会の警備もある。
だが、傭兵ならどうか。
各地を動く。
町を渡る。
道を知る。
古い戦場にも、危険な土地にも関わる。
今の世界を知るには、町に留まっているだけでは足りない。
傭兵なら、噂も、道も、古い傷跡も知っているかもしれない。
「この町に傭兵はいるのか」
アルクスは尋ねた。
店主は少し考える。
「常駐してる連中はいないぞ。こんな町で、傭兵が食っていけるほど仕事はない」
「そうか」
「ただ、今は流れの連中が来てるらしい」
「流れの連中?」
「小さな傭兵団だ。人数も多くない。昨日だったか一昨日だったか、町に入ってきたって聞いた」
「どこにいる」
「酒場で聞け。ああいう連中は、宿か酒場に顔を出す。どこに泊まってるかくらい、親父なら知ってるだろう」
「助かった」
アルクスは代金を払い、店を出た。
通りを歩く。
さっきよりも視線は減った。
布を巻いた怪我人ではなく、武具をつけた旅の戦士。
あるいは傭兵。
その程度に見えるのだろう。
町の者たちの視線は、まだ完全には消えない。
だが、怪しまれている感じは薄くなった。
アルクスは再び酒場へ向かった。
店内の客は少し増えていた。
聖印の兵たちは、まだいる。
アルクスは彼らから離れた席につき、親父を呼んだ。
「聞きたいことがある」
「今度は何だ」
「この町に傭兵団が来ていると聞いた」
親父は布で手を拭きながら、少し目を細めた。
「傭兵団に用か」
「ああ」
「仕事を探してるのか」
「そんなところだ」
親父はアルクスの籠手と脚甲を見る。
先ほどまでのボロ布とは違う。
その変化に気づいたのだろう。
「見た目はそれらしくなったな」
「腕は、それなりには使える」
「自分でそれを言うやつは信用しにくいね」
「なら、少しは使える」
親父は鼻で笑った。
「まあいい。今来てるのは、大きな傭兵団じゃないぞ」
「構わない」
「五人か、六人か。そのくらいの小さな団だ。名前は……たしか、灰鷹だったか」
「灰鷹」
「聞いたことはあるか?」
「ない」
「なら大した問題じゃない。ここに来る連中なんて、そんなもんだ」
親父は肩をすくめた。
「うちにも昨日顔を出した。安い宿を取ってるはずだ。町の南側にある古い宿屋だよ。二階の部屋をいくつか借りてるらしい」
「募集しているのか」
「そこまでは知らん」
親父はあっさり言った。
「ただ、人手が足りないなら話くらいは聞くだろう。逆に足りてるなら断られる。それだけだ」
「分かった」
「妙なことはするなよ」
親父は声を少し低くした。
「今のシュトラは、聖教会の目が多い。騒ぎを起こせば面倒になる」
「分かっている」
本当に分かっているのか、自分でも怪しい。
だが、今の世界で騒ぎを起こすべきではないことだけは分かっていた。
アルクスは水を一口飲んだ。
灰鷹の傭兵団。
小さな傭兵団。
たまたまシュトラに来ている流れの者たち。
そのくらいの相手なら、近づきやすいかもしれない。
大きな組織ではない。
聖教会の兵でもない。
町に根を下ろした者でもない。
各地を移動し、依頼を受け、道を歩く者たち。
そこに入れば、情報が得られるかもしれない。
悪魔戦役。
悪魔人形。
聖教会。
アルミドの悪魔。
そして、自分が闇に沈んでいた間に何が起きたのか。
答えに近づくには、一人で町を歩き回るよりも、傭兵団に紛れた方がいい。
アルクスは決めた。
今の自分が何者なのかは分からない。
だが、昔の名を名乗ることはできない。
英雄でも、悪魔でもない。
ただのアルとして、傭兵団に近づく。
そこから始めるしかなかった。
アルクスは席を立った。
酒場の親父がちらりと見る。
「もう行くのか」
「ああ」
「灰鷹に会うなら、南側の宿屋ノックスだ。古い鹿の角の看板が出てる。すぐ分かる」
「助かった」
「礼なら、次は飯も頼んでくれ」
「そうする」
アルクスは酒場を出た。
通りには、聖印をつけた人々が行き交っている。
白と灰色の外套をまとった兵が、角に立っている。
遠くから、教会の鐘らしき音が響いた。
アルクスの知らない町。
アルクスの知らない暦。
アルクスの知らない信仰。
それらの中を、アルクスは歩いた。
左腕の籠手がまだなじまない。
右脚の脚甲が、歩くたびに微かに鳴る。
だが、ボロ布よりはましだった。
今の世界に紛れ込むための、最初の仮面。
アルクスは南へ向かう。
灰鷹の傭兵団。
その名だけを頼りに。




