第1話 知らない暦
アルクスは、廃墟となったアルミドでもう一晩を過ごした。
夜の町は静かだった。
虫の声も少ない。
獣の気配もない。
人の眠る家も、灯りも、食事の匂いもない。
かつて数百人は暮らしていたはずの町は、夜になっても誰一人帰ってこなかった。
風だけが、崩れた壁の間を抜けていく。
その音を聞きながら、アルクスは自分の家があった場所の近くで身を休めた。
家はなかった。
壁も、扉も、屋根もない。
残っているのは崩れた石の土台と、所々に残る黒焦げの跡だけだった。
その焦げ跡を見つめているうちに、夜が明けた。
今夜も眠ったのかどうかは分からない。
目を閉じても、深く沈む感覚はなかった。
闇の底へ戻ることもなかった。
ただ、浅い眠りの中で、遠い声だけがまた何度か聞こえた。
アル。
戻ってきて。
誰の声だったのか、思い出せない。
思い出せないまま、朝になった。
アルクスはゆっくりと身を起こした。
身体は、驚くほどよく動いた。
長い間動かしていなかったはずなのに、筋肉のこわばりはない。
息も苦しくない。
右脚は地面を踏める。
左腕も、指先まで動く。
それどころか、以前より力があるようにさえ感じた。
だが、感覚はずれている。
自分の身体なのに、どこか他人のもののようだった。
踏み出せば、思ったより深く地面を捉える。
腕を上げれば、思ったより速く動く。
力を込めれば、石を掴んだだけで欠けそうになる。
取り戻した身体。
けれど、半分は多分人の身体ではない。
アルクスは黒く変質した左腕を見た。
次に、同じように黒くなった右脚を見る。
これを人に見られるわけにはいかない。
昨夜、廃墟の中で拾ったボロ布があった。
古い外套の残骸だったのか、端は裂け、泥で汚れ、雨風にさらされて色も抜けている。
アルクスはそれをさらに裂き、左腕に巻きつけた。
指先まで隠す。
次に、右脚にも巻く。
布はすぐにずれそうになった。
何度か巻き直し、動かして確かめる。
歩いても外れない。
遠目には、ただ古い布を巻いた怪我人に見えるはずだった。
「……これでいいか」
呟いた声は、乾いた朝の空気に消えた。
アルクスは腰の黒喰を確かめる。
剣はある。
それだけは、昨日と同じだった。
いや。
昨日、という言い方が正しいのかも分からない。
自分はどれほどの間、闇に沈んでいたのか。
禁呪によって封じ込められたあの日から、どのくらいの時間が過ぎたのか。
一晩か。
数日か。
数年か。
それとも、もっとか。
分からない。
アルミドは廃墟になっていた。
自分の家は焼け落ちていた。
公園には自分の石像があり、それは無残に壊されていた。
自分だけではない。
仲間らしき者たちの像も、同じように壊されていた。
名前は思い出せない。
顔もはっきりしない。
けれど、胸の痛みだけは残っている。
あれらは、知らない者たちの像ではなかった。
この町だけに何かが起きたのか。
それとも、世界そのものが変わってしまったのか。
それを知らなければならなかった。
アルクスは顔を上げる。
アルミドの西には、別の町があったはずだった。
名は、シュトラ。
アルミドと同じくらいの小さな町だった。
昔の記憶では、百人ほどが暮らす町だったはずだ。
国境沿いの町同士、行商人がよく行き来していた。
アルクスも子どもの頃、父に連れられて何度か行ったことがある。
道が残っているかは分からない。
今も町があるのかも分からない。
だが、ここにいても何も分からない。
アルクスは最後に、自分の家があった場所を見た。
黒焦げの土。
崩れた土台。
家の形すら残っていない場所。
そこに何かを言うことはできなかった。
言葉が見つからなかった。
それから、公園の方へ目を向ける。
壊された石像が、朝の光の中で沈黙している。
アルミドの英雄。
そう刻まれていたはずの石像。
なぜ壊されているのか。
なぜ町に誰もいないのか。
その答えを持つ者は、アルミドにはいなかった。
アルクスは歩き出した。
廃墟となった故郷を背にして。
シュトラへ向かう古い道は、記憶よりも荒れていた。
石畳の一部は土に埋もれ、道端の標識は倒れている。
草が伸び、ところどころに車輪の跡だけがかすかに残っていた。
完全に使われていないわけではない。
誰かは通っている。
それが分かっただけでも、少しだけ胸の奥が軽くなった。
人間は、まだいる。
少なくとも、この道を使う者はいる。
アルクスは歩き続けた。
身体はよく動く。
息切れもしない。
長い間眠っていたとは思えないほど、体調はよかった。
むしろ、戦場で腐毒に侵されていた頃よりも軽い。
失ったはずの右脚がある。
失ったはずの左腕がある。
その事実が、歩くたびに胸の奥を奇妙に揺らした。
あの時。
自分は、もう一度戦うために何でもすると決めた。
仲間たちは止めただろうか。
恋人は泣いただろうか。
誰かが怒鳴った気がする。
誰かが手を握っていた気がする。
だが、思い出そうとすると、記憶は闇に沈んでいく。
確かなのは、自分が禁呪を受け入れたということだけだった。
失った身体を取り戻すために。
まだ終われなかったから。
昼近くになった頃、道の先に人影が見えた。
小さな荷車を引く老婆だった。
背は曲がり、頭には古びた布を巻いている。
荷車には野菜の束と、乾いた薪が積まれていた。
アルクスは足を止めた。
人だ。
生きている人間。
ただそれだけのことに、妙な安堵を覚えた。
老婆もこちらに気づいた。
最初は警戒したように足を止めたが、アルクスの腕と脚に巻かれたボロ布を見て、怪我人か旅人だと思ったのか、わずかに表情を緩めた。
「旅のお人かね」
しわがれた声だった。
アルクスは少し迷ってから頷いた。
「……ああ」
「その腕、怪我かい」
「古傷だ」
嘘ではない。
ただ、すべてを言っていないだけだった。
老婆はそれ以上、深く聞かなかった。
荷車の持ち手を握り直し、道を譲るように少し脇へ寄る。
このまま通り過ぎるつもりなのだろう。
アルクスは、その前に口を開いた。
「少し、聞きたい」
「道かい?」
「今は、何年だ」
老婆はきょとんとした。
「何年?」
「ああ」
老婆の目に、怪訝な色が浮かぶ。
当然だった。
年を尋ねる旅人など、普通はいない。
老婆はしばらくアルクスを見てから、短く答えた。
「聖暦五十年だよ」
「……聖暦」
聞いたことのない暦だった。
アルクスは眉を寄せる。
「いつから使われている?」
「悪魔戦役の後からだよ」
「悪魔戦役?」
「それも知らないのかい」
老婆は少し身を引いた。
警戒が戻っている。
アルクスは答えなかった。
老婆も、それ以上は言わない。
ただ荷車の持ち手を握り、早く話を終えたそうにしていた。
アルクスは老婆の胸元に目を向けた。
小さな飾りが下がっている。
白い円と、槍を重ねたような形。
見覚えはない。
「それは何だ?」
「これかい」
老婆は胸元の飾りに触れた。
「聖教の信徒の証だよ」
「聖教」
「ああ。このあたりじゃ、持っている者は多い」
「聖教とは何だ」
老婆は今度こそ、不審そうに目を細めた。
「お前さん、本当にどこから来たんだい?」
「遠いところだ」
「……そうかい」
老婆は納得していない様子だった。
だが、深く追及するつもりもないらしい。
「聖教会は聖教会さ。町にはだいたいある。祈る場所で、困った時に頼るところだよ」
それだけ言うと、老婆は再び荷車を動かそうとした。
アルクスはもう一つ、聞いた。
「アルミドを知っているか?」
老婆の手が止まった。
表情が変わる。
わずかに口元が固くなり、視線がアルクスから外れた。
「……あそこへ行ったのかい」
「ああ」
「近づかない方がいい」
「なぜだ」
老婆は答えなかった。
荷車を引こうとする。
アルクスは一歩も動かず、静かに見つめた。
老婆は小さく息を吐いた。
「悪い場所だからさ」
「悪い場所?」
「そう言われてる」
「誰に」
「皆にだよ」
老婆の声は低かった。
言いたくないことを、仕方なく口にしている声だった。
アルクスはさらに尋ねる。
「アルミドの悪魔とは何だ」
老婆の肩がわずかに跳ねた。
「……その名をどこで聞いた」
「石に、刻まれていた」
老婆は顔をしかめた。
「なら、なおさら近づかない方がいい」
「答えてくれ」
「詳しいことは知らないよ」
老婆は早口に言った。
「本当に知らないんだ。昔の話だよ。悪魔戦役の頃、アルミドから悪魔が出たって言われてる。それだけさ」
「その悪魔は、何をした」
「だから、詳しいことは分からないって言ってるだろう」
老婆は困ったように眉を寄せた。
「話す人によって違うんだよ」
「どう違う?」
「人を裏切ったとか、聖女を殺したとか、悪魔人形を呼んだとか。いろいろ聞く。でも、あたしは見たわけじゃない」
「悪魔人形」
アルクスはその言葉を繰り返した。
聞き慣れない言い方だった。
「何だ、それは?」
老婆はますます不審そうな顔をした。
「悪魔人形も知らないのかい」
「ああ」
「人を殺す人形だよ。昔は別の呼び方もあったらしいけど、今はそう呼ぶ」
人を殺す人形。
その言葉に、アルクスの記憶の底で何かが軋んだ。
白い巨体。
冷たい関節。
命令に従うだけの目。
人間の声にも、泣き声にも、まるで反応しない兵器。
マーダードール。
その名が、ふと頭の奥に浮かぶ。
「今もいるのか?」
「まったくいないわけじゃないらしいよ」
老婆は声を落とした。
「古い戦場や山の奥に、まだ残っていることがあるって聞く。でも、あたしは見たことがない」
「今も国同士で戦をしているのか?」
「まさか」
老婆は首を横に振った。
「大きな戦はないよ。少なくとも、あたしが生まれてからはね」
アルクスは黙った。
大きな戦は、もうない。
その言葉は、どこか遠いものに聞こえた。
アルクスが知っている世界では、戦は終わらないものだった。
東で火が上がれば、西で血が流れた。
北の砦が落ちれば、南の兵が動いた。
誰もが疲れ果てていて、それでも誰も止められなかった。
その戦が、今はもうない。
では、自分は何の後に戻ってきたのか。
「アルミドは、なぜ焼けていた」
老婆は黙った。
荷車の持ち手を握る手に力が入る。
「……聖教騎士団が入ったと聞いてる」
「聖教騎士団」
「昔の話だよ」
「何をした」
「悪魔に関わるものを清めた、と」
「清めた?」
アルクスの声が低くなった。
老婆はそれに気づいたのか、少し怯えたように身を縮めた。
「そう聞いただけだ。あたしが見たわけじゃない。石像が壊されたとか、家が調べられたとか、人が町を出たとか……年寄りから聞いただけだよ」
「殺されたのか?」
「知らない」
老婆は首を横に振った。
「本当に知らないんだよ。逃げた者もいたらしいし、別の町に移された者もいたらしい。連れていかれた者もいたって話だけど、何が本当かは分からない」
アルクスは黙った。
清めた。
焼かれた町。
壊された像。
削られた名前。
悪魔。
言葉が、胸の奥で重く沈んでいく。
「今、アルミドには誰も住んでいないのか」
「住みたがる者なんていないよ」
「なぜ」
「悪魔の土地だからさ」
老婆はそれだけ言うと、今度こそ荷車を引き始めようとした。
アルクスは少し考え、腰の袋に手を入れた。
金が残っている。
使えるかどうかは分からない。
だが、ただ聞くだけ聞いて去るのは気が引けた。
アルクスは銀貨を一枚取り出し、老婆へ差し出した。
「礼だ」
老婆は目を丸くした。
「いいのかい」
「ああ」
老婆は遠慮するより早く、銀貨を受け取った。
指先で表裏を確かめ、少し目を細める。
「ずいぶん古い銀貨だねえ」
その言葉に、アルクスはわずかに息を止めた。
「使えないか」
「いや、銀は銀だ。町で両替すれば使えるさ。ただ、今どきこんな古いものを持っている人は珍しいね」
老婆は少しだけ不満そうに言いながらも、銀貨を大事そうに懐へしまった。
喜んではいるらしい。
だが、古い銀貨。
その言葉は、アルクスの中に残った。
自分の持っている金まで、古いものになっている。
それは、よほどの時間が流れたことを示していた。
「シュトラへ行きたい」
アルクスは言った。
「この道で合っているか」
「ああ。まっすぐ行けば着くよ」
老婆は懐を押さえながら頷いた。
「途中で分かれ道があるけど、右へ行けばシュトラだ。左へ行くと古い砦跡に出る。今は誰も使わない道だから、間違えない方がいい」
「シュトラは、まだあるのか」
「あるよ」
「小さな町か?」
「今も大きくはないね。ただ、アルミドよりはずっとましさ。人もいるし、宿もある。聖教会もある」
「そうか」
老婆は数歩進み、迷うように一度だけ振り返った。
「アルミドには、戻らない方がいいよ」
「なぜ」
老婆はしばらく黙っていた。
そして、小さく言った。
「あそこは、昔のまま死んでいる場所だからさ」
それだけ言って、老婆は道の先へ進んでいった。
アルクスは、その背中を見送った。
聖暦五十年。
悪魔戦役。
聖教。
聖教騎士団。
悪魔人形。
アルミドの悪魔。
古い銀貨。
老婆は多くを語らなかった。
むしろ、ほとんど何も知らないと言った。
だが、アルクスが知るには十分だった。
自分が闇に沈んでいる間に、世界はまったく別のものになっている。
アルクスはボロ布の巻かれた左腕を見る。
その下にある黒い腕を、老婆は知らない。
知れば、あの女も同じように怯えただろう。
今の世界で、自分は何者なのか。
英雄なのか。
悪魔なのか。
それとも、ただ何も思い出せない死に損ないなのか。
分からない。
だが、一つだけ分かった。
アルミドに答えはなかった。
答えを知るには、生きている者のいる場所へ行くしかない。
アルクスは顔を上げた。
道の先には、シュトラがある。
昔の記憶では、アルミドと変わらない小さな町だった。
だが、今も同じとは限らない。
アルクスの知らない時間は、町を滅ぼし、暦を変え、英雄の名を悪魔へ変えるには十分だった。
アルクスは歩き出した。
アルミドの謎を胸に抱えたまま。




