生還
パナリアから救援隊が到着したのは、夜がかなり深くなってからだった。
ユアンは灰鐘坑道の入口脇で、背中を岩壁へ預けるようにして座っていた。立ち上がろうとすると両脚が痙攣し、左肩の傷も脈打つように痛んだ。自分の足で外へ出たはずなのに、身体はまだ坑道の中へ置き去りにされたような感覚が残っている。
右手には、黒ずんだ銀色の指輪がはまっていた。
何度見ても、ただの古い指輪にしか見えない。それでも意識を向ければ、《瞬駆》という名と使い方が頭の奥へ浮かんだ。
夢ではない。その証拠に、両脚はまともに立てないほど痛んでいた。
「生存者だ!」
斜面の下から声が響いた。
複数の魔導灯が揺れながら近づいてくる。先頭にいた救援隊員がユアンの姿を見つけると、速度を上げて駆けてきた。
「名前を言えるか」
「ユアン・クロウ。D級の第三探索班だ」
「怪我は?」
「左肩と、あと脚が両方まずい」
「意識ははっきりしているな。先に出た三人から救援要請は受けている。他に残っている者は?」
ユアンは一度だけ坑道の入口を見た。
「途中で分断された。ノア・フェルナーたちは出口側へ向かった。先に出た三人なら、あいつらだ。ケルンは……死んだ」
最後の言葉だけ、喉に引っかかった。
救援隊員は何も言わず頷き、後ろへ指示を飛ばした。
「担架を一つ回せ。坑道内への突入は観測班の確認後だ。勝手に入るな」
「俺は歩ける」
ユアンが岩壁へ手をついて立とうとすると、膝が折れた。
救援隊員が肩を掴む。
「歩ける奴は、今みたいな倒れ方をしない」
「……そうだな」
担架へ乗せられようとした時だった。
坂道の下から聞き慣れた声が飛んできた。
「ユアン!」
顔を上げる。
ノアが救援隊員の間を縫って走ってきた。額には乾きかけた血がこびりつき、丈夫だった布鎧も土と埃で灰色に汚れている。それでも自分の足で走っている。
「生きてたのか!」
「そっちもな」
「馬鹿野郎!」
ノアはユアンの左肩を掴み、ユアンが顔を歪めると慌てて手を離した。
「悪い」
「再会して最初に傷を増やすな」
「お前が一人で残るからだろ!」
「残ったわけじゃない。崩れたんだ」
「同じだ!」
怒鳴ったノアの声が途中で震えた。
ユアンはそれに気づいたが、何も言わなかった。
ノアも黙った。
互いに生きていた。それを喜ぶには、一人足りなかった。
夜明け前になって、救援隊がケルンを運び出した。
白い布で包まれていたが、身体の形が崩れているのは隠しようがなかった。
ノアは何も言わず、その場に立ち尽くした。
ユアンも目を逸らさなかった。
坑道で振り返るなと言ったのは自分だ。
あの時は間違っていなかったと思う。戻ればノアも死んでいた。
だからといって、胸の奥に沈んだものが軽くなるわけではなかった。
「俺、戻ろうとしたんだ」
ノアが低い声で言った。
「知ってる」
「お前に止められた」
「止めた」
「正しかったと思うか?」
ユアンは少し考えた。
「少なくとも、あの時は」
「……そうか」
「正しかったからって、気分が良くなるわけじゃない」
ノアは鼻から長く息を吐いた。
「お前、そういう言い方するよな」
「他に言いようがない」
パナリアへ戻る頃には、空が白み始めていた。
城門が開き、荷車が石畳を鳴らして出入りしている。早朝の市場では魔獣肉を運ぶ商人が声を上げ、これから仕事へ向かう傭兵たちが眠そうな顔でギルドへ歩いていた。
昨日までと同じ朝だった。
そのことが妙にありがたかった。
ユアンは《白鹿診療院》へ運ばれた。
寝台へ座らされてからしばらくすると、黒髪を乱雑に後ろで束ねた女が入ってきた。
エマ・ヴェルナーは32歳の治療術師で、灰色の眠たげな目の下には薄い隈がある。白い治療衣の襟は少し曲がり、整った顔立ちより先に、昨夜もろくに寝ていないのだろうという印象を受けた。
「またあなた?」
「前に来たのは二か月前だ」
「医者の『また』は半年以内を全部含むの」
エマはユアンの左肩を確認し、次に裂けたズボンの裾を切った。
ふくらはぎへ触れた瞬間、眉を寄せる。
「何したの?」
「走った」
「そういう返事をする患者が一番嫌い」
「本当に走っただけだ」
「普通に走って両脚の筋肉が同じ方向に傷む人はいない」
指で押されるたび、筋肉の奥へ鈍い痛みが走る。
「筋繊維がかなり傷んでる。膝と足首も軽く炎症を起こしてる。骨は無事だけど、この状態で無理したら腱までやる」
ユアンは右手を膝の上へ置いた。指輪は外套の袖に半分隠れている。
「治る?」
「治す。でも治ったからって、同じことをしていいわけじゃない」
エマの手から淡い緑色の光が広がった。熱を持っていた筋肉が少しずつ冷え、痛みが遠のいていく。
「3日は全力で走らない。討伐依頼も禁止」
「3日?」
「短いと思ったなら5日にする」
「3日でいい」
「私が決めるの」
診療院の扉が軽く叩かれた。
入ってきたのはギルド受付主任のミレナ・ハースだった。
栗色の長髪を後ろできっちり束ねたエルフで、緑色の瞳と細長い耳を持つ。夜明け直後だというのに紺色の制服には皺一つなく、手には数枚の書類が抱えられていた。
「ユアンさん、支部長から伝言です」
「もう事情聴取?」
「いいえ」
ミレナは書類を閉じた。
「『報告は逃げない。医者が帰していいと言うまで寝てろ』とのことです」
エマが小さく鼻を鳴らした。
「珍しく話が分かるじゃない」
「支部長はいつもそうですよ」
ミレナは当然のことのように答えた。
「ノアさんにも同じ指示が出ています。今日予定されていたお二人の依頼は組合側でキャンセル処理しました。違約金は発生しません」
「そこまでしなくても」
「支部長判断です」
「……分かった」
ミレナは一度だけユアンの顔を見て、それ以上は何も言わず部屋を出た。
昼過ぎ、治癒が一段落したところで、ようやくギルドへ呼ばれた。
《パナリア傭兵・冒険者組合》は朝からいつも以上に騒がしかった。
灰鐘坑道で何かが起きたという話はすでに広まっているらしい。受付前では傭兵たちが声を潜め、採掘関係の商人が封鎖の解除時期を尋ねていた。
二階の支部長室へ入ると、バルド・ガイゼルが机の向こうに座っていた。
52歳の鬼人で、188センチを超える巨体をしている。白髪の混じった黒髪と無精髭、額から伸びる太い一本角、左頬を縦に走る古い爪痕が、その顔をさらに怖く見せていた。机の下にある片脚は義足で、かつてS級傭兵だった頃に失ったものだと聞いている。
ノアが先に椅子へ座っていた。
バルドの隣にはミレナが立っている。
「座れ」
ユアンが腰を下ろす。
机の上には一枚の観測紙が置かれていた。
中央を走る線が途中から急激に跳ね上がり、そのまま記録範囲の上限へ張りついている。
「昨夜、灰鐘坑道の観測器が拾った値だ」
バルドが太い指で紙を叩いた。
「C級でもB級でもねえ。A級の記録にも収まらず、機械が測れる範囲を振り切ってる」
ノアが唾を飲み込む。
「じゃあ、本当にSS級だったのか」
「まだ断定はしねえ。測定値だけならその可能性があるって段階だ」
バルドは古い魔獣図録を開いた。
黒い甲殻と異様に長い四肢を持つ竜種の素描が載っている。
「特徴だけなら《黒天穿竜》に近い。記録が少なすぎるから、今のところは仮称だ」
討伐記録の欄は空白だった。
確認例の横には、遠距離観測や遭遇隊全滅という記述が並んでいる。
「最初から話せ。分からなかったことは、分からなかったと言え」
バルドがユアンを見る。
「格好をつけて穴を埋める必要はねえ」
ユアンは頷いた。
ユアンは、最初に虫や小動物が消え、撤退を決めた直後に黒い魔獣が現れたところから順に話した。ケルンが一撃で殺されたことも、煙幕や血の囮が通じなかったことも、壁越しでも進路を合わせてきたことも隠さなかった。崩落を利用して逃げ、最後には古い人工区画へ入り込んだことまで説明した。
ただし、指輪と《瞬駆》のことだけは伏せた。
「視覚じゃないと思った理由は?」
バルドが聞く。
「煙の中でも迷わなかった。壁を挟んでも追ってきた」
「嗅覚は?」
「血のついた布を別方向へ投げた。無視された」
「魔力を見てた可能性は?」
「分からない。途中で身体強化を切ったけど、それでも来た」
バルドは腕を組んだ。
「出口まで来たんだな?」
「ああ」
「なのに出なかった」
「ああ」
「理由は?」
「分からない」
「それでいい」
短く答えたあと、バルドはミレナを見る。
「灰鐘坑道は継続封鎖。入口から一キロを立入禁止にしろ。採掘業者には組合から補償手続きを回す。王都と迷宮管理局にも緊急報告を上げろ」
「すでに草案はできています」
「早えな」
「支部長が封鎖を解除すると言い出さないことだけ確認したかったので」
バルドが鼻を鳴らした。
その時、扉が叩かれた。
若い受付職員が顔を出す。
「支部長、ケルンさんのご家族が到着されました」
部屋の空気が止まった。
バルドは一度だけ目を閉じた。
「分かった。俺が行く」
「私も同席します」
ミレナが言う。
「頼む」
バルドが立ち上がった。
誰も「支部長が行くのか」とは聞かなかった。
若い受付職員も、そのまま道を開けた。
バルドは扉の前でユアンを見る。
「クロウ」
「はい」
「今日は帰れ」
「まだ報告が」
「必要な分は聞いた」
「でも」
「死んだ奴の顔をずっと頭に置いとくと、次に生きてる奴を見落とす」
ユアンは黙った。
慰めるような声ではなかった。
「忘れろとは言わねえ。今日は飯を食って寝ろ。明日になってから考えろ」
「……分かった」
「それと三日は依頼を受けるな」
「エマから聞いたのか?」
「聞くまでもねえ。まともに歩けてないだろ」
バルドはそれだけ言って部屋を出た。
廊下の向こうで、受付職員たちが自然に道を開ける。誰も急かさない。誰も余計な声をかけない。
その背中が階段の向こうへ消えてから、組合のざわめきが少しずつ戻った。
ユアンは自分の右手を見る。
袖の下に銀色の指輪がある。
ケルンは死んだ。自分は生きた。
この指輪がなければ、自分も白い布の下にいた。
その事実だけは間違いなかった。
だからこそ、今は誰にも見せる気になれなかった。
何なのかも分からない。なぜ自分の作った石を吸収したのかも分からない。
そして、自分が生き残ったことを喜ぶには、まだ少し早い気がした。
ユアンは椅子から立ち上がった。
脚に痛みは残っている。
それでも今度は、倒れずに歩けた。




