走れ
灰鐘坑道の第七層は、いつ来ても湿った鉄の匂いがした。
岩肌を伝う地下水が細い筋を作り、足元の砂利を黒く濡らしている。天井へ打ち込まれた簡易魔導灯の青白い光は十歩先まで届かず、その向こうは灰色の闇へ沈んでいた。
ユアン・クロウは剣の柄へ右手を添えたまま、先頭を歩く斥候の背中を見ていた。
ユアンは25歳だった。灰褐色の短髪は汗と湿気で額へ張りつき、くすんだ青灰色の目は眠たげに見える。右眉の近くには古い傷が一本あり、革鎧の上には急所だけを守る薄い鉄板を縫いつけている。7年も傭兵を続けている割に、装備も顔立ちも人目を引くところがない。
組合の認識票に刻まれている階級はD級だった。ただし、D級に上がってからは長い。下の階級なら安定してこなし、上を目指せば届きそうで届かない。剣術も身体強化も探索技術も平均より少し上で、解体だけなら同格より明らかに上手い。それでも戦闘で決定的なものが足りなかった。
「止まれ」
ユアンが声を落とすと、前を歩いていた男が振り返った。
「どうした?」
「右の割れ目が新しい」
斥候のケルンが魔導灯を向けた。32歳の人間で、短く刈った焦茶色の髪と日に焼けた細い顔を持ち、軽い革鎧の上から斥候用の小袋をいくつも吊っている。口数は少ないが足場を見る目は確かで、ユアンも何度か同じ依頼をこなしていた。
岩壁の途中に細い亀裂が走り、その縁には白い岩粉が残っている。古い割れ目なら湿気で色が変わっているはずだった。
「何か通ったか」
「たぶんな。大きさは分からない」
ユアンの隣で、大柄な青年が丸盾を少し持ち上げた。
ノア・フェルナーは26歳で、赤茶色の短髪に太い眉、少し垂れた茶色の目を持っている。肩幅が広く、布鎧の上からでも頑丈さが分かった。整った顔とは言い難いが、人の良さが隠れない顔をしている。
「また当てたのか。お前、本当に嫌なものを見つけるのだけは早いよな」
「褒めるなら最後まで褒めろ」
「剣は普通、魔法も普通、足も普通だけどな」
「70点を6つ取れば420点になる」
「そういう計算をするから華がないんだよ」
「百点取ろうとして死ぬよりましだろ」
ノアが笑った直後、割れ目の奥から低い唸り声が響いた。
「来るぞ」
ユアンが一歩下がるのと、黒褐色の巨体が岩壁の隙間から飛び出すのはほぼ同時だった。
D級魔獣の岩殻猪だった。肩から背中まで石質の外皮に覆われ、正面から受ければ成人男性でも壁まで弾き飛ばされる。
「右へ寄せろ!」
ノアが盾を前へ出し、薄青い障壁を展開した。
岩殻猪が突進する。
ユアンは右へ走りながら短剣を投げた。刃ではなく柄を岩壁へ当て、乾いた音を鳴らす。魔獣の鼻先がわずかに振れた。
その一瞬でケルンが左へ抜け、もう一人の前衛が槍を構えた。
岩殻猪がノアの障壁へ激突し、青い膜が大きくたわむ。
「今だ!」
槍が脇腹へ刺さる。
ユアンも下級の身体強化を脚へ回し、石質の薄い後肢の付け根へ剣を叩き込んだ。刃は深く入ったが、致命傷には届かない。
岩殻猪が暴れ、ユアンは無理に追わず後退した。
最後は槍使いが喉を貫いた。
巨体が砂利を巻き上げて倒れる。
「やっぱり70点だな」
ノアが息を整えながら言った。
「何がだ」
「さっきの一手は良かった。でも最後を取るのは別の奴だ」
「報酬が減るわけじゃない」
「そういうところだぞ」
ユアンは答えず、岩殻猪の脚へしゃがみ込んだ。
腱の位置、関節の入り方、石質外皮の厚みを指で確かめる。戦闘では目立たないが、解体になると彼の手つきは迷わない。どこへ刃を入れれば素材を傷めず、短時間で分けられるかが頭の中で組み上がる。
今日は現地解体の依頼ではないので、状態だけ確認して立ち上がった。
しばらく進んだところで休憩になった。
ユアンは岩へ腰を下ろし、革袋から干し肉と水筒を取り出した。その底で、親指の爪ほどの透明な結晶が魔導灯を反射した。
ノアが横から覗き込む。
「まだ持ってるのか、それ」
「邪魔にはならない」
「売れない、使えない、食えない。見事に役に立たないな」
「盗まれる心配もない」
「それは長所なのか?」
ユアンは結晶を指で摘まんだ。
前日、街道近くで仕留めたE級魔獣の跳脚兎から作ったものだった。
ユアンには《スキル核作成》という固有スキルがある。自分が倒した魔獣の死体へ使うと、死体が消えて小さな結晶だけが残る。
初めて発現した時は期待した。珍しい固有スキルなのだから、何か大きな意味があると思った。
現実は違った。核を鑑定へ出しても用途不明だった。魔導具職人も研究者も扱えず、作れば魔獣の肉も皮も魔核も消える。何度か試すうちに、素材代だけが消えていった。
だから今ではほとんど使っていない。
「何でそれだけ残したんだっけ」
「跳脚兎は素材価値が低かったから、久しぶりに試した」
「結果は?」
「見れば分かるだろ」
「夢がないなあ」
「夢で宿代は払えない」
ユアンは結晶を革袋へ戻した。
休憩を終え、探索隊はさらに下へ進んだ。
異変に気づいたのは、それから30分ほど後だった。
「止まれ」
今度の声は、自分でも分かるほど低かった。
ケルンが振り返る。
「また何かあるのか?」
ユアンは答えず、耳を澄ませた。
地下水が落ちる音がする。靴底が砂を踏む音もする。仲間の呼吸も聞こえる。
それ以外が何もない。
「虫がいない」
ノアが眉を寄せた。
「虫?」
「さっきまで洞蟲が鳴いてた。灯殻蛾もいない。岩鼠の気配も消えた」
ケルンが灯りを上げる。魔導灯へ寄っていた小虫までいなくなっていた。
ユアンは首筋に浮いた冷たい汗を拭った。
「戻るぞ」
槍使いが怪訝な顔をする。
「まだ予定の半分だぞ」
「だから戻る」
「理由は?」
「分からない」
ユアンは即答した。
「分からないから戻る」
一瞬、誰も動かなかった。
その時、坑道の奥で何かが動いた。
岩が崩れた音ではない。硬いもの同士を、ゆっくり擦り合わせたような低い音だった。
暗闇の中で二つの光が開いた。
目だと理解するまで、一拍遅れた。
大きすぎた。
黒い甲殻に覆われた頭部が闇から滑り出す。細長い首の後ろに異様に長い胴が続き、四肢には節状の装甲が重なっていた。巨体なのに、足音がほとんどしない。
探索隊の魔術師が震える手で測定具を向けた。
針が一気に跳ね上がり、そのまま上限へぶつかった。
「……SS級なのか」
誰かが掠れた声を出した。
ユアンは剣を抜かなかった。
「走れ!」
全員が反転した。
黒い魔獣が首をわずかに傾けた。
次の瞬間、空気が破裂した。
最後尾のケルンが展開した防護符ごと横へ吹き飛んだ。壁へ叩きつけられた身体が、不自然な角度で折れる。
ノアの足が止まりかけた。
「ケルン!」
ユアンはノアの腕を掴んだ。
「見るな! 走れ!」
「でも!」
「もう助からない!」
口にした瞬間、胸の奥が焼けた。それでも止まれない。
ノアが歯を食いしばり、後方へ障壁を張る。
黒い爪が青い障壁へ触れた。それだけで蜘蛛の巣のような亀裂が走った。
「もたない!」
「次の分岐で散れ!」
ユアンが叫ぶ。
黒い魔獣が前脚を振り下ろした。
坑道全体が揺れた。天井から岩塊が落ち、砂煙が視界を埋める。
ユアンはノアを突き飛ばし、自分は反対側へ転がった。
轟音の向こうからノアの声がする。
「ユアン!」
「そっちへ行け! 出口へ戻れ!」
「お前は!」
「あとで会う!」
自分でも嘘だと思った。
低い唸り声が近づいていた。黒い魔獣はこちら側にいる。
ユアンは走った。
煙玉を投げる。白煙が通路を満たす。曲がり角で自分の腕を浅く切り、血を染み込ませた布を別方向へ投げる。
それでも魔獣は迷わない。
「目じゃない」
壁を一枚挟んだ通路へ移っても、追跡方向が変わる。
「鼻でもない」
血の囮も無視した。
ユアンは古い支柱へ投げ斧を叩き込み、崩落を起こした。
石が通路を塞ぐ。
数秒後、黒い爪が岩壁ごと貫いた。
「冗談だろ」
飛んできた破片が左肩を裂いた。血が流れる。
もう出口の方向すら分からなくなった。
それでも、勝つ方法は考えなかった。あと十秒生きる方法だけを考えた。
辿り着いた先は行き止まりだった。
ユアンは荒い息を吐きながら振り返る。剣は欠け、左肩は血に濡れ、身体強化へ回せる魔力もほとんど残っていない。
闇の奥から黒い魔獣が現れる。
「……どうする」
答えは出ない。
黒い前脚が持ち上がる。
ユアンは横へ飛んだ。
爪が岩壁を穿った。
背後で、それまでとは違う崩壊音が響いた。
振り向くと、砕けた岩壁の奥に、白と黒の滑らかな石で組まれた細い通路が露出していた。
灰鐘坑道の粗い岩肌とは明らかに違う。
ユアンは考える前に飛び込んだ。
細い通路の先に、小さな円形室があった。壁には見たことのない文字が刻まれ、中央には古びた人骨が座るように倒れている。
右手の指に、黒ずんだ銀色の指輪がはまっていた。
出口はない。
後方で壁が軋む。
「これだけかよ」
藁にもすがる気持ちでユアンは人骨の指から輪を抜き、自分の右手へはめた。
直後、黒い魔獣の攻撃が通路を揺らした。
その強い衝撃で腰の革袋の中にあった透明な結晶が床へ転がった。
ユアンは反射的に結晶を掴む。
光が弾けた。
結晶が手の中で溶けるように消え、指輪へ吸い込まれた。黒ずんだ表面に細い紋様が走り、熱が指から腕へ上がる。
同時に、《瞬駆》という名と使い方が頭へ流れ込んだ。
名前を教えられたというより、身体が使い方を思い出したような感覚だった。
黒い爪が壁を破る。
ユアンは右足へ力を込めた。
世界が横へ流れた。
次の瞬間、数メートル離れた壁際へ立っていた。直前までいた場所が爪で砕ける。
「……速い」
両脚に熱い痛みが走った。
一度で分かった。距離は短い。方向は発動前に決める。連続使用は危険だ。
黒い魔獣が首を向けた。
ユアンは息を吐いた。
「勝てるわけないよな」
だったら、やることは一つしかない。
ユアンは古代区画を走った。崩れかけた天井、細い支柱、黒い魔獣の巨体を見比べる。
狭い通路へ入る。
爪が迫る。
ぎりぎりまで待つ。
《瞬駆》を発動した。
身体が前へ弾かれ、黒い爪が古い支柱を叩き折った。
天井が落ちる。瓦礫が巨体を覆う。
死ぬはずがない。数十秒でも止まれば十分だった。
ユアンは走った。
脚が攣りそうになる。息が焼ける。二度目の《瞬駆》で膝が軋み、三度目には靴底が半分剥がれた。
それでも前へ進む。
やがて見覚えのある灰色の岩壁が戻ってきた。冷たい夜気が流れ込んでいる。
出口まで戻ってきた。
最後の《瞬駆》で外へ飛び出した。
湿った地面へ転がり、両手をつく。吐き気と痛みで立てない。
それでも振り返った。
坑道入口の闇の中に、二つの光が浮かんでいる。
追いつかれていた。
黒い魔獣は境界の直前で止まっていた。外へ出てこない。
しばらくユアンを見つめたあと、ゆっくりと闇の奥へ下がっていく。
「……何なんだよ、お前」
返事はない。
やがて二つの光も消えた。
ユアンは震える右手を持ち上げた。
黒ずんだ銀色の指輪に刻まれた細い紋様が、一つだけ淡く灯っていた。




