旅支度
黒鉄工房の奥から、金属を削る音が聞こえてきた。ユアンが扉を開けると、ゴードンは振り向く前に言った。
「靴なら昨日見たぞ」
「今日はそれだけじゃない」
「なら何だ」
「野外へ持っていく道具を相談したい」
ようやくゴードンが顔を上げた。炉の赤い光がごつごつした手を照らしている。近くの作業台ではリオが小さな留め金を磨き、厚みの違う革紐を並べていた。
「例年なら試験で行くのは灰石峡谷周辺だろ。雨なら粘土質の土が滑る。靴底の溝は詰まりやすいから、小さな掻き棒を持っていけ」
ゴードンは言いながら、棚から細い金属片を取った。
「そんなものまであるのか」
「帰ってきた傭兵が文句を言うたびに増えた」
ユアンは苦笑した。装備の工夫は戦う時だけのものではない。歩く、休む、雨を避ける。そうした細かな部分が、長い任務の最後に効いてくるのだろう。
新しい戦闘靴を脱ぎ、ゴードンへ渡す。職人は腱の補強帯を指で引き、踵の擦れを確かめた。右足の外側だけ少し摩耗している。
「止まる時、こっちへ荷重が残ってるな」
「ガルドに直せと言われた」
「その通りだ。ただ、革の縫い目は持ちそうだ」
リオが靴を受け取り、留め具の内側へ薄い当て革を追加した。足首の当たり方が少し変わり、歩くと痛みが減る。
「実地試験だからって新しいものを詰め込みすぎないでください」
リオが言う。
「何か変わると、何が悪かったか分からなくなりますから」
「分かった。予備の紐を頼む」
「それなら2本渡します」
リオは手際よく革紐を束ねた。
左前腕甲も点検した。甲殻に割れはなく、内側の絶縁材も剥がれていない。ゴードンが角度を変えて木の棒を当てると、棒は縁を滑って外れた。衝撃はまだ腕へ来る。防具を着けたからといって、自分の骨まで硬くなるわけではない。
「これを使って安心して突っ込むなよ」
「分かってる」
「聞き飽きた返事だ」
ユアンは言い返せなかった。
作業台の端には、小さな《黒晶導子》が置かれていた。試作の金属環の中へ黒晶片が収まり、取り外せる仕組みになっている。リオが絶縁板を重ねた部分を示した。
「前回より通路を調整しました。でも、強い魔力を流して確認するのはまだ危険です」
「野外へ持っていくのはやめた方がいい?」
「試験で必要になる可能性はありますけど、未確認の部品を頼りにするのは勧めません」
ユアンは頷いた。道具を試すために試験を受けるわけではない。使い慣れた剣だけでできることを確かめた方がよい。
午後にフィアが来た。明るい栗色の髪を揺らし、片手に薄い記録帳を持っている。彼女は挨拶より先にユアンの脚へ目を向けた。
「痛みは?」
「ほとんどない」
「『ほとんど』って何?」
「朝起きた時に少し張るくらい」
「じゃあ無理はしない」
「皆そればかり言う」
「言わせる方が悪いの」
フィアは工房の試験台へ《黒晶導子》を置いた。ゴードンとリオには通常の魔力を使った素材検査を手伝ってもらい、ユアンの特殊な能力の出所については触れない。フィアがごく弱い雷魔力を通すと、黒晶の内部へ細い光が走った。以前より流れは安定しているが、一定以上の入力ではわずかに乱れる。
「弱い分には使えそう。でも、出力を上げると一気にひびが広がる可能性があるわ」
「やっぱり試験には向かないか」
「少なくとも今はね。強くなる部品じゃないんだから、急ぐ理由もないでしょ」
ユアンは黒晶を見た。B級の魔獣から得た貴重な素材だから、すぐ使えるようにしたい気持ちはある。けれど自分が危険を増やしてまで急げば、素材を分けてくれた仲間や、時間をかけて加工した職人に申し訳ない。
「今回は置いていくよ」
「それがいい」
フィアは素直に頷き、試験台の電源を落とした。
工房を出る前に、ユアンはフィアと少し離れた路地を歩いた。人通りが少ないのを確かめてから、黒銀色の指輪へ触れる。
「3つの枠は、野外ではどうするのがいいと思う?」
「それを私に聞くの?」
「電気は使わない方がいいかな」
「状況次第。でも身体の中へ流すつもりなら止める」
フィアはきっぱり言った。
「実地試験なら、仲間の近くで危険なことを試さないで。自分だけの怪我で済まないから」
ユアンは頷く。今の枠を何にするかは、出発前に自分で決める。急いで切り替えれば隙ができる。ルゥと共有していることも含め、使う場面を間違えたくない。
「ありがとう」
「別に。帰ってきたらまた検査しましょう」
フィアは笑い、組合へ向かった。
ユアンが工房から組合へ向かう途中、路地の外れでは荷車の車輪を直す男たちが汗を流していた。魔獣流出の際に壊れた荷台らしく、板の一部が新しい木へ取り替えられている。車輪を持ち上げる人間が足りず、作業は止まっていた。
「ちょっと手を貸そうか」
声をかけると、荷車の主は驚いたように顔を上げた。
「いいのかい? 重いぞ」
「持ち上げるだけなら」
ユアンは片側を支え、男たちが軸を通すのを手伝った。無理に引き上げると右脚へ負担が来るので、膝を曲げて身体全体で押す。新しい靴が足元を支えた。作業は短く済み、荷車の主は礼として干し果物の袋を渡そうとした。
「そこまでしてないよ」
「働いたんだから受け取ってくれ」
ユアンは少し迷い、半分だけ受け取った。男は笑い、残りを自分の荷台へ戻した。
「まだ街道は怖いけど、荷物を運ばないと皆困るからね」
そう言われて、ユアンは荷車の新しい板を見た。自分たちは危険な魔獣と戦い、戻ってきた。それでもその後には、車輪を直す人、食料を運ぶ人、道を歩けるようにする人がいる。危険が消えたわけではなく、仕事が少しずつ重なって暮らしが戻ってくる。
ルゥは干し果物へ鼻を寄せ、すぐ興味を失った。
「肉ではないのか」
「皆がお前みたいに肉ばかり食べるわけじゃない」
「それは惜しいことだ」
ユアンは袋を鞄へしまい、組合へ向かった。自分がC級になりたいと思ったのも、結局こういう日常へ戻すためかもしれない。戦闘で目立つことより、荷車をまた動かせるようにする方が、役に立つ場面もある。
その後、ユアンは試験班の打ち合わせへ出た。組合の空いた小部屋にロイド、ミレイ、バシュが集まり、机へ地図と補給の一覧を広げている。担当職員から示された巡回区域には、谷を横切る連絡路と観測地点が記されていた。正確な任務の優先順位や当日の状況は現地で告げられるという。
バシュがすぐに荷物の配分表を作り始めた。
「水と食料は個人分を確保して、共通の道具を分担したい。重いものをロイドへ押しつけるのは避けたいが、体格差は考えた方がいい」
「俺は重いものを持てるぞ」
ロイドが言う。
「持てることと、何日も持つことは違う」
バシュが返した。
「道が崩れれば、荷物を抱えて跳ぶこともある。そこで疲れていたら困る」
ユアンは2人のやり取りを聞きながら、自分なら単独行の荷物を軽くすることばかり考えるだろうと思った。班で動くなら、全体の重さも考える必要がある。
ミレイは水場の位置と日陰の少ない区間を示した。
「ここの川は雨が降ると濁ります。下流の水をそのまま飲むのは避けた方がいいです」
「だから水を減らせないのか」
ユアンが言うと、彼女は頷く。
「そうです。あと夜は谷風が強くなる場所があるので、野営地は低すぎないところがいいと思います」
「具体的には?」
バシュが聞いた。
ミレイは地図へ指を置き、風が通り抜ける位置を説明した。自分ではそこまで読めなかったとユアンは思う。
「解体道具は持っていくのか?」
ロイドが尋ねた。
「小さいものだけ。試料を取るなら必要だと思うけど、全部持つと重い」
「なら採集が必要になったら頼む」
「分かった。ただし何を採っていいかは契約を見てからだ」
ロイドは大きく頷いた。勝手に素材を売る話にならないのがありがたい。
打ち合わせの途中、バシュが地図へ細い線を引いた。
「予定通りなら、ここの橋を使うのが1番早い」
「崩れてたら?」
ユアンが聞く。
「その場合は下流へ迂回する」
「下流が増水してたら?」
「……上流を調べる」
バシュは答えたが、考える時間が少し長かった。ユアンも他人のことを言えない。自分の頭の中に正しい経路があっても、道がなくなれば選び直さなければならない。
「全部決めるのは無理だな」
ロイドが笑った。
「なら、何を先に確かめるか決めよう」
ミレイが提案した。
4人で情報を出し合うと、地図の上には危険な箇所と代わりの道が少しずつ増えていった。ユアンは途中から、相手が何を知っているかを先に聞くよう意識した。自分の答えを出すより、そちらの方が早いこともある。
夕方、赤鹿亭へ戻ると、ノアが食卓に地図を広げていた。自分が所属する別の依頼の準備らしい。
「荷物、決まったか?」
「ああ。水の量でもめた」
「減らしたかったのお前だろ」
「何で分かるんだ」
「7年付き合ってるからな」
ノアは笑い、ユアンの鞄を指で持ち上げた。
「重すぎないか?」
「前より少し重い。でも分担した」
「なら大丈夫そうだ」
それだけで話を終わらせないのがノアだった。包帯の取り出しやすさ、薬の置き場所、寝る前に靴を乾かす方法まで、細かなことを教えてくれる。
「お前が隊長の時も、皆に同じことしてたのか?」
「そりゃそうだ。強い仲間でも、靴擦れで歩けなくなったら帰れないだろ」
ノアは当たり前のように言った。
ユアンは鞄の口を閉じた。自分は能力を増やすことに夢中だった時期がある。けれど、皆を連れ帰るために必要なのは、珍しい技だけではない。水と包帯、乾いた靴、眠れる時間、そして互いの状態を確かめる言葉なのだろう。
ルゥが鞄へ鼻を近づけた。
「肉はどこに入れた?」
「お前の分は別」
「抜かりないな」
「お前が1番うるさいからな」
ユアンは笑い、出発用の荷物を部屋へ運んだ。試験が終われば、また工房へ寄ろう。今度は新しい装備を増やすためではなく、使った道具が無事だったか確かめるために。




