出発前夜
灰石峡谷の地図を見ていると、紙の上の細い線が急に頼りなく思えた。谷の入口へ至る街道は太く描かれ、途中からいくつもの細道へ分かれている。地図には橋や水場も記されていたが、それらが今も使えるとは限らない。
ユアンは組合の小部屋で、サイルの説明を聞いていた。窓際にはロイド、ミレイ、バシュが並び、卓上の任務書へ目を向けている。
「野外での実地試験は、指定区域の巡回と観測地点の確認だ」
サイルは地図の上へ指を置いた。
「魔獣の動向、街道の安全、必要な標本を記録して戻ってこい。出発から帰還までの行動を見る。隊長は交代制とし、誰がどこで指揮を執るかは現地で告げる」
「魔獣討伐の数は評価されますか?」
ロイドが尋ねる。
「必要な対処であればな。依頼にない戦闘を増やして喜ぶつもりはない」
「了解しました」
「俺は安全監督として同行する。ただし普段は助言しない。生命の危険が差し迫れば介入するが、その時に何を判断したかは記録する。救助や撤退を必要とするなら、任務目標より優先しろ」
ユアンは頷いた。危険を恐れて何もしなければ任務は終わらない。しかし、試料を得るために仲間の命を賭けるような仕事でもない。何を残し、何を持ち帰るか。その判断まで見られるのだろう。
バシュが質問した。
「補給地点での物資の受け取りは、契約上どこまで許されますか」
「任務書に定めた範囲だ。追加で必要になれば記録して申請しろ。無断で徴発するな」
「承知しました」
ミレイは地図を指した。
「この谷筋の観測地点は、増水すると道がなくなります。現地で通れない場合は?」
「通れない理由と代替案を記録しろ。無理に踏み込めとは言わん」
サイルの回答は明快だったが、答えを先に教えてくれるわけではない。ユアンは自分の手帳へ、分からないことを現地でどう確かめるか書き足した。
説明が終わると、4人は組合の中庭で持ち物を照合した。バシュの準備表は細かく、ロイドが肩をすくめる。
「俺の槍が2本になってるぞ」
「予備の柄のことだ。交換部品も装備として数える」
「なるほどな」
ミレイは自分の弓弦を確かめ、雨に備えた油布を見せた。ユアンは解体用の短い刃物と採集瓶、危険部位を触るための手袋を出した。ルゥは当然のように食料袋へ鼻を入れようとした。
「お前の分は別だ」
「確認していただけだ」
「その台詞、毎回聞いてる」
ロイドが笑った。
一通り終わると、ユアンは3人へ向き直った。
「俺のこと、何か知りたいことはある?」
ロイドが不思議そうな顔をする。
「いきなりどうした」
「野外で同じ班になるから。俺が何をできると思われてるのか、確認したくて」
ミレイが少し考えた。
「短い身体加速を使えることは知っています。周囲を察知するのも得意なんですよね」
「得意な場面はある。ただ、何でも分かるわけじゃない。足跡や魔獣の種類は調べられるけど、森の地形はミレイほど詳しくない」
「それなら、地形は私が見ます」
ロイドが言う。
「近距離で何体くらい止められる?」
「相手次第だ。D級の獣型ならやりようはあるけど、C級を複数相手にするのは無理だ」
「正直でいいな」
「嘘をつく理由がないから」
バシュが頷いた。
「なら、初めに誰が何を担当するか整理しやすい」
ユアンは少し安心した。自分ができることを、強く見せようとしなくても話は進む。むしろできないことを伝えた方が、相手がどう補えるか考えられる。
昼過ぎ、組合を出ると、ルゥが足元で伸びをした。
「俺の能力も伝えなくてよいのか」
「お前が見張りを手伝えることは申告してるよ」
「もっと褒めてもよかろう」
「昨日も褒めた」
「足りん」
ユアンは笑いながら街の坂道を下った。午後は予定を空けてある。装備は揃い、荷物の分担も決まった。今から新しい訓練を詰め込むより、身体を休ませる方がよいだろう。
赤鹿亭へ戻る前に、ユアンは市場の端でシキナを見つけた。黒い髪を顎の近くで揺らし、灰黒色の目で果物を選んでいる。黒い軽装の上から薄い外套を羽織っており、いつもの短刀《暮断》は腰に収まっていた。
「珍しいな、買い物?」
ユアンが声をかけると、シキナは顔を上げた。
「遠征の帰り。甘いものが食べたくて」
「シキナでもそういう気分になるんだ」
「私を何だと思ってるの」
言われてみれば失礼だった。ユアンが謝ると、シキナは小さく笑った。店主から果物を2つ受け取り、そのうち1つをユアンへ差し出す。
「食べる?」
「いいのか」
「ええ」
手に取った果物は少し温かく、皮からほのかに香りがした。ルゥが鼻を寄せたが、肉でないと分かると興味を失った。
2人は人通りの少ない道へ出て、並んで歩いた。試験のことを聞かれると思っていたが、シキナはしばらく街路樹の影を見ているだけだった。
「明日から灰石峡谷?」
やがて彼女が言った。
「ああ。数日間の巡回らしい」
「ロイドたちと?」
「そう。昨日、一緒に飯を食った」
「どうだった?」
「面白いやつらだよ。ロイドは槍が強いし、ミレイは索敵がうまい。バシュは装備と準備が細かい」
「ユアンは?」
「俺は……解体と魔獣のことなら任せてもらえると思う」
口に出してから、少しだけ照れた。シキナは当たり前のように頷く。
「それでいいんじゃない」
「もっと格好いい答えがあると思った?」
「別に」
シキナは果物を少し食べ、横目でユアンを見た。
「無理に皆と同じことをしなくても、得意なことがあるなら」
「そうだな。でも隊長になった時は、自分のことだけ考えてられない」
「それはそうね」
簡単に同意されて、ユアンは思わず笑った。
「もう少し励ましてくれてもいいだろ」
「励ましてほしいの?」
「少しは」
シキナは少し考えた後、言った。
「戻ってきたら、話を聞かせて」
ユアンは足を止めかけた。戦う前に勝つと言われるより、帰ってからの約束をされる方が、不思議と心に残った。
「分かった。ちゃんと帰る」
「ええ」
それ以上の言葉はなかった。けれど、隣を歩く距離は少し近くなった気がする。
街路樹の下には小さな露店が並び、旅人向けの紐や香油を売っていた。シキナは古い地図を広げた店の前で足を止める。灰石峡谷の線が描かれているのを見つけ、ユアンも覗き込んだ。
「このあたり、昔は雨が多い時期に通行止めになったそうね」
「知ってるのか?」
「以前、別の依頼で近くまで行ったことがある。谷の奥までは入っていないけど」
シキナは地図の細い川を指した。
「石は硬いのに、上に乗った土が流れやすい場所がある。晴れていても、前の日に雨が降ったら気をつけて」
「覚えておく。でも、試験官にも確認した方がいいな」
「そうね。古い地図だけでは分からないから」
彼女は地図を元の位置へ戻した。ユアンはその何気ない動作を見て、シキナが自分を守るために何でも教えてくれるわけではないと分かった。危険の存在は伝えるが、最後に判断するのはユアン自身だ。
「心配してくれてる?」
ユアンが聞くと、シキナは少しだけ目を細めた。
「心配しない方がいい?」
「いや。ありがたい」
短く答えると、彼女はまた歩き出した。ユアンは果物をひと口食べる。少し酸っぱく、喉に残る甘さがあった。こうして並んで歩く時間は、戦場で背中を預ける時とは違う静けさがある。彼女が無事に戻ってきたことも、自分が明日帰ってくるつもりでいることも、今は特別なことのように思えた。
赤鹿亭へ着く頃には空が赤く染まっていた。ノアが食堂で書類を広げ、別の依頼の記録を整理している。ユアンが席へ着くと、ノアは顔を上げた。
「準備はできたか?」
「一応。ロイドたちとも話した」
「なら大丈夫そうだな」
「そんな簡単に言うか?」
「俺が一緒に行けない以上、お前が自分で確かめるしかないだろ」
ノアは書類を閉じた。
「1つだけ。隊長になったからって、全部自分でやろうとするな」
「分かってる」
「分かってても、やりそうだから言ってる」
ユアンは反論できなかった。ノアと長く組んできたせいか、何を考えているかすぐ見抜かれる。
夕食には女将が温かい煮込みとパンを出した。ルゥは明日から肉が減る可能性を気にしていたが、旅の食料に干し肉が十分あると伝えると機嫌を直した。ノアがいつものように冗談を言い、ユアンも笑って返す。宿の小さな食堂が、今夜はいつもより落ち着く場所に感じられた。
部屋へ戻ると、ユアンは鞄を開き、最後の確認をした。書類、包帯、採集具、雨具、食料。指輪へ触れ、使える状態の能力も確かめる。《瞬駆》《振動感知》《硬化》。野外では敵を倒すことより、危険を早く察し、避け、必要な時だけ踏み込める組み合わせの方が合う。切り替えには時間がかかるし、ルゥとも同じ能力を同時には使えない。事前に決めておく意味は大きかった。
「明日は俺が先に危険を見つける」
寝台からルゥが言った。
「頼む。でも勝手に走るなよ」
「分かっている」
「本当に?」
「お前も勝手に走るな」
言い返され、ユアンは笑った。相棒の言う通りだった。自分が先へ飛び出す癖を直さなければ、誰かへ指示しても説得力がない。
荷物を閉じると、窓の外から街の夜の音が聞こえた。明日、灰石峡谷へ向かう。自分がC級として人を率いる資格があるかどうか、その答えはまだ出ていない。だが、ひとつだけ決めていることがあった。
勝つためだけに仲間を連れていくのではない。4人で出るなら、4人で戻る。そのために何を選べるかを、現場で確かめたい。
ユアンは灯りを消し、枕へ頭を預けた。ルゥの静かな寝息が足元から聞こえる。眠りにつく直前、シキナの「戻ってきたら、話を聞かせて」という声を思い出した。帰る場所がある。それだけで、明日へ向かう足取りを少しだけ軽くできそうだった。




