プロローグ2 壊された英雄
夜は、長かった。
アルクスは崩れた家屋の陰で、ほとんど眠れなかった。
眠ったのか、目を閉じていただけなのかも分からない。
闇の底にいた頃と違い、ここには風があった。
土の匂いがあった。
割れた壁の隙間から差し込む月明かりがあった。
それなのに、目を閉じると、またあの声が聞こえそうになる。
こちらへ来い。
もう休め。
あの甘い声。
腐った蜜のような声。
アルクスは何度も目を開いた。
そのたびに、自分の左腕を見た。
古い布を巻いた下で、黒く変質した腕が重く沈んでいる。
右脚も同じだった。
失ったはずのものがある。
だが、それは自分のものではないように感じる。
戻ってきた。
確かに戻ってきた。
けれど、自分がどこから戻ってきたのか。
どれだけの時間を失ったのか。
それは分からなかった。
夜明け前、アルクスは一度だけ浅い眠りに落ちた。
夢を見た。
濁った空。
踏み荒らされた大地。
黒喰を握る自分の手。
誰かが叫んでいる。
アル。
後ろだ。
別の誰かが笑っていた。
お前は本当に無茶をする。
小さな手が、自分の腕に触れた。
もうやめて。
その声に振り向こうとした瞬間、景色は黒く塗り潰された。
目を覚ますと、朝だった。
薄い光が、崩れた壁を越えて差し込んでいる。
アルクスはゆっくりと身を起こした。
身体は動いた。
左腕も、右脚も、昨日よりは少しだけ馴染んでいる。
ただ、馴染んでいることが、かえって気味悪かった。
黒い腕が自分の意志で動く。
黒い脚が自分の身体を支える。
それは便利で、強く、そしてひどく不気味だった。
アルクスは立ち上がった。
昨日、自分の家があった場所は見た。
そこには何もなかった。
焼けた土と、崩れた石だけだった。
ならば、次に確かめる場所は決まっている。
『公園』だった。
子どもの頃、よく遊んだ思い出の場所。
町の者たちが集まる場所。
祭りの日には屋台が並び、老人たちが長椅子に座り、子どもたちが噴水の周りを走り回っていた。
アルミドがまだアルミドだった頃、その場所にはいつも人の声があった。
アルクスは記憶を頼りに歩き出した。
朝のアルミドは、夜よりも残酷だった。
暗闇が隠していたものが、光の下にさらされていた。
崩れた屋根。
抜け落ちた床。
焼け残った柱。
壁に残る黒い筋。
道端には、割れた陶器が土に埋もれていた。
かつて誰かが使っていた皿か、壺か。
小さな木片が転がっている。
人形の腕のようにも見えたが、拾い上げれば、ただの焦げた枝だった。
それでもアルクスは、しばらくそれを見つめてしまった。
人の気配はない。
犬の鳴き声もない。
鳥の声すら少ない。
風が崩れた家の隙間を通るたび、乾いた音が鳴る。
誰かが扉を叩いたような音。
誰かが奥で咳をしたような音。
だが、そこには誰もいない。
アルクスは歩いた。
昔、井戸があった角を曲がる。
井戸は埋まっていた。
石組みは半分崩れ、内側には土と枯葉が詰まっている。
その向こうに、緩やかな坂がある。
坂を下れば、公園へ出るはずだった。
子どもの頃は、その坂を駆け下りるたびに母に怒られた。
転ぶからやめなさい。
何度言われてもやめなかった。
そして実際に転んで、膝を擦りむいた。
その記憶だけは、妙にはっきり残っていた。
アルクスは坂を下りた。
やがて、視界が開けた。
そこが、公園だった。
いや。
公園だった場所だった。
大きな木はなかった。
昔は、広場の端に太い木が一本あった。
夏になると、その木陰に子どもたちが集まった。
枝に紐を結び、簡単な揺り椅子を作って遊んだこともある。
今、その木は根元から折れていた。
幹は黒く焦げ、半分は腐り、裂けた内側から白い虫が這っている。
長椅子は残っていなかった。
噴水はあった。
ただし、水はない。
円形の縁は割れ、中央の飾り石は倒れ、受け皿には濁った雨水が薄く溜まっているだけだった。
花壇もあった。
石の囲いだけが残っている。
中に花はない。
代わりに、背の低い雑草が密集していた。
石畳は砕けている。
隙間から草が伸び、ところどころ土に沈んでいた。
公園というより、誰かが忘れた墓地のようだった。
アルクスは足を止めた。
公園の中央に、石の塊が見えた。
最初、それが何なのか分からなかった。
倒れた柱かと思った。
古い記念碑かとも思った。
だが、近づくにつれて、それが人の形をしていたものだと分かった。
一体ではない。
複数あった。
台座が並んでいる。
中央に一つ。
その左右に、いくつか。
かつては何体もの石像が、同じ場所に立っていたのだろう。
だが今は、どれもまともな形を残していなかった。
中央の像は、胴から大きくひび割れていた。
片腕は肩から折れ、地面に落ちている。
握っていたはずの剣も半ばから砕けていた。
顔は削られている。
鼻も、口元も、頬も、何度も石を打ちつけられたように潰れていた。
左側の像は、膝から下がなかった。
大きな盾のようなものを構えていたらしい。
その盾も割られ、破片が台座の前に散っている。
体つきは大柄だった。
肩幅が広く、首も太い。
ただ、顔はほとんど残っていない。
右側には、細身の像があった。
長い得物を持っていたのだろう。
槍か。
あるいは、柄の長い刃物か。
腕の先は折れ、武器も砕け、胸元に深い傷のような裂け目が入っている。
その隣の像は、髪の形だけが妙に残っていた。
風に流れるような長い髪。
衣の裾。
片手を前へ伸ばす姿勢。
祈っているようにも、誰かを止めようとしているようにも見えた。
だが、その手はなかった。
指先も、手首も、叩き折られていた。
さらに奥に、小さめの像が倒れていた。
台座から引き剥がされ、横向きに転がっている。
少年のようにも見える。
あるいは、若い兵士だったのかもしれない。
顔の半分は地面に埋まり、背中には大きな亀裂が入っていた。
アルクスは動けなかった。
何だ、これは。
誰の像だ。
町の英雄たちか。
戦死者の慰霊か。
そう考えようとした。
だが、胸の奥がざわついた。
知らないはずなのに、知っている気がする。
大柄な男。
長い得物を持つ細身の者。
長い髪の女。
若い兵士。
その形を見ていると、頭の奥に小さな痛みが走った。
誰かが笑った。
誰かが怒鳴った。
誰かがため息をついた。
誰かが、自分の名を呼んだ。
アルクスは一歩近づいた。
中央の像を見る。
壊れすぎていて、誰の像なのか分からない。
顔は削られている。
胸の装飾も欠けている。
腰のあたりには、剣帯らしきものが残っていた。
右手は柄に添えられていたのか。
いや、剣を構えていたのか。
折れた石の位置からすると、像は前へ踏み出す姿勢だったらしい。
戦場へ向かうように。
誰かを庇うように。
あるいは、まだ終わっていないと告げるように。
アルクスは眉を寄せた。
知らない。
知らないはずだ。
だが、その立ち方に覚えがあった。
左足ではなく、右足から踏み出す。
剣を肩より少し低く構える。
真正面からではなく、わずかに斜めへ身を開く。
それは、アルクス自身が何度も取った構えだった。
偶然だ。
そう思おうとした。
像など、職人が見栄えよく作るものだ。
戦士の像なら、似たような構えになることもある。
だが、胸のざわつきは消えなかった。
アルクスは台座の前に膝をついた。
文字が刻まれている。
ただし、ひどく削られていた。
誰かが意図的に削ったのだろう。
表面は傷だらけだった。
苔と泥が入り込み、風雨で文字の輪郭も崩れている。
アルクスは指で泥を払った。
欠けた文字が現れる。
アルミドの――。
そこから先は、大きく抉られていた。
爪で削ったのではない。
刃物か、槌か。
何度も何度も叩きつけ、文字そのものを消そうとした跡だった。
アルクスは別の場所を払った。
下の段に、名前らしきものが並んでいる。
しかし、それもほとんど読めない。
ダ――。
ア――。
ロ――。
ジュ――。
断片だけだった。
アルクスの喉が詰まった。
なぜだ。
なぜ、知らない文字のはずなのに、胸が痛む。
大柄な像の台座に手を伸ばす。
泥を払う。
そこには、かろうじて一文字だけ残っていた。
ダ。
その文字を見た瞬間、頭の奥で低い笑い声が響いた。
お前は昔から、無茶をしすぎる。
アルクスは息を止めた。
誰だ。
今の声は誰だ。
思い出せない。
だが、知っている。
長い得物を持っていた像の台座には、アという文字が残っていた。
その文字を見た瞬間、静かな声が聞こえた気がした。
無理に前へ出るな。
こちらで道を開く。
アルクスは奥歯を噛んだ。
長い髪の像の台座には、ジュという文字があった。
そこだけ、誰かが特に強く削ろうとしたのか、文字の周囲が深く抉れている。
アルクスの指先が震えた。
アル。
やめて。
その声は、夢の中で聞いた声と同じだった。
アルクスは後ずさりそうになった。
分からない。
分からないのに、苦しい。
若い兵士の像の台座には、ロという文字が残っていた。
その横に、折れた小さな剣の飾りが転がっている。
アルクスはそれを拾い上げた。
子どもの玩具のように小さく見えた。
だが、おそらく石像の一部だ。
若い兵士が腰に下げていた剣。
その破片を見た時、明るい声が頭の奥で弾けた。
団長。
俺も最後まで行きます。
アルクスは目を閉じた。
団長。
誰かが、そう呼んでいた。
そう呼ばれていた。
自分が。
アルクスは中央の像へ視線を戻した。
中央の像。
前へ踏み出す姿勢。
半ばで折れた剣。
削られた顔。
深く傷つけられた台座。
アルミドの――。
その下に、さらに一段、文字があった。
泥と苔で覆われている。
アルクスは手で払った。
指先に石の粉がつく。
少しずつ、文字が現れる。
ア。
ル。
ク。
ス。
アルクス。
時間が止まった。
風の音が消えた。
遠くの草の揺れる音も、崩れた木が軋む音も、何も聞こえなくなった。
アルクスは、台座に刻まれたその名を見つめた。
自分の名だった。
それでも、すぐには理解できなかった。
なぜ、ここに自分の名がある。
なぜ、自分の像がここに立っていた。
なぜ、それが壊されている。
アルクスはゆっくりと顔を上げた。
削られた顔を見る。
潰された目元。
欠けた頬。
折れた顎。
そこに、自分の面影を探した。
最初は分からなかった。
顔が壊れすぎている。
職人が作った像なら、実物とは違って当然だ。
そう思いたかった。
だが、残っている輪郭があった。
顎の線。
目の位置。
髪の流れ。
剣を構える肩の高さ。
それらが、少しずつ一つの形になっていく。
これは、自分だ。
アルクスの像だった。
アルクスは石像の足元に落ちていた破片を拾った。
顔の一部だった。
目元が残っている。
そこには、かすかに鋭い視線が刻まれていた。
戦場で前を見据えるような目。
まだ折れていない頃の、自分の目。
アルクスはその破片を握りしめた。
英雄。
台座に残っていた言葉。
アルミドの――。
削られた先に続いていたはずの言葉は、おそらく一つしかない。
英雄。
アルミドの英雄、アルクス。
そう刻まれていたのだろう。
ならば、なぜ壊されている。
なぜ自分だけではない。
なぜ、仲間たちの像まで壊されている。
大柄な男の像も。
長い得物を持っていた像も。
長い髪の女の像も。
若い兵士の像も。
全員が、傷つけられている。
ただ古くなって崩れたのではない。
顔が削られている。
名前が削られている。
手が折られ、武器が砕かれ、台座が傷つけられている。
これは、時間が壊したものではない。
誰かが壊したのだ。
誰かが、憎んで壊した。
アルクスは立ち上がった。
足元が揺れた気がした。
自分は戦場にいたはずだった。
仲間がいた。
声があった。
手があった。
その誰かたちが、ここに像として残されていた。
そして、壊されていた。
「……何が、あった」
声は掠れていた。
答える者はいない。
公園だった場所には、壊された英雄たちの像だけが並んでいる。
いや、並んでいるというより、打ち捨てられている。
かつて誰かが祈りを捧げた場所。
花を供えた場所。
彼らを忘れないために作った場所。
それが今は、憎しみの跡だけを残している。
アルクスはもう一度、中央の台座に触れた。
アルクス。
確かに、そこに自分の名があった。
その名を、アルクス自身が忘れていた。
そして今、その名は、誰かの手で削られかけている。
胸の奥が痛んだ。
怒りではなかった。
悲しみでもなかった。
もっと鈍く、重いものだった。
自分が知らない間に、何かが終わっていた。
自分が知らない間に、誰かが傷つけられていた。
自分が知らない間に、自分たちの名は壊されていた。
アルクスはふと、台座の側面に深い傷があることに気づいた。
もともとの碑文ではない。
後から乱暴に刻まれたものだった。
石を削る技術などない者が、怒りに任せて刃物を突き立てたような跡。
線は曲がり、文字は歪み、ところどころ途切れている。
それでも、読めた。
悪魔。
アルクスは、その二文字を見つめた。
誰が刻んだのかは分からない。
いつ刻まれたのかも分からない。
それが自分に向けられたものなのか。
仲間たちに向けられたものなのか。
それとも、この石像群すべてに向けられたものなのか。
分からない。
ただ、その文字は、消えずに残っていた。
アルクスはゆっくりと手を離した。
英雄。
悪魔。
同じ台座に、二つの言葉が残っている。
その意味を、アルクスはまだ知らない。
だが、この町で何かが起きたことだけは分かった。
自分が闇の底にいた間に。
自分の知らない時間の中で。
アルクスは壊れた仲間たちの像を見回した。
名前を思い出せない。
顔も分からない。
だが、彼らが大切だったことだけは、胸の痛みが覚えていた。
「……すまない」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
アルクスは、拾った顔の破片をそっと台座の上に戻した。
その破片は、元の場所には戻らない。
欠けた像は、欠けたままだ。
削られた名も、失われた顔も、戻らない。
それでも、地面に捨てたままにはできなかった。
風が吹き、草が揺れた。
誰もいない公園で、壊されたかつての英雄たちだけが、朝の光を浴びていた。




