消えた部屋
灰鐘坑道へ再び入ることが決まったのは、封鎖から7日目だった。
その一週間、坑道入口には組合と王国側が持ち込んだ観測魔導具が昼夜を問わず設置され、内部へは無人の探査具だけが送り込まれていた。上層から中層にかけてSS級相当の反応は一度も確認されず、代わりに、普段なら各階層に散っている魔獣が極端に減っていることが分かった。
「安全になったとは言わねえ」
出発前、バルドは調査隊を見回した。
「SS級が見つからねえことと、SS級がいねえことは別だ。異常値が出たら即時撤退する。痕跡が一つ見つかっただけでも戻れ。欲張って答えまで持ち帰ろうとするな」
今回の中心はシキナだった。
同行するのは組合所属のA級斥候一人、B級障壁術師一人、ノア、そしてユアンだった。
ユアンは戦力として数えられているわけではない。黒い魔獣に追われた経路と、古い人工区画へ入り込んだ場所を知る唯一の生存者だから同行を許可された。
バルドはユアンの認識票を一度見た。
「クロウ」
「何だ」
「お前は案内役だ」
「分かってる」
「C級が出たら前へ出るな」
ユアンは眉を寄せた。
「状況次第だろ」
「状況を決めるのはシキナだ」
シキナが横から口を挟む。
「私が帰れと言ったら?」
「帰る」
「ならいい」
バルドもそれ以上は何も言わなかった。
ただ、受付の若い職員がユアンへ予備の治療薬と帰還用の信号筒を渡してきた。
「これ、俺だけ多くないか?」
「支部長指示です」
「……そうか」
横でノアが笑いをこらえていた。
坑道入口の前に立つと、ユアンの脚の奥が勝手に硬くなった。
傷は治っている。
恐怖は治っていない。
「顔色悪いぞ」
ノアが言う。
「元からだ」
「昨日より三割白い」
「数値で言うな」
シキナは二人の前で坑道を見ていた。
「帰ってもいいよ」
唐突に言われ、ユアンは眉を上げた。
「案内役がいなくなる」
「道は記録してある」
「細かい場所は俺しか分からない」
「それでも嫌なら帰っていい」
馬鹿にしている様子はない。
ユアンは坑道の闇を見る。
「嫌だよ」
「そう」
「だから行く」
シキナは一度だけ頷き、中へ入った。
第一層は不気味なほど静かだった。
以前なら壁際を這っていた赤牙鼠すら見えない。探査隊が残した誘導灯だけが一定間隔で青く光り、空っぽの坑道を照らしている。
第三層で最初の魔獣に遭遇した。
D級《酸喰百足》だった。
人間の胴ほどある太さの節足が岩陰から滑り出し、口腔から黄色い液体を吐く。
「下がれ!」
ノアが障壁を出した。
酸液が青い膜を焼き、白煙が上がる。
ユアンが剣へ手をかけた時には、シキナがもう動いていた。
酸喰百足の横をすり抜ける。
黒い短刀が一度だけ光った。
魔獣はそのまま数歩進み、突然力を失って崩れた。
首を落としたわけではない。
外殻にも大きな傷はない。
「どこ切った?」
ユアンが死体へ寄る。
「ここ」
シキナが第三節の付け根を示した。
細い切創がある。
「魔核と頭部をつなぐ魔力路が集まってる」
「見えるのか?」
「何となく」
「何となくで切れる場所じゃないだろ」
「何となくが長いだけ」
ユアンは解体士の目で傷を見る。
確かにこの種類なら神経と魔力経路が集中する位置だ。知識としては知っている。しかし高速で動く個体に一刀で当てるのは別問題だった。
「《脈断》ってやつか」
「呼ぶ人はそう呼ぶ」
シキナは刀についた体液を拭い、先へ進む。
A級というものが単に魔力量や腕力の数字ではないことが、嫌でも分かった。
第五層でユアンが足を止めた。
「ここだ」
右側の壁を指す。
「この先で最初に崩落が起きた。ノアたちと分断された」
ノアが岩へ触れた。
「向こうからお前の声だけ聞こえた場所か」
「ああ」
7日前の光景が蘇る。砂煙の向こうからノアの声が響き、そのさらに奥から黒い影が近づいてきた。
ユアンは右手を握った。
《瞬駆》は使える。
それでも、もし黒い魔獣が現れたとして、助かる保証はどこにもない。
調査隊は先へ進んだ。
ユアンが逃げた経路の一部は崩れていたが、別の通路から迂回できた。
「ここで煙玉を使った」
A級斥候が壁に残った深い傷を示す。
「これは?」
「黒いやつだ。俺が隣の通路にいた時、壁ごと穿った」
傷は人の胴体ほどの幅があり、岩盤を数メートル貫いていた。
ノアが黙る。
「……これに追われてたのか」
「言っただろ」
「聞くのと見るのは違う」
さらに進み、血の囮を投げた場所や支柱を崩した場所、肩を切った場所を一つずつ確認した。ユアンが口にするたび、斥候が位置を記録する。
誰も英雄譚のような反応はしなかった。
むしろ傷跡を見るほど口数が減っていった。
最後に追い詰められた場所へ着いた。
「ここだ」
壁は大きく崩れている。
その奥に、白と黒の滑らかな石材が覗いていた。
シキナが近づこうとすると、A級斥候が手を上げる。
「待て。測定する」
携帯型の魔力測定具を向ける。
反応は低い。
障壁術師が防護を展開し、その中で慎重に瓦礫を越えた。
ユアンも続く。
7日前に通った細い人工通路は半分ほど潰れていた。
「灰鐘坑道の構造じゃないな」
斥候が壁を撫でる。
白い石材は継ぎ目がほとんど見えない。表面には細い黒線が走り、所々に見たことのない文字らしきものが刻まれている。
壁の一部には、円をいくつも重ねたような紋様が残っていた。線の内側には小さな窪みが規則正しく並び、魔導灯を近づけると、ごく弱い光が一瞬だけ走る。
完全に死んだ遺跡ではない。
「触るな」
斥候がノアを止めた。
「触ってない」
「触ろうとしてた」
「ちょっとだけ」
「古代遺構で『ちょっとだけ』は死因になる」
ノアが素直に手を引っ込める。
ユアンは会話を聞きながら、自分の右手を外套の陰へ隠した。
指輪の表面にも似たような細い線がある。
完全に同じとは言えない。
それでも同じ系統のものだと感じる程度には似ていた。
シキナが壁から自然に剥がれていた小片を拾う。
「持ち帰る」
ユアンは黙っていた。
指輪のことを言えば、当然見せろという話になる。
自分でも正体を知らないものを王国や組合へ渡す気には、まだなれなかった。
「部屋はこの先?」
シキナが聞く。
「ああ」
数十メートル進んだところで道は終わった。
巨大な瓦礫が天井から落ち、通路全体を埋めている。
ユアンは壁際を探した。
「この先だ。間違いない」
「掘れる?」
ノアが聞く。
A級斥候が首を振る。
「今日はやらない。構造が分からない場所で掘削すれば、上まで全部落ちる可能性がある」
「別の道は?」
「探すなら専門隊を組んでからだ」
ユアンは瓦礫を見る。
あの向こうに人骨がある。
指輪があった場所もある。
自分はあの部屋をほとんど見ていない。
見る暇がなかった。
あの人骨が始原文明の人間だったのか、後世の探索者だったのかも分からない。
もし再び部屋を開けるなら、自分が持ち去ったものが何だったのか知る機会になる。
同時に、知りたくないという感情もあった。
引き返そうとした時、シキナが足を止めた。
「ここ」
床へしゃがむ。
黒い石面に細い傷が残っている。
黒い魔獣の爪痕だった。
人工区画へ入ったあとも追ってきた証拠だ。
斥候が測定具を近づける。
「残留魔力はほぼない。7日なら当然か」
シキナは傷を指で追った。
「向こうへ続いてる」
「俺が支柱を壊させて崩した」
「狙ったの?」
「ああ」
「それで?」
「30秒くらい稼いだ」
「十分」
帰り道、ユアンは一つのことを考えていた。
あの黒い魔獣はどこへ消えたのか。
入口から外へ出た痕跡はない。
瓦礫程度で死んだとも思えない。
坑道の奥へ戻ったのか。
人工区画に別の道があるのか。
入口近くへ戻った時、シキナが突然立ち止まった。
「ユアン」
「何だ」
「最後に見た時、あれは外へ出なかったんだよね」
「ああ」
「境界で止まった」
「ああ」
「嫌がってる感じは?」
「なかった」
「怖がってた?」
「もっとない」
「なら、出られなかったか、出る必要がなかったか」
ユアンは坑道の奥を見る。
「もしくは、あそこが目的地だった」
シキナがこちらを見る。
「古代区画?」
「俺を追ってたと思ってた。でも、あいつが何を考えてたかなんて分からない」
口にした途端、寒気がした。
もし、自分を追っていたのではなかったとしたら。
自分はただ、同じ場所へ向かって逃げていただけだったのかもしれない。
夕方、調査隊は全員無事にパナリアへ戻った。
持ち帰った石材はその日のうちに組合の鑑定室へ回された。
結果が出たのは夜だった。
バルドがユアンたちを呼んだ。
「年代測定は不能。素材の製法も不明だ。ただし王国の古代遺物台帳に似たもんがある」
「何だ?」
ノアが聞く。
バルドは報告書を机へ置いた。
「始原文明の遺構で見つかる建材だ」
ノアが息を呑む。
3000年以上前に存在したとされる文明だった。
空間制御や高位魔術技術を持ち、現代では再現できない遺物を数多く残している。
「灰鐘坑道はただの自然迷宮じゃなかったらしい」
バルドが続ける。
「下に何か埋まってる」
「再調査するのか?」
「王都へ回した。ここから先は、うちだけで勝手に掘る話じゃねえ」
そこで扉の外から受付職員が顔を出した。
「支部長、採掘組合の代表がまた面会を求めています」
「まだいるのか」
「封鎖解除の日付だけでも決めてほしいと」
バルドは一度ため息を吐いた。
「決められねえもんは決められねえ。俺が行く」
「今日3度目です」
「知ってる」
職員は少し困ったように笑い、それでも安心した顔で道を開けた。
バルドが出ていく。
ノアが小さく呟く。
「あの人、今日ちゃんと飯食ったのかな」
ミレナが書類から顔を上げないまま答えた。
「昼食は机の上で冷えています」
「誰か言わないの?」
「言っています」
「聞かない?」
「そういう人です」
それ以上の説明はなかった。
それでも、受付の誰もが支部長室を気にしている理由は分かった気がした。
廊下へ出ると、シキナが窓際で立ち止まった。
「少しおかしい」
「何が」
「SS級らしい魔獣が現れた日に、3000年以上前の区画が開いた」
「偶然じゃないって?」
「分からない」
シキナは夜の街を見る。
「分からないことが増えた」
「調査ってそういうものか?」
「たぶん」
ユアンは笑った。
「A級でも分からないことばっかりなんだな」
「A級を何だと思ってるの」
「何でも切れば分かる人」
「あなたを切ったら分かる?」
「訂正する。普通の人だ」
シキナの口元がほんの僅かに緩んだ。
ユアンは右手を外套の上から押さえた。
始原文明。
黒い魔獣。
用途不明の核を力へ変えた指輪。
全部が繋がっているのかは分からない。
分からないからこそ、今は指輪を誰かに渡すべきではないと思った。
少なくとも、自分自身がこれについてもう少し理解するまでは。




