黒衣の魔獣狩り
灰鐘坑道が封鎖されて4日目、パナリアの組合には朝から人が集まっていた。
採掘依頼が止まり、代わりの仕事を探す傭兵や採取人が掲示板の前を埋めている。鉱石商は受付へ詰め寄り、荷運び人は坑道がいつ開くのかを尋ね、誰かが見たこともないSS級魔獣の姿を勝手に語っていた。
「翼が6枚あったらしいぞ」
「俺は頭が3つって聞いた」
「どこから増えたんだよ」
ノアが呆れた声を出す。
ユアンも同感だった。自分が見た黒い魔獣に翼はなかったし、頭も一つだった。噂というものは、本人が寝ている間にも育つらしい。
脚の痛みはほとんど消えていた。エマからも、全力で走らなければ問題ないと言われている。
今日は低級魔獣討伐の依頼でも探すつもりだった。
掲示板へ向かおうとして、妙な静けさに気づいた。
組合の入口に、一人の女が立っていた。
年齢はユアンと大きく変わらないように見える。艶のある黒髪は顎から肩にかかる程度で、白い肌の上に灰黒色の瞳が静かに収まっている。鼻筋は細く通り、薄い唇と余計な丸みのない輪郭が、華やかというより鋭い美しさを作っていた。
身体は細身だったが、弱々しさはない。黒を基調にした軽装戦闘服の上から薄い胸当てを着け、腰には黒鞘の片刃短刀を一本差している。飾りはほとんどなく、装備だけなら地味だった。
それなのに、人が自然と道を空けていた。
本人が睨んでいるわけでも、殺気を放っているわけでもない。ただ近くに立つと、鞘へ収まった刃物の間合いへ足を踏み入れたような気分になる。
「誰だ?」
ノアが小声で聞いた。
「知らない」
「あの感じで新人ってことはないよな」
「たぶんな」
女は受付へ向かい、ミレナと短い言葉を交わした。
それから真っ直ぐユアンを見る。
「ユアン・クロウ?」
「そうだけど」
「シキナ・アルヴェール」
それだけ言った。
名前を聞いた瞬間、ユアンにも分かった。
「A級の魔獣狩りか」
「そう呼ばれてる」
シキナは淡々と答えた。
魔獣専門の狩人として、パナリア周辺でも名が知られている。巨大な術を使うわけでも、大剣を振り回すわけでもない。どこを斬れば魔獣が死ぬかを見抜き、必要な一撃だけを通すという。
「灰鐘坑道の話を聞きたい」
「組合へ話した内容なら記録がある」
「読んだ」
「なら?」
「書類は質問に答えない」
その言い方が妙に真っ当だった。
二階の小会議室へ移る。
ミレナが記録係として同席し、ノアも当事者として残った。
「最初に異変へ気づいたのは?」
シキナが聞く。
「俺」
「何を見た?」
「見たんじゃない。音が減った」
「音?」
「洞蟲と灯殻蛾と岩鼠。小さい生き物から先にいなくなった」
「死体は?」
「なかった」
「逃げたと思う?」
「たぶん」
「何から?」
「分からなかった。だから戻ろうとした」
シキナが少しだけ首を傾ける。
「分からないから?」
「理由が分からないのに生き物が一斉に逃げたなら、その理由を確かめるより先に離れた方がいい」
「それで戻った」
「戻ろうとした」
「間に合わなかった」
「ああ」
シキナは責めるでも褒めるでもなく、次の質問へ進んだ。
シキナは、黒い魔獣の高さや甲殻の形、歩き方、攻撃前の動作、追跡時の速度まで細かく尋ねた。ユアンが答えるたび、彼女は短く確認を入れる。
「煙を使ったのは?」
「視覚を潰すため」
「血は?」
「嗅覚」
「両方効かなかった」
「ああ」
「壁越しでも追った」
「ああ」
「魔力探知だと思う?」
「分からない。身体強化を切っても来た。俺自身の魔力を見てた可能性はあるけど、それなら最初の混戦で俺だけを追った理由が分からない」
シキナの目がわずかに細くなった。
「そこまで考えてたんだ」
「逃げながら暇だったからな」
「普通は、死にそうな時に試したことを順番に覚えていない」
「普通じゃなかった状況だからだろ」
「そういうことにしておく」
隣でノアが吹き出した。
「こいつ、死にかけてる時の方が頭回るんだよ」
「余計なこと言うな」
シキナの口元がほんの少し緩んだように見えた。
1時間近く質問が続いた。
シキナは曖昧な箇所を無理に埋めさせようとはしなかった。「見ていない」「分からない」と答えると、それをそのまま記録させる。
最後に彼女が聞いた。
「黒天穿竜だと思う?」
「俺はSS級の識別なんかできない」
「正しい答え」
「期待した答えじゃなかったか?」
「見たことのないものに名前をつける方が危ない」
ユアンは少し驚いた。
名の知られたA級なら、もっと自信を持って断定するものだと勝手に思っていた。
「じゃあ、俺の話は信じるのか?」
「何を?」
「SS級がいたって話」
「いたんでしょ」
「簡単に信じるなよ」
「嘘をつくなら、もっと自分を格好よく話すと思う」
ユアンは言葉に詰まった。
ノアが笑う。
「それはそう」
「お前はどっちの味方だ」
「真実」
事情聴取が終わると、シキナは訓練場へ向かった。
ユアンも依頼を探そうとしたが、ミレナに呼び止められる。
「ユアンさん。今日は灰鐘坑道の外周確認に同行していただきます」
「俺が?」
「坑道内部には入りません。シキナさんが、周囲の地形と入口での状況を直接聞きたいそうです」
「支部長は?」
「許可済みです。ただし、入口から中へ入ることは禁止です」
念を押す声に、ユアンは頷いた。
訓練場の横を通ると、シキナが短刀を抜いていた。
黒い鞘から現れた刃は、一般的な長剣よりかなり短い。
木人へ近づく。
構えらしい構えはなかった。
一歩進む。
刃が一度動いた。
木人の上半分が、少し遅れて滑り落ちた。
「……何した?」
ノアが呟く。
「俺に聞くな」
速かっただけではない。
切断面は不自然なほど真っ直ぐで、木材の節を避け、最も抵抗の少ない線を通っているように見えた。
出発前、バルドは一階まで降りてきた。
受付前で騒いでいた鉱石商が、支部長の姿を見ると声量を落とした。バルドは商人へ怒鳴りもしなければ、謝りもしなかった。
「封鎖は続ける。死人が増えりゃ鉱石どころじゃねえ。補償の話はミレナとしろ」
商人は不満そうな顔をしたが、それ以上は食い下がらなかった。
そのままバルドは調査隊へ視線を向ける。
「中には入るな」
「分かってる」
ユアンが答えると、バルドは脚元を見た。
「医者は何て言った」
「走らなければいいって」
「なら走る状況になった時点で帰れ」
「それ、調査になるか?」
「生きて帰って報告するまでが調査だ」
隣にいた上級斥候が何も言わず頷いた。
バルドはそれ以上ユアンへ言葉をかけず、次に警備班の配置を確認し始めた。
ノアが歩き出してから小声で言う。
「過保護じゃない?」
「全員に同じこと言ってるだろ」
「まあ、お前はそう思っとけ」
「何だよ」
「別に」
午後、ユアン、ノア、シキナ、組合所属の上級斥候二人で灰鐘坑道周辺へ向かった。
入口には警備員と障壁術師が常駐している。
バルドの指示で、坑道から半径一キロ以内には商人も採取人も入れない。普段なら荷車で混み合う道が空いていた。
「大型魔獣が外へ出た形跡はありません」
斥候が報告する。
シキナは地面へしゃがみ、土を指で触った。
「こっちにもない」
「本当に分かるのか?」
ユアンが聞く。
「大きなものが歩けば痕跡は残る」
「穴を掘った可能性は?」
「それなら土が動く」
「飛んだ可能性」
「翼はなかったんでしょ」
「見た限りではな」
シキナは立ち上がった。
「少なくとも普通に外へ出たわけじゃない」
ユアンは坑道入口を見る。
あの夜、黒い魔獣は確かに境界で止まった。
外へ出ようとして弾かれたようには見えなかった。
「怖がってた感じは?」
シキナが聞く。
「ない」
「何かに止められた?」
「見えなかった」
「なら、出られなかったか、出る必要がなかったか」
「もう中にいない可能性もある」
シキナがこちらを見る。
「どうして?」
「俺を追って、普通の坑道じゃない場所まで来た。あの人工区画に別の道があるなら、そこからどこかへ移ったかもしれない」
「人工区画について、報告書には崩落した通路としか書いてなかった」
ユアンは右手を外套の下で軽く握った。
指輪の感触がある。
「逃げるのに必死だった。詳しく見る余裕はなかった」
嘘ではない。
全部でもない。
シキナは数秒ユアンを見たが、それ以上は聞かなかった。
帰路につく頃、夕日がパナリアの城壁を赤く染めていた。
ノアと斥候たちは少し先を歩いている。
シキナが横へ並んだ。
「さっきの報告」
「何だ?」
「あなた、自分が何をしたかほとんど話さないね」
「何もしてない。逃げただけだ」
「煙、囮、崩落、地形の選択までやってる」
「勝ってない」
「勝つことだけが上手さじゃない」
ユアンは返事をしなかった。
25年間、剣が上手いと言われた記憶はない。魔法の才能を褒められたこともない。解体なら評価された。それ以外は、堅実、無難、死ににくいと言われる程度だった。
「よく見てたんだね」
シキナが前を向いたまま言った。
「黒い魔獣だけじゃなくて、周り全部を」
大げさな賞賛ではなかった。
だからこそ、妙に耳に残った。
「……そうか」
「何?」
「いや」
ユアンは右手を見た。
指輪は袖の下に隠れている。
自分には何かが足りないと思っていた。
もしかすると足りなかったのは、考える力ではなく、それを実行するための手札だったのかもしれない。
そんな考えが浮かび、すぐに打ち消した。
一つ力を得ただけで調子に乗るには、あの黒い魔獣との距離はあまりにも遠かった。
それでも、昨日まで見えなかったものが少しだけ見え始めた気がしていた。




