夜爪猟犬
雨上がりの牧草地は、まだところどころ黒く濡れていた。街道の轍には浅い水が残り、柵の外へ踏み出すと靴底へ粘った土がまとわりつく。
「昨日来てたら、《瞬駆》どころじゃなかったな」
ノアが丸盾を背負い直しながら言った。
ユアンは足元を見た。縫い直した靴底は乾いた土なら問題ないが、ぬかるみで急に踏み込めば横へ流れる。
「支部長がそこまで考えたかは分からない」
「考えてるだろ。お前よりは」
「最後の一言はいらない」
牧場主から聞いた被害は羊2頭だった。夜爪猟犬は昨夜、柵の下をくぐって侵入し、1頭をその場で食い、もう1頭を林まで引きずっている。
E級魔獣だった。
大きな犬に似ているが、前脚が長く、肩から背中へかけて黒い短毛が密生している。暗闇でも獲物を追える目と、瞬間的な跳躍力を持つ。
D級上位のユアンなら、本来は《瞬駆》がなくても倒せる相手だった。
だからちょうどよかった。
新しい力に頼り切らず、どう混ぜるかを試せる。
「跡がある」
ユアンは柵の脇へしゃがんだ。
泥の上に、犬より少し大きい足跡が並んでいる。右後脚だけ、爪の跡が浅い。
「怪我してる?」
ノアが覗き込む。
「たぶん」
足跡は林へ続いていた。
2人は魔導灯を消したまま進んだ。昼前なので暗視は必要ない。枝の折れ方と草の倒れ方だけで追える。
林へ入って50歩ほどで、腐葉土の臭いに獣臭が混じった。
ユアンが手を上げる。
ノアが止まる。
低い唸り声がした。
黒い影が木の間を横切る。
夜爪猟犬だった。
想像より大きい。右後脚をわずかに庇っている。
「俺が前」
ノアが盾を構えた。
ユアンは剣を抜く。
夜爪猟犬はこちらへ真っすぐ来なかった。弧を描くように回り、風下へ移ろうとしている。
ユアンは動かず待った。
魔獣がノアへ顔を向けた。
丸盾を持ち、動きの遅そうな方を選んだらしい。
次の瞬間、黒い身体が地面を蹴った。
ノアの前に薄青い障壁が広がる。
夜爪猟犬が跳ぶ。
ユアンは着地点を見た。
今までなら、そこへ走って間に合うかどうかだった。
右足へ力を込める。
《瞬駆》を弱く使った。
世界が一瞬だけ横へ流れる。
全力ではない。2歩と少しだけ距離を縮める。
身体が止まる前に剣を振らない。まず左足を置き、重心を戻す。
夜爪猟犬の前脚が障壁へ当たった。
反発で身体が傾く。
そこへユアンが刃を入れた。
首の横を深く切る。
夜爪猟犬が地面へ転がった。
すぐに起きようとしたが、右後脚が支えきれない。
「右!」
ノアの声が飛ぶ。
ユアンは半歩下がり、噛みつきを外す。
剣を返す。
今度は喉の奥まで刃が入った。
夜爪猟犬が大きく痙攣し、そのまま動かなくなった。
しばらく待ってからユアンは近づいた。
呼吸はない。
瞳孔も動かない。
自分の剣が死因になっている。
腰の討伐証票へ淡い光が走った。
「前より楽だった?」
ノアが聞く。
「少し」
「少し?」
「《瞬駆》だけで倒したわけじゃない」
「そういう意味じゃないんだけどな」
ユアンは答えず、夜爪猟犬の毛皮へ指を滑らせた。
首以外の傷は少ない。
毛皮は十分売れる。牙も魔核も使える。
ノアも同じことを考えたらしい。
「本当にやる?」
「ああ」
「素材、結構するぞ」
「分かってる」
「俺の分は?」
「これは俺の討伐分だ。依頼報酬は契約どおり払う」
ノアは肩をすくめた。
「なら文句はない。もったいないとは言うけど」
ユアンは腰の解体刀を抜いた。
夜爪猟犬の口を開き、右上の牙を1本だけ根元から外す。
「何してる?」
「前から気になってた」
牙を死体から20歩ほど離れた岩の上へ置いた。
昔、《スキル核作成》を何度か使ったことはある。
だが、用途のない核を作るために、わざわざ素材を先に外して試す理由はなかった。
今は違う。
核が使えるなら、両方取れるかどうかには意味がある。
ユアンは死体へ右手を置いた。
固有スキルへ意識を向ける。
輪郭が淡く光り、夜爪猟犬の身体が細かな粒子へ変わっていく。
毛皮も、骨も、血も、魔核も消えた。
手のひらの下へ透明な結晶が残る。
ノアが岩の方を見た。
「消えてる」
牙もなかった。
ユアンは岩まで歩き、表面を確かめた。
何も残っていない。
「やっぱり個体全部か」
「町まで持って帰ってから毛皮だけ剥いでも?」
「たぶん消える」
「便利なのか不便なのか分からないな」
「今のところ不便の方が多い」
ユアンは透明な核を拾った。
昔作った核はどれも、一定時間を過ぎると光の塵のように崩れて消えた。
長く保管もできない以上、高価な素材を失ってまで作る意味はなかった。
だが、今は黒ずんだ銀の指輪がある。
ユアンは周囲を確認した。
牧場主は遠い。
街道にも人影はない。
ノアだけがいる。
核を指輪へ近づけた。
古い紋様が淡く光る。
透明な核が熱を持ち、次の瞬間には溶けるように指輪へ吸い込まれた。
頭の奥へ、知らないはずの感覚が流れ込む。
得られたのは《暗視》だった。
名前と使い方が同時に分かった。
「何だった?」
「《暗視》」
ノアが少し黙った。
「地味だな」
「言うと思った」
「毛皮と牙と魔核を全部消して、暗いところで見えるようになるだけ?」
「使ってから決める」
「そうだな」
ユアンは指輪へ意識を向けた。
《瞬駆》はまだ残っている。
普通の核なら、とっくに消えていてもおかしくない時間が過ぎている。
ノアも気づいたらしい。
「《瞬駆》、まだあるんだろ」
「ああ」
「指輪に入ると消えない?」
「分からない」
ノアは呆れたように笑った。
「そういうとこだけ慎重だよな」
帰路につく頃には雲が厚くなり、林の中は昼間より暗くなっていた。
ユアンは足を止める。
《暗視》を使った。
目の奥がわずかに熱を持つ。
景色から色が薄れた。
代わりに、黒く潰れていた木の根や枝の輪郭が浮かぶ。
遠くの地面で何かが動いた。
「右の木、3本先」
ノアが目を凝らす。
「何も見えない」
2人で近づく。
根元から小さな岩鼠が走り去った。
ノアが口を曲げた。
「毛皮1枚分くらいの価値はあるかもしれない」
「牙と魔核は?」
「そこまでは知らん」
ユアンは少し笑った。
強くなったという実感はない。
それでも見えなかったものが見える。
自分には、その方が使い道を考えやすかった。
林を出る前、ユアンはもう1度足跡を探した。
夜爪猟犬が1頭だけだったとは限らない。牧場主が見たのは1頭でも、同じ場所を別個体が使っていれば、明日の夜にまた羊が襲われる。
薄暗くなった地面へ《暗視》を重ねると、昼間は土の色に紛れていた浅い窪みまで見えた。
先ほど倒した個体の足跡だった。
右後脚が浅い。
その上へ重なる新しい跡はない。
古い小型獣の跡が2本あるだけだった。
「追加はいなさそうだ」
「それも分かるの?」
「見えるだけだ。判断するのは同じ」
ノアが感心したように地面を見る。
「地味って言ったの取り消す?」
「毛皮の値段を思い出してから決める」
「まだ気にしてるのか」
「金だからな」
牧場へ戻り、討伐証票を見せる。
牧場主は安堵した後、少しだけ不思議そうな顔をした。
「素材は?」
「残してない」
「綺麗な毛皮なら買おうと思ってたんだが」
「事情があってな」
固有スキルのことまで説明する必要はない。
組合へ戻れば記録にも残っている。
珍しいが役に立たない能力だと、昔から何度も言われた。
今、その評価だけが変わり始めている。
組合へ戻ると、ミレナは討伐証票を確認し、素材欄が空白なのを見てからユアンを見た。
「素材はありませんか?」
「ない」
「固有スキルを使いました?」
「ああ」
ミレナは驚かなかった。
「珍しいですね。最近は使っていなかったでしょう」
「素材にした方が金になるからな」
「それはそうですね」
淡々と帳簿へ印を押す。
それだけだった。
《スキル核作成》は傭兵登録の時から記録にある。何度か鑑定に回されても用途が見つからなかったので、ミレナの反応もそんなものだった。
「報酬です」
小袋を受け取る。
軽い。
夜爪猟犬の素材を売った時より明らかに少ない。
ノアが横から覗いた。
「やっぱり痛いな」
「お前の報酬は減ってないだろ」
「俺はね。友達が自分から貧乏になってくのを見るのも結構つらいぞ」
「心配するところが金だけなのか」
「脚の心配はもうした」
「そうだったな」
ミレナが少しだけ笑う。
「支部長からも、次の依頼を入れるなら連続で走るものは避けるようにと言われています」
ユアンは受付の奥を見る。
バルドの姿はなかった。
「また勝手に決めてるな」
「支部長権限です」
「便利な言葉だ」
「便利なので」
組合を出ると、夕方の風が少し冷たくなっていた。
帰り道、ノアが声を落とした。
「核を作るところまでは、知ってる奴なら見られても問題ないよな」
「ああ」
「指輪に入れるところは?」
「見せない」
「使えるようになったってことも?」
「今はな」
ノアが頷いた。
それ以上は言わなかった。
ユアンも同じだった。
核を作れることは昔から知られている。
だが、その石が消える前に指輪へ入れれば、魔獣の力として使える。
そこまで知られた時、自分を見る目がどう変わるかは分からない。
分からないうちは、見せない方がいい。
ユアンは右手を握った。
《瞬駆》も《暗視》も、まだそこにあった。
それがいつまで続くのかだけは、まだ誰にも分からなかった。




