間に合わない
西側農地へ着いた時、麦畑の一部が大きく潰れていた。
柵は2か所で折れ、土には深い蹄跡が残っている。踏み荒らされた作物の間には、赤黒い血が数滴落ちていた。
「人の血だな」
同行していたD級槍使いのロッドが顔をしかめた。
ノアが周囲を見る。
「農夫が1人、戻ってないんだよな」
「ああ」
ユアンは血の跡へしゃがんだ。
靴跡がある。大人の男。走っている途中で何度か足を滑らせていた。
その脇に、大きな蹄跡が続いている。
《岩殻猪》だった。今回はこいつの討伐が依頼だ。
D級魔獣で、成獣なら人間の腰ほどまで背がある。肩から背にかけて石のような硬質皮膚に覆われ、正面から剣を当てても浅い傷しか入らない。突進をまともに受ければ盾ごと人間を弾き飛ばす。
「先に人を探す?」
もう1人のD級剣士が聞いた。
ユアンは蹄跡を見る。
新しい。
「魔獣が近い。先に止めないと、見つけても運べない」
「同感だ」
ロッドが槍を握り直す。
4人は倒れた麦をたどった。
遠くで低い鳴き声がする。
用水路の脇に、灰褐色の巨体がいた。
背中には泥がこびりつき、左の牙に血がついている。
岩殻猪がこちらを見る。
「散れ!」
ユアンの声と同時に魔獣が走った。
ノアが前へ障壁を張る。
薄青い膜へ巨体が衝突した。
障壁が大きくたわむ。
「長くは無理!」
ノアが叫ぶ。
ロッドが右へ回り、剣士が左へ走る。
ユアンは岩殻猪の脚を見る。
魔獣が障壁を押し切る直前、頭を右へ振った。
角で膜の端を裂く。
その勢いのまま方向を変え、ロッドへ向かう。
「速っ!」
ロッドが槍を出す。
穂先が肩の硬質皮膚へ当たり、弾かれた。
ユアンは魔獣の後ろへ回った。
その時、違和感に気づく。
右後脚だけ、踏み込んだ後に外へ滑っている。
「右後ろが弱い!」
ロッドが即座に理解した。
正面へ回り、槍で岩殻猪の顔を牽制する。
剣士が左から刃を当てる。
傷にはならないが、魔獣がそちらへ顔を向けた。
ユアンは《瞬駆》を弱く使う。
右側面へ一気に入り、そのまま着地した。
剣を振る。
後脚の付け根へ刃が入った。
硬質皮膚のない場所だった。
岩殻猪が悲鳴を上げ、身体をひねる。
牙が横薙ぎに迫る。
ユアンは退こうとした。
靴が湿った土を滑る。
間に合わない。
右腕へ《硬皮》を使い、身体を丸めた。
牙の先が前腕を掠める。
衝撃で身体が横へ飛んだ。
「ユアン!」
ノアの障壁が岩殻猪との間へ差し込まれる。
ユアンは地面を転がり、すぐに起きた。
腕が熱い。
袖が裂けているが、皮膚には浅い擦り傷しかなかった。
骨も動く。
「大丈夫!」
岩殻猪は右後脚を引きずっている。
狙いは間違っていなかった。
ロッドが槍を突き出す。
魔獣がそちらへ突進する。
今度は右後脚が踏ん張れず、身体がわずかに傾いた。
「今だ!」
ユアンは地面に落ちていた予備槍を拾った。
剣より長い方がいい。
岩殻猪の前脚の内側へ踏み込む。
硬い肩の下、胸へ抜ける隙間がある。
《身体強化》を腕へ集める。
槍を突く。
穂先が皮膚を抜けた。
さらに押し込む。
手応えが深くなる。
岩殻猪が暴れた。
ユアンは槍を手放して横へ逃げる。
巨体は数歩走り、用水路の縁で膝をついた。
口から血が流れる。
立とうとしたが、右後脚が支えられない。
やがて横倒しになった。
誰もすぐには近づかなかった。
しばらく動きを見てから、ユアンが首筋へ手を当てる。
反応はない。
討伐証票が光った。
固有スキルへ意識を向ける。
核にできる。
「終わったか」
ロッドが息を吐いた。
その時だった。
「待って!」
ノアが麦畑の向こうを指した。
倒れた作物の隙間から、人間の腕が見えている。
4人で駆け寄った。
中年の男がうつ伏せに倒れていた。
左脚が不自然な方向へ曲がり、脇腹の服は血で濡れている。
息はある。
浅い。
「生きてる」
ノアが膝をついた。
手を脇腹へ当て、治癒補助の光を広げる。
「肋骨が折れてる。脚も駄目だ。ここじゃ止血までしかできない」
「運べる?」
「固定すれば。でも早い方がいい」
ユアンは1度だけ岩殻猪を見た。
今なら核にできる。
核を作るだけなら、ほとんど時間はかからない。
だが生成した核を扱う間に、農夫の容体が変わる可能性はある。
何より、仲間を待たせることになる。
「先に運ぶ」
ユアンは言った。
ロッドが頷く。
「俺もそう思う」
近くの農具小屋から板を外し、布と縄で簡易担架を作った。
ノアが傷を押さえたまま、ユアンとロッドで持ち上げる。
畑の土は柔らかかった。
走れない。
揺らせば骨が内臓を傷つける可能性があるため、急いでも歩幅を乱せない。
途中で農夫の呼吸が急に浅くなった。
ノアが止める。
「下ろして」
担架を置く。
治癒の光が強くなる。
ノアの額に汗が浮かんだ。
「大丈夫か」
ユアンが聞く。
「俺じゃなくて、この人を心配しろ」
「お前が倒れたら両方困る」
「なら黙って水」
革袋を渡す。
数分後、再び動けるようになった。
街道脇の救護所へ着いた時には、ユアンの腕も肩も震えていた。
常駐の治療師が農夫を見る。
「すぐ中へ。よくここまで運んだ」
ノアも中へ呼ばれる。
ユアンたちは外で待った。
少ししてノアが出てきた。
「命は大丈夫そう」
全員が同時に息を吐いた。
ロッドが空を見る。
「猪の処理、どうする?」
「戻ろう」
ユアンは言った。
畑まで戻ると、岩殻猪は同じ場所に残っていた。
陽が少し傾いている。
ユアンは死体へ触れた。
何も返ってこなかった。
もう1度、固有スキルを意識する。
反応がない。
「どうした?」
ノアが聞いた。
「作れない」
「さっきは?」
「できた」
ノアも死体を見る。
「時間?」
「たぶん」
それ以上は分からない。
分からないなら、今ここで考え続けても答えは出ない。
ユアンは解体刀を抜いた。
「核にできないなら素材を取る」
ロッドが笑った。
「切り替え早いな」
「腐る前にやる方がいい」
岩殻猪の後脚から太い腱を外す。
筋膜も傷めないように剥がす。
背の硬質皮膚は運べる分だけ切り出した。
全部を持ち帰るには重すぎるので、残りは農業組合へ引き渡す。
ノアが血のついた腱を見た。
「これ、欲しいの?」
「靴に使えるかもしれない」
「最近、何でも靴基準になってない?」
「壊れるからな」
翌朝、第3魔獣処理場へ持ち込むと、ハンネスは腱を両手で引き、筋膜を灯りへ透かした。
「悪くねえ。特にこっちは衝撃を逃がすのに使える」
「靴に?」
「俺は靴屋じゃねえ。ゴードンに持ってけ」
「使えるとは思う?」
「お前の歩き方ならな」
ユアンが顔を上げる。
「何でみんな俺の歩き方を見るんだ」
「解体屋は関節を見る。人間も魔獣も大差ねえ」
「本人の前で言うことか?」
ハンネスは笑い、素材を束ねて返した。
「売れば金になる。使うなら腐らせるな。どっちにするかはお前が決めろ」
ユアンは束を受け取った。
今回は核を選べなかった結果として残った素材だった。それでも使い道までなくなったわけではない。
その日の午後、組合の入口で中年の女に呼び止められた。
隣には10歳くらいの少年がいる。
女は何度も頭を下げた。
「昨日、主人を運んでくださった方ですよね」
ユアンは一瞬、誰のことか分からなかった。
少年がノアの丸盾を見ている。
「あの農夫か」
「はい。今朝、白鹿診療院へ移れました。脚は時間がかかるそうですけど、命は大丈夫だって」
「治したのはノアだ」
ユアンが言うと、女はノアへ向き直った。
「本当にありがとうございます」
今度はノアが困った顔をした。
「俺は止血しただけです。運んだのはみんなだし、最終的に治したのは診療院だから」
「それでもです」
少年が母親の袖を引いた。
「父ちゃん、また畑できる?」
ノアは答えに詰まった。
ユアンが代わりに言う。
「医者の言うことを聞けばな」
「父ちゃん、聞かないよ」
「ならお前が聞かせろ」
少年は真剣な顔で頷いた。
親子が帰っていく。
ノアが小さく息を吐いた。
「お前、子供相手でも言い方変わらないよな」
「嘘つくよりいいだろ」
「まあね」
ユアンは右手の指輪へ一瞬だけ目を落とした。
岩殻猪の能力が何だったのかは分からない。
それでも、失ったものの代わりに残ったものが何もないわけではなかった。
組合へ報告に行くと、バルドは執務机で書類を読んでいた。
義足を机の下へ伸ばし、ユアンの報告書を片手で受け取る。
「農夫は?」
「白鹿診療院へ移った。助かるって」
「そうか」
バルドは報告書をめくる。
「人を運んだか」
「ああ」
「ならいい」
それだけだった。
褒めもしない。
核のことも聞かない。
ユアンが扉へ向かうと、背中から声が飛んだ。
「次も同じなら、人を運べ」
振り返る。
バルドはもう別の書類を読んでいた。
「分かった」
ユアンが出ていった後、ミレナが新しい封書を持って執務室へ入った。
「灰鐘坑道の件で、王立迷宮管理局から担当者が決まりました」
バルドが顔を上げる。
「誰だ」
「イリス・ヴァレンティア特務監察官です」
一瞬だけ、バルドの眉間に皺が寄った。
「……厄介なのが来るな」
ミレナは封書を机へ置いた。
「ご存じですか?」
「名前と評判くらいはな」
それ以上は言わなかった。
窓の外では、夕方の鐘が鳴っていた。
灰鐘坑道の閉鎖は続いている。
その地下で何が起きたのかは、まだ誰も答えを持っていなかった。




