硬い殻
北区の水門を出る頃には、日が傾き始めていた。
今回の依頼は、農業用水路に住みついた鎧甲蟲2体の駆除だった。人の胴ほどの大きさがある甲虫型魔獣で、灰黒色の外殻は鉄板より軽く、刃を弾くほど硬い。人を積極的に襲う魔獣ではないが、水門や木製の導水具を削るため、放置すれば農地へ被害が出る。
「ユアンさん、あれがそうですか?」
後ろを歩いていた青年が、水路脇の黒い岩を指した。
「違う。ただの石だ」
「あ、すみません」
トーレン・ミルズは20歳になったばかりのE級傭兵だった。明るい茶髪を短く切り、まだ傷の少ない革鎧を着ている。剣の鞘も新しく、歩きながら何度も周囲へ視線を走らせていた。
ノアが笑う。
「そんな緊張しなくていいぞ。鎧甲蟲は逃げ足も速くない」
「でもD級の方と組むの、初めてなので」
「俺もD級だぞ」
「ノアさんはC級ですよね?」
「そうだった」
「忘れるな」
ユアンが言うと、ノアは肩をすくめた。
今回、トーレンが加わったのは人数合わせだった。農業組合が夕方までの処理を望み、組合側が近くにいたE級を補助として入れた。依頼報酬は参加者ごとに定額で、素材は討伐した個体ごとに主討伐者へ帰属する。共同討伐分だけ事前に分配を決める。
ユアンにとっても都合がよかった。
自分より下の階級の傭兵と組む機会は、意外と多くない。
「灯り、少し落としてくれ」
水路沿いの林が深くなったところでユアンが言った。
トーレンが魔導灯を見た。
「暗くないですか?」
「俺は平気だ」
《暗視》を使う。
光が弱くなると、かえって周囲の輪郭が見やすくなった。
色は薄い。だが石積みの欠けも、水面の揺れも、草の先についた泥まで判別できる。
「前に2体」
ユアンが言った。
トーレンが目を細める。
「どこです?」
「左の水路際。低い石壁の下」
ノアが魔導灯を少し上げた。
灰黒色の甲殻が光を返す。
2体いた。
トーレンが息を呑んだ。
「全然見えなかった」
「右は俺がやる。左はノアと組め」
「はい」
ユアンは剣を抜いた。
鎧甲蟲が羽を開いた。
硬い翅が擦れ、低い音を立てる。
右の1体が地面すれすれを飛んできた。
正面の外殻を斬っても刃が欠けるだけだ。
ユアンは半歩だけ外へ出た。
魔獣が脇を通る。
その瞬間、脚の付け根へ剣を滑らせる。
柔らかい節へ刃が入った。
鎧甲蟲が石壁へぶつかり、身体をひねる。
すぐに向きを変えた。
速くはない。
だが甲殻で守られた頭部を前にすれば、正面から止めるのは面倒だった。
ユアンは追わない。
水路の幅を見る。
魔獣が再びこちらへ向く。
「トーレン、甲羅を叩くな!」
反対側で金属音がした。
トーレンの剣が鎧甲蟲の背へ弾かれている。
「脚の内側だ。ノアが止めた時だけ入れろ!」
「はい!」
目の前の個体が突進する。
ユアンは石壁を背にしたまま待つ。
ぶつかる寸前に横へ外れた。
鎧甲蟲の頭が壁へ当たる。
動きが止まる。
ユアンは腹側へ回り込み、節の間へ剣を突き入れた。
手応えが抜ける。
刃先を少し上へ向ける。
魔獣が激しく翅を震わせた後、地面へ落ちた。
反対側ではノアの障壁が斜めに出ていた。
鎧甲蟲が障壁へ沿って横を向く。
「今!」
トーレンが踏み込んだ。
今度は背を狙わない。
前脚の付け根へ剣を差し込む。
鎧甲蟲が体勢を崩した。
ノアが盾で押さえる。
トーレンが腹の節へ刃を入れた。
しばらく暴れた後、動かなくなった。
「終わった……」
トーレンが大きく息を吐いた。
「まだ確認」
ユアンは言った。
自分の個体の呼吸と反応を確かめる。
トーレンも慌てて真似をした。
討伐証票に2体分の記録が入る。
これで依頼は終わりだった。
ユアンは自分が倒した鎧甲蟲へしゃがんだ。
外殻の傷は少ない。
指で叩くと、乾いた高い音が返った。
「いい素材?」
ノアが聞く。
「ああ。胸当てに使えるかもしれない」
「核にはしない?」
トーレンには聞こえないよう、小さな声だった。
「こいつは残す」
ユアンは解体刀を抜いた。
腹側から刃を入れ、甲殻を傷つけないように外していく。
トーレンが自分たちの個体を前にして固まっていた。
「どうした」
「どこから開けばいいのか分からなくて」
「背中からやるな。値段が落ちる」
ユアンが隣へ行く。
「腹の節に指を入れろ。そこは柔らかい」
「ここですか?」
「もう少し下」
トーレンが刃を入れる。
途中で外殻へ当たりそうになったので、ユアンが手首を止めた。
「力で押すな。刃の角度を変えろ」
「はい」
何度かやるうちに、甲殻がきれいに外れた。
トーレンが目を丸くする。
「戦うより難しいですね」
「慣れれば逆だ」
「ユアンさんって、戦ってる時もずっとこういうところ見てるんですか?」
「こういうところ?」
「脚とか、地面とか、ノアさんの位置とか。俺、自分の相手だけで精一杯でした」
ユアンは少し考えた。
「見ないと死ぬからな」
「D級って、みんなこんなに周り見て戦うんですか?」
「人による」
隣でノアが吹き出した。
「何だ」
「別に」
素材を包み終えた頃には、林の中はかなり暗くなっていた。
ユアンは解体刀を水路で洗う。
刃についた体液を流した時、石壁の下に灰色の細かな粉があるのが見えた。
普通の砂とは違う。
光を落とした視界では、粉だけ輪郭がわずかに浮いている。
指で触る。
硬い。
鎧甲蟲の甲殻が擦れた時に出る粉だった。
ユアンは泥を見る。
小さな脚痕が支流の奥へ続いている。
今倒した2体は反対方向から来ていた。
「ノア」
呼ぶと、ノアが近づいた。
ユアンが壁際を指す。
ノアはしゃがんで見た。
「もう1体?」
「たぶん」
「依頼書は2体だったぞ」
「確認されたのが2体だっただけだ」
トーレンが振り向いた。
「何かありました?」
ユアンは立ち上がる。
「奥を確認してくる。素材を見ててくれ」
「俺も行きます」
「こっちを置いたままにできない。魔獣か獣に持っていかれたら分配が面倒だ」
トーレンは少し迷った後、頷いた。
「分かりました」
ユアンとノアだけで支流へ入る。
2つ角を曲がると、トーレンの灯りは見えなくなった。
「言わないんだな」
ノアが小声で言う。
「言う必要がない」
「核にするつもり?」
「見てから決める」
《暗視》の中で、水路の奥に傷が続いていた。
使われなくなった古い水門の陰で、灰黒色のものが動く。
鎧甲蟲だった。
先ほどの2体より少し小さい。
「いた」
ノアが盾を下ろす。
「俺がやる」
ユアンは前へ出た。
鎧甲蟲が羽を鳴らす。
鎧甲蟲が突進してきた。
狭い水路では横へ避ける余裕が少ない。
ユアンは壁際へ寄り、直前に身体を捻った。
甲殻が肩を掠める。
剣を後脚の節へ入れる。
浅い。
鎧甲蟲がそのまま壁へぶつかり、すぐに向きを変える。
「左へ寄せる」
ノアが障壁を出した。
魔獣の進路が半歩だけずれる。
それで十分だった。
ユアンは正面を外し、腹側へ回る。
剣を深く突き入れる。
鎧甲蟲の翅が激しく鳴った。
刃を抜かず、内部で角度を変える。
動きが止まった。
ユアンは周囲を確認する。
ここならトーレンからは見えない。
「どうする?」
ノアが聞いた。
ユアンは死体を見る。
甲殻は使える。
売ってもいい。
だが自分の荷物には、すでに1体分の甲殻がある。
「こっちは核にする」
「同じ魔獣を片方ずつか」
「ああ」
《スキル核作成》を使う。
死体が淡い光へ変わる。
灰黒色の甲殻も、翅も、魔核も消え、透明な核だけが残った。
ユアンはそれをすぐに指輪へ近づける。
核が吸収される。
新しい感覚が流れ込んだ。
得られたのは《硬皮》だった。
「何だった?」
「《硬皮》」
「そのまんまだな」
ユアンは前腕へ意識を集めた。
皮膚が張る。
色はほとんど変わらない。
ノアが指で押す。
「少し硬い」
「叩いてみろ」
「何で俺が」
「軽くでいい」
ノアが木片で前腕を叩いた。
鈍い痛みが走る。
「痛い」
「硬くなっただけだからな」
刃先を軽く当てると、普段より皮膚へ入りにくい。
だが少し力を込めれば切れそうだった。
「鎧の代わりにはならないな」
「背中にちょうど甲羅があるぞ」
ユアンは自分の荷物を見た。
同じ鎧甲蟲だった。
片方は胸当てになり得る甲殻として残り、片方は自分の皮膚を守る力に変わった。
どちらも役に立つ。
「これ、毎回悩むことになりそうだな」
ノアが言った。
「たぶん」
「面倒だな」
「俺もそう思う」
2人はトーレンのところへ戻った。
青年はきちんと素材をまとめたまま待っていた。
「何かありました?」
「奥まで確認した。依頼に関係する問題はない」
「じゃあ戻れますね」
「ああ」
追加個体のことは話さなかった。
組合へ戻ると、討伐証票の2体分だけで依頼は完了した。
ユアンは自分が倒した個体の甲殻を素材として受け取り、トーレンとノアは共同討伐した個体の売却分を契約どおり分けた。
素材の査定を見たトーレンが嬉しそうに笑う。
「甲羅割らなくてよかったです」
「次から自分でやれ」
「はい」
トーレンは認識票をしまいかけてから、少し迷ってユアンを見た。
「また同じ依頼になったら、組んでもらえますか?」
「組合が決めることだ」
「そうじゃなくて、嫌じゃないですかって意味です」
ユアンは少し考えた。
戦闘中に指示は聞いた。無理に前へ出ようともしていない。素材の分配でも揉めなかった。
「帰れる仕事ならな」
トーレンの顔が明るくなる。
「はい」
ノアが横から口を挟んだ。
「今の、支部長みたいだったぞ」
「やめろ」
トーレンが笑いながら帰っていった。
トーレンが帰った後、ノアがユアンの荷物を指した。
「同じ魔獣1体は残して、1体は消したわけだ」
「ああ」
「どっちが得だった?」
ユアンは背中の甲殻と、右手の指輪を順に見た。
「まだ分からない」
「またそれか」
「分からないものは分からない」
その答えに、ノアは笑った。
ユアンも以前ほど、その言葉を嫌だとは思わなかった。
分からないなら、使って確かめればいい。
ただし、確かめるたびに何かを失う。
それだけは、かなり分かってきていた。




