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D級解体士、魔獣の力を喰らう~素材を残すか、力に変えるか~  作者: ふゆ夜熊
逃げ延びたもの

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使える石

エマに3日間は全力で走るなと言われた翌朝、ユアンは日の出前に目を覚ました。

両脚にはまだ鈍い痛みが残っていた。寝台の上で膝を曲げ伸ばしすると、筋肉の奥が引きつるように疼く。《瞬駆》を何度も使った代償だと考えれば軽いのかもしれないが、比較する相手がいないので判断のしようがなかった。

窓の外では、パナリアの屋根が薄青い朝霧に沈んでいる。

ユアンは右手を持ち上げた。

黒ずんだ銀の指輪は、何度見ても古びた輪にしか見えない。昨夜、宿へ戻ってから一度外して机へ置いてみた。すると、《瞬駆》へ触れられる感覚が完全に消えた。もう一度はめれば戻る。

指輪がなければ《瞬駆》は使えない。

それだけは分かった。

「盗まれたら終わりか」

呟いてから、指輪を外套の袖へ隠した。

一階へ降りると、《月灯り亭》の厨房から肉の焼ける匂いが漂っていた。

「起きたのかい」

女将のマルタ・ヘルマンが鍋を片手に振り返った。

55歳の人間で、赤茶色の髪には白いものが混じり、恰幅の良い身体に大きな前掛けをつけている。笑い皺の多い顔は普段なら柔らかいが、今朝はユアンを見るなり眉間に皺が寄った。

「座りな。朝飯を食べるまで外へ出さないよ」

「俺は囚人か」

「坑道から死にかけで帰ってきた奴に自由があると思う?」

「少しくらいはあるだろ」

「ないね」

皿に卵と厚切りの肉が載せられた。

「多くないか」

「怪我人は食べる」

「医者から食事量を倍にしろとは言われてない」

「医者より宿の女将の方が、あんたが普段どれだけ食べてるか知ってるよ」

反論する前に、向かいの椅子へ少年が座った。

ニコ・ヘルマンは12歳で、柔らかな薄茶色の髪と大きな灰色の目を持ち、まだ頬に幼さが残っている。魔獣図鑑を読むのが好きで、ユアンが解体仕事から戻ると、何を倒したのか必ず聞いてくる。

「ユアン兄、SS級見たって本当?」

「誰から聞いた」

「町中」

「早すぎるだろ」

「どんなだった? 翼はあった? 火は吐いた?」

「ニコ」

マルタが低い声を出す。

少年は口を閉じた。

ユアンは少しだけ笑った。

「翼は見なかった。あとは、俺もよく分からない」

「図鑑に載ってるかな」

「朝飯の前にSS級図鑑を開くのはやめろ」

いつもと変わらないやり取りをしていると、灰鐘坑道で感じた冷たさが少し遠くなった。

午前中は宿で休んだ。

昼を過ぎる頃には、じっとしている方が落ち着かなくなっていた。

ユアンは剣を腰へ差し、裏口から外へ出ようとした。

「どこ行くんだい」

厨房からマルタの声が飛んできた。

「散歩」

「エマ先生に走るなって言われてるだろ」

「歩くだけだ」

「信用してないからね」

「俺も自分を信用してない」


南門を出て、農地のさらに外まで一時間ほど歩いた。

パナリア郊外には組合が管理する共同訓練場があり、平日の昼なら利用者も少ない。ユアンは木立に囲まれた端の区画を選んだ。

まずは指輪を調べる。

魔力を流す。

反応はない。

一般的な魔導具なら術式へ魔力を通せば多少の反応がある。それすら起こらなかった。

次に《瞬駆》を意識する。

その瞬間、指輪の奥に奇妙な構造を感じた。

3つの窪みのようなものがある。

その1つだけに《瞬駆》が収まっていた。

残り2つは空いている。

「3つ……」

何を意味するかは分からない。

ユアンは木の幹へ炭で印をつけ、そこから十歩離れた。

昨日のように最大で使う気はない。

右足へ重心を置く。進行方向を決める。

《瞬駆》を発動する。

身体が前へ弾かれた。次の瞬間、印の二歩手前に立っていた。昨日より短い。

「出力を変えられるのか」

脚の痛みも昨日ほどではない。

ユアンは地面へ線を引き、十分に間を空けながら三度試した。

弱く使えば短い。

力を込めれば長い。

発動後に方向を変えるのは難しい。姿勢が悪い状態では着地が崩れる。

そして、使うたびに指輪の中にある何かが減っていく。

ユアン自身の魔力とは別だった。

試しに下級《身体強化》を発動する。自分の腹の奥にある魔力が減った。

次に《瞬駆》を使う。減る場所が違う。

「別の燃料がある」

指輪の中の力は、しばらく休むとごく僅かに戻った。

自分の魔力を指輪へ意識して流してみると、回復が少し早くなった気もする。

ただし、一度試しただけでは断定できない。

ユアンは手帳を取り出した。《瞬駆》は短距離を瞬間的に加速する能力らしい。出力は調整でき、方向は発動前に決める必要がある。連続使用すれば脚へ負担がかかり、発動時には自分の魔力とは別に指輪側の力を消費する。その力は時間経過で回復するようだった。また、《瞬駆》は指輪の中に感じる3つの窪みのうち、1つを占有しているように思えた。

書き終えて、今度は剣を抜いた。

木の幹を敵に見立てる。

剣の間合いより2歩外から《瞬駆》を使ったら、速すぎた。

踏み込みと剣を振る動作が噛み合わず、刃が木肌を浅く撫でただけで身体が横へ抜けた。

「使えば当たるわけじゃないか」

二度目は発動距離を短くした。

剣が届く前に足が止まる。

三度目は発動前から肩を入れた。

刃が木の幹へ深く食い込んだ。

同時に、手首へ強い衝撃が返った。

ユアンは顔をしかめる。

速度を乗せれば攻撃力も上がる。

その分、自分にも反動が来る。

右足を見ると、靴底の端が昨日の逃走で裂けたままだった。縫い直した程度では、次に強く使えばまた剥がれるだろう。

能力だけでは足りない。

身体も装備も、その速度へ合わせる必要がある。

訓練を続けるうちに、もう一つ気づいたことがあった。

《瞬駆》を使う前に、ユアンは必ず着地点を無意識に選んでいる。木の根、湿った土、傾斜、剣を振った後の姿勢まで含めて、どこへ降りれば次の動作につながるかを考えていた。能力が勝手に安全な場所へ運んでくれるわけではない。判断を間違えれば、その速度のまま転倒する。

試しに足場の悪い場所へ向けて弱く発動すると、着地と同時に靴が滑った。ユアンはすぐに身体を捻って転倒を避けたが、右足首へ嫌な負荷がかかった。

「速さより、使う場所の方が大事か」

強い力を得れば楽になると思っていたわけではない。

それでも、力が一つ増えただけで考えることまで増えるとは思わなかった。

奇妙なことに、それを面倒だと思う一方で、嫌ではなかった。

「一個増えただけで面倒だな」

「一人で木に喧嘩売ってる奴が言う台詞じゃないな」

背後から声がして、ユアンは剣を構えかけた。

ノアが立っていた。

「……いつからいた」

「木に2回負けた辺りから」

「帰れ」

「ひどいな」

ノアは笑ったが、すぐにユアンの右手へ視線を向けた。

「それが、昨日言わなかったやつか」

ユアンは黙った。

ノアは問い詰めず、地面へ座った。

「俺、お前の嘘は昔から分かるぞ」

「自慢することじゃない」

「で、何があった」

しばらく迷ってから、ユアンは話した。

黒い魔獣に追われ、古い区画へ逃げ込んだこと。

人骨から指輪を取ったこと。

革袋が破れ、用途不明だった結晶が偶然指輪に触れたこと。

結晶が吸収され、《瞬駆》へ変わったこと。

ノアは途中で口を挟まなかった。

「その透明な石って、お前の《スキル核作成》でできたやつだよな」

「ああ」

「じゃあ、別の魔獣で作ったら?」

「俺も同じことを考えてる」

口にした瞬間、胸の奥が僅かに熱くなった。

16歳で固有スキルが分かった時、ユアンは一度期待した。

珍しい能力なら、自分にも何か特別なものがあるのかもしれないと思った。

数年もすれば期待は消えた。

石を作れば素材を失う。

石は誰にも使えない。

研究所へ渡したものも、結局何の役にも立たなかった。

だから、自分の固有スキルを説明する時は「魔獣を石にして損する能力だ」と笑って済ませるようになった。

それが今になって、一つだけ意味を持った。

「試すのか?」

ノアが聞く。

「まだ分からない」

「嘘つけ」

「何が」

「ちょっと楽しそうだぞ」

「脚が痛い人間の顔だろ」

「そういうことにしとく」

ノアは立ち上がり、ユアンの靴を見る。

「一つだけ約束しろ」

「何だ」

「次に試す時は、死にそうになってからじゃなく、死ななそうな相手でやれ」

「俺もそのつもりだ」

「ならいい」


二人は夕方になる前にパナリアへ戻った。

南門へ向かう途中、討伐帰りの荷車とすれ違った。

荷台にはE級魔獣《夜爪猟犬》が3体積まれている。黒い毛皮は傷が少なく、牙も魔核も売り物になる。

ユアンは無意識に目で追った。

もし、自分が倒した個体なら。

もし《スキル核作成》を使ったら。

また石になるのか。

その石を指輪へ吸収させたら、何が起きるのか。

跳脚兎だけが特別だった可能性もある。

分からない。

だから確かめたい。

ギルドへ寄ると、灰鐘坑道封鎖の告知が掲示板の中央に貼られていた。

その横に、いつもの依頼票が並んでいる。

《夜爪猟犬 西街道周辺にて目撃》

ユアンは手を伸ばしかけた。

右腿が微かに痛んだ。

エマの声が蘇る。

三日は全力で走るな。

「今日はやめとく」

隣のノアが目を丸くした。

「熱でもあるのか?」

「治ってから行く」

「お前が医者の言うことを聞いた」

「俺は元から慎重だ」

「昨日SS級に追われながら古い指輪を拾った奴が?」

「他に選択肢がなかった」

ユアンは依頼票から手を離した。

急ぐ必要はない。

指輪は逃げない。

3日後でも魔獣はいる。

その判断ができる自分であることに、少しだけ安心した。

夜、自室で右手を灯りへかざす。

指輪の奥には3つの窪みがある。

埋まっているのは1つだけだった。

《瞬駆》。

残りは2つある。

ユアンは25歳まで、自分にはもう大きく変わる余地などないと思っていた。

7年傭兵を続けてもD級だった。

剣も魔法も、努力した分だけ伸びたが、その先へ抜けるものはなかった。

それでいいと思っていた。生きていける。食べていける。依頼から帰ってこられる。それで十分だったはずだ。

ユアンは親指で指輪を撫でた。

「……もう一個作ったら、どうなるんだろうな」

返事はない。

銀の表面に刻まれた細い紋様だけが、灯りを受けてかすかに光っていた。

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