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黒鷹の傭兵  作者: 轟次郎
プロローグ
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1/9

プロローグ アルミドの英雄

 闇の中に、声があった。



 甘く囁く声だった。


 耳で聞こえる声ではない。


 頭の奥から、骨の内側から、沈んだ意識の底へ染み込んでくるような声だった。


 『取り戻せる。 お前は、まだ戦える。』


 その声を、アルクスは知っていた。


 何度も聞いた。 何度も拒もうとした。


 それでも最後には、手を伸ばしてしまった。


 失った片腕。 失った片脚。


 毒に侵され、戦場に立つことさえ難しくなった身体。


 仲間たちは止めた。


 やめろ、と。


 それは人の手を出すものではない、と。



 だが、アルクスは聞かなかった。聞けなかった。


 あの時、まだ戦場には仲間がいた。


 まだ守らなければならないものがあった。


 まだ、自分だけが終わるわけにはいかなかった。


 だから、アルクスは黒き契約に手を伸ばした。


 腕が戻るなら。


 脚が戻るなら。


 もう一度、剣を握り、戦えるなら。


 もう一度、仲間の隣に立てるなら。


 それがどれほど恐ろしいものなのか、あの時のアルクスは知らなかった。


 いや。


 知ろうとしなかった。



 闇は約束を守った。


 失った腕は戻った。


 失った脚も戻った。


 それどころか、かつての自分では届かなかった力まで手に入った。



 アルクスは戦場へ戻った。


 黒喰を振るい、人を殺すためだけに作られた人形たちを砕いた。


 斬って。

 斬って。

 斬り続けた。


 誰かが叫んでいた。


 アルミドの若き戦士が再び来た。


 アルクスがまた立っていると。


 その声に、胸が熱くなったことを覚えている。


 兵たちは名を呼び、民はその戦士を称え、喜んだ。



 アルクスはやがて『英雄』と呼ばれた。


 呼ばれてしまった。



 だが、代償は遅れてやってきた。


 最初は、小さな違和感だった。


 戦友の名が、一瞬出てこない。


 昨日交わしたはずの言葉が、思い出せない。剣を握る手が、自分のものではないように感じ始める。


 夜になると、精神の奥から声がした。


 甘く。

 優しく。

 腐った蜜のように。


 お前はよくやった。


 こちらへ来い。


 もう休め。


 眠るたびに声は近づいた。

 目を覚ましても、消えなかった。


 やがて、戦っている時でさえ、声は聞こえ始めた。


 睡眠を取ることも難しくなり、疲労は溜まり、足元の地面が遠くなっていった。


 仲間たちはアルクスを支えようとしてくれた。


 誰かが肩を掴んだ。

 誰かが怒鳴った。

 誰かが泣いていた。


 けれど、その顔が分からなかった。

 名前も分からなかった。


 大切だったはずのものが、指の間からこぼれていく。


 そして最後に。


 アルクスは、自分の名を忘れた。


 その瞬間、闇が開いた。


 身体が沈んだ。


 腕も。

 脚も。

 剣も。

 叫び声も。


 仲間の手も。

 すべてが遠ざかっていった。


 残ったのは、影だけだった。




 それから、どれほどの時間が過ぎたのかは分からない。

 そもそも、そこに時間というものがあったのかも分からない。


 ただ、闇の底で声を聞き続けた。


 甘い声。

 怒る声。

 泣く声。


 呼び止める声。

 笑う声。


 そして、誰かが自分の名を呼ぶ声。


 アル。


 アルクス。


 戻ってきて。


 その声を聞くたびに、沈みきった意識の奥で何かが疼いた。


 だが、身体は動かない。


 目も開かない。

 手も伸ばせない。

 そこにあるのは、ただ深い闇だけだった。


 忘れてはいけないものがあった。


 けれど、それが何だったのか、もううまく思い出せない。



 それでも、声は消えなかった。


 アル。


 戻ってきて。


 今度こそ、その声が闇を引き裂いた。



 指先が、何かに触れた。


 冷たい。


 土だった。

 湿った土。


 草の根。

 崩れた石。


 アルクスは、闇の底から引き上げられるように息を吸った。


「……っ」


 肺が空気を覚えていなかった。


 喉が焼ける。

 胸が軋む。

 身体が重い。


 アルクスは片膝をついたまま、しばらく動けなかった。


 風が吹いている、春の風だった。


 だが、その匂いは妙に薄い。


 草の匂いも、土の匂いも、どこか遠い。


 ゆっくりと顔を上げる。



 そこは、丘だった。


 低い丘。


 町外れにある、見晴らしのいい場所。


 アルクスは息を止めた。


 見覚えがあった。子どもの頃、よく登った丘だった。


 木剣を片手に、友人たちと走り回った。北の空を眺めて、いつかあの向こうへ行くのだと思っていた場所。


 春になると、丘の下の川沿いに白い花が咲いた。


 夕方になると、町の鍛冶屋から黒い煙が上がった。


 市場の角には焼き菓子を売る老婆がいて、アルクスは小銭を握ってそこへ走った。


 ここは、間違いない、アルミドだ。


 国境沿いにあった、小さな町、アルクスの故郷。かつて、暮らしていた場所。


「……アルミド」


 口にした名は、乾いた風に流された。


 だが、目の前に広がる景色は、記憶の中のアルミドとは違っていた。


 川は細く濁っている。

 古い木橋はなくなっていた。

 家々の屋根も、見覚えのある形ではない。


 町の中央にあったはずの鐘楼は折れ、遠くからでも分かるほど斜めに傾いている。


 煙突もない。


 市場の声もない。


 子どもの笑い声もない。


 町は、静かだった。


 静かすぎた。


 アルクスは立ち上がろうとした。


 その時、身体に違和感が走った。


 左腕が重い。


 右脚も、どこか噛み合わない。


 動く。


 立てる。


 だが、身体の奥にある感覚と、実際に動く位置がわずかにずれている。


 アルクスは左手を見た。


 黒く変質していた。


 人の肌ではない。


 鎧でもない。


 義手でもない。


 闇そのものが腕の形を取ったように、重く、冷たい。


 右脚も同じだった。


 アルクスは眉を寄せる。


 失ったはずの腕。


 失ったはずの脚。


 それが、戻っている。


 だが、戻ったと言うには、あまりにも異質だった。自分でも、この腕を人のものとは思えなかった。


「……まだ、残っているのか」


 代償。

 契約。

 闇の声。


 いくつかの言葉が頭をよぎったが、どれもはっきりと形にならなかった。


 アルクスは腰に手をやった。


 そこに、剣があった。


 黒喰。


 鞘に収まったまま、変わらずそこにある。

 そのことだけが、妙に確かだった。


 アルクスは丘を下りた。

 一歩ずつ。


 身体のずれを確かめながら。

 町へ向かう。


 アルミド。


 小さい頃に走り回った町。


 父に叱られた道。

 友人と喧嘩した路地。

 母に手を引かれて歩いた広場。


 それらが今どうなっているのか、確かめなければならなかった。


 町へ入ると、違和感はさらに濃くなった。


 道が荒れている。

 家は半分崩れ、壁には蔦が絡んでいた。

 窓は割れ、扉は外れている。


 人の暮らす匂いがない。


 ここは町でありながら、町ではなかった。

 廃墟だった。


 それでも、歩くうちに記憶が戻ってくる。

 この角を曲がると、昔は井戸があった。


 雨の日にはぬかるむ道だった。


 あの石垣の向こうに、小さな広場があった。 

 祭りの日には、そこに屋台が並んだ。


 アルクスは途中で足を止めた。


 崩れた家の陰に、古い布が落ちていた。

 誰かの外套だったのかもしれない。


 雨風にさらされ、端はほつれ、泥で汚れている。


 アルクスはそれを拾い上げた。


 左腕を見る。

 右脚を見る。


 この姿を誰かに見られれば、説明のしようがない。


 たとえ誰もいない町だとしても、このまま歩く気にはなれなかった。


 アルクスはボロ布を裂き、黒く変質した左腕に巻きつけた。


 次に、右脚にも巻く。

 完全には隠れない。

 だが、遠目には汚れた包帯にも見える。


 それで十分だった。


 アルクスは再び歩き出した。

 目指したのは、自分の家だった。


 記憶の中では、そこは町の北側にあった。


 小さな家だった。

 広くはない。


 立派でもない。


 だが、窓から丘が見えた。

 冬には隙間風が入った。


 母がよく文句を言い、父が毎年直すと言って直さなかった。


 その家を、アルクスは覚えている。

 だから、見ればすぐに分かるはずだった。


 だが、たどり着いた場所には、家がなかった。


 壁もない。

 扉もない。

 屋根もない。


 そこにあったのは、崩れた石の土台と、黒く焦げた地面だけだった。


 アルクスは立ち尽くした。

 しばらく、何も考えられなかった。


 ここだ。

 間違いない。


 家の前にあった細い道。

 隣の家との間に残る石垣。


 裏手へ回る小さな坂。


 記憶と合っている。


 けれど、家だけがない。

 アルクスはゆっくりと膝をついた。


 土に触れる。


 所々、黒く焦げていた。

 古い焦げ跡だった。


 昨日今日のものではない。


 長い間、雨に打たれ、風に削られて、それでも残った黒だった。


「……燃えたのか」


 自分で言ってから、違うと思った。

 自然に燃えた跡ではない。

 火事だったとしても、ここだけではない。


 周囲の家にも似たような焦げ跡がある。


 壁の一部には、焼け残った木材が黒く固まっていた。


 町ごと焼かれたのか。

 攻め込まれたのか。

 誰かが火を放ったのか。


 分からない。


 アルクスは土を握った。

 手の中で、乾いた焦げ土が崩れる。


 ここに、家があった。

 ここで、朝を迎えた。


 ここで、母に叱られた。

 ここで、父の背を見た。


 その場所が、跡形もなくなっている。


 だが、涙は出なかった。


 悲しみが来るには、あまりにも現実味がなかった。ただ、胸の奥に穴が空いたような感覚だけが残る。


「……どうして」


 答えはない。


 アルクスは顔を上げた。

 日が傾き始めていた。

 廃墟の影が長く伸びている。


 夜が来る。


 今すぐこの町を離れる気にはなれなかった。


 分からないことが多すぎる。

 なぜアルミドは滅びたのか。

 なぜ誰もいないのか。


 自分はどれほどの間、闇の底にいたのか。


 答えはどこにもなかった。


 ただ、焼け焦げた土と、崩れた石と、風に揺れる草だけがそこにある。


 アルクスは黒喰の柄に触れた。

 抜くつもりはない。


 ただ、そこにあることを確かめたかった。


 剣は、まだある。

 腕もある。

 脚もある。


 けれど、戻ってきたはずの場所には、もう何も残っていなかった。


「……今日は、ここで休む」


 誰に言うでもなく呟いた。

 かつて自分の家があった場所の近くで。


 焼け焦げた土と、消えた人々の気配を抱えたまま。アルクスは、崩れた家屋の陰へ身を寄せた。


 その背に、誰の声も届かなかった。


 ただ、風だけが、アルミドの夜を連れてきた。

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