槍
訓練場の柵の外から、乾いた木の音が続いていた。ユアンは防具の留め具を締め直し、右脚へゆっくり体重をかける。昨日の基礎審査では痛みが出なかった。だが相手が動くとなれば、止まる場所を自分だけで決められない。新しい戦闘靴は足首を支えてくれるが、動きそのものを代わりに考えてはくれなかった。
「そんなに睨むなよ」
ロイドが声をかけた。短い金茶色の髪を揺らし、穂先を柔らかな模擬刃へ付け替えた長槍を回している。ユアンより肩幅が広く、立っているだけで重心が安定して見えた。
「お前を睨んでるんじゃない。槍を見てる」
「同じようなもんだろ」
「違う。槍には勝てる気がしない」
「正直だな」
ロイドは大きく笑った。嫌味のない笑い方だったが、だからといって手加減してくれるようには思えない。
サイルが2人を呼び、木剣と槍、胸当て、肩の防護具を確認した。訓練武器には衝撃を弱める処理があり、有効打は部位と姿勢から判定される。勝敗だけでなく、間合い、武器操作、危険な追撃をしないことも見られると説明された。
「加速を使う場合は申告した強度までだ。相手の頭部を狙うな。中止を命じたら即座に止まれ」
「はい」
ルゥは柵の向こうで伏せていた。銀灰色の尾が不満そうに揺れている。
「俺が出ればすぐに終わるぞ」
「俺の試験だから」
「分かっている。負けたら肉を減らすなよ」
「関係あるか?」
ルゥは答えなかった。
「始め」
サイルの声とともに、槍先がまっすぐ伸びた。ユアンは左へ半歩ずれて剣で払う。しかし穂先はすでに引かれ、次の突きが胸の高さへ来ていた。身体をひねると、今度は柄が足元へ落ちてくる。
「くっ」
ユアンは跳ねるように後ろへ下がった。ロイドは深追いせず、腕の伸びきらない位置に槍を戻している。突き、引き、払う。どれも見慣れた動作のはずなのに、切れ目が見つからない。
槍使いの懐へ入るには、穂先の戻りに合わせて踏み込むのが基本だ。だがロイドは、引く途中で柄を短く持ち替え、距離が縮まっても防御の形を崩さなかった。
「来ないのか?」
「行きたいけど、入口がない」
「作れよ」
「簡単に言うな」
軽口を返しながら、ユアンは地面へ目を落とした。右の端だけ土が盛り上がり、柵の近くは少し柔らかい。踏み込む位置を選べば、ロイドに身体の向きを変えさせられるかもしれない。
ユアンは右へ回ると見せ、いったん足を止めた。ロイドの槍先がこちらを追う。その動きを待ち、《瞬駆》で短く左前へ飛び込んだ。身体が風を切り、木剣がロイドの脇腹へ迫る。
届くと思った。
しかしロイドは慌てず半歩下がり、槍の中央で刃を受けた。剣に硬い衝撃が走る。こちらが着地した頃には相手の柄が回り、胸当てを軽く叩いていた。
「有効打」
サイルの声が響いた。
「今のは危なかったぞ」
ロイドは笑う。
「そっちが?」
「俺が」
「なら当たってほしかったな」
ユアンは息を整える。加速の瞬間は通じた。それなのに、その後の足が遅かった。靴が横滑りを抑えてくれた分、勢いを逃がすには膝と腰を使う必要がある。ガルドの言葉を何度も思い出す。
再開後、ユアンは加速をちらつかせながら距離を測った。ロイドも警戒したのか、槍先を大きく振らなくなる。ならば普通の足運びで入れるかもしれない。ユアンは1歩ずつ近づき、突きを剣で逸らした。
次の槍が来る。左前腕甲を傾け、柄を滑らせるように受ける。まともに止めれば肘を痛めるが、角度をつければ衝撃は逃がせる。ユアンは小さく踏み込み、木剣を振った。
ロイドはその剣を槍の柄で押し上げ、腰を引いた。踏み込みの深さも、柄の戻し方も正確だった。腕に残った衝撃より、何も考えずに同じことを繰り返せるほど鍛えられた技術が悔しい。
「もう1度」
ユアンが呟くと、ロイドが頷いた。
互いに動き、木の刃が何度もぶつかった。ユアンは槍先の位置を見ている。肩の向きも、踏み込む足も見えていた。だが、ロイドはそれを見られても崩れないように動く。ユアンが選べる手が少しずつ減っていった。
残り時間が短くなった時、ロイドが優勢のまま追撃へ出た。槍の柄を引ききる前に足が出る。ユアンはその左側が開いたことに気づいた。
今なら懐へ入れる。
そう思ったが、直前に受けた攻撃でユアンの重心は右へ流れていた。足を戻す間に槍先がこちらへ伸びる。木剣を上げた時には、すでに胸元へ届いていた。
「止め!」
サイルの声で動きを止める。判定はロイドの勝ちだった。
ユアンは剣を下げ、息を吐いた。もう少しだったという悔しさと、届かなかったという事実が胸に残る。考えた通りに動けた瞬間はあった。しかし、目の前の相手はその上を行った。
「ありがとうございました」
頭を下げると、ロイドも礼を返した。
「最後、俺もちょっと危なかった」
「追いすぎてたな」
「気づいてたのか?」
「見えた。でも動けなかった」
ロイドは少し驚き、それから苦笑した。
「去年も同じ失敗をしたんだよな」
サイルは記録板を持って2人へ近づいた。
「ロイド。槍の扱いは優秀だ。継続戦闘でも崩れなかった。ただし優勢になった後の追撃で、退く余地を自分から捨てた」
「はい」
「クロウ。地形を使い、加速も適切に選んだ。だが着地後の動きが遅い。見えた隙へ届かないなら、足と腰から鍛え直せ」
「はい」
「勝ち負けだけで採点はしない。今の指摘は野外でも忘れるな」
ユアンは頷いた。自分が知っているだけで通用する相手ではなかった。だが、自分が知らない部分を正確に示してもらえたのは、ありがたいことかもしれない。
休憩時間、ユアンは水場で手を洗っていた。木剣を握った掌には赤い跡が残り、肩には軽い疲れがある。負けたことを思い返すと、同じ場面ばかり頭に浮かんだ。槍先が戻る直前、左側が開いていた。ほんの少し身体が速ければ間に合ったのだろうか。いや、ロイドだってその後に別の動きをしたかもしれない。
「負けたの?」
背後から声がして振り向くと、シキナが立っていた。顎のあたりで揺れる黒髪に、灰黒色の静かな目。黒い軽装には街道の土がわずかに付いていた。
「見てたのか?」
「最後だけ」
「恥ずかしいところを見られたな」
「どうして?」
ユアンは言葉を探した。
「勝つところの方が格好いいだろ」
「私は、最後に何を見ていたのか気になった」
シキナはユアンの足元へ視線を落とす。
「相手が追いすぎたのは分かった?」
「分かった。でも届かなかった」
「なら、次に届くようにすればいい」
あまりに簡単に言うので、ユアンは笑った。
「ガルドみたいなこと言うな」
「彼も同じことを見たのかも」
「強いやつは皆そう考えるのか?」
「少なくとも、分かっただけで勝てるとは思わないわ」
慰めているのではない。足りない部分は足りないと言ってくれる。そのことが、今は少し嬉しかった。
「脚は平気?」
シキナが尋ねた。
「痛みはない。少し張ってるだけ」
「なら休んで」
「明日は結果を聞くだけだ」
「それでも」
ユアンは頷いた。彼女は小さく手を振り、組合の方へ歩き去った。自分が相手より弱いことを、シキナは最初から知っている。それでもこうして気にかけてくれるのだから、負けた姿を見られたくらいで落ち込むのもおかしい気がした。
シキナが去った後、ユアンはもう1度訓練場の方を見た。別の受験者たちが組み手をしている。距離を保つのがうまい者もいれば、攻めることに集中しすぎて足を止める者もいた。誰も自分と同じ癖ではない。それぞれが長く戦ってきた結果として、身体に残った動きがある。
ロイドの槍が上手いのは、槍が強い武器だからではない。柄を引く時に肘が浮かず、相手の剣が当たる直前でも穂先の線を作り直せるからだ。ユアンは水桶の中に映る自分の手を眺め、剣を構える真似をした。肩に力が入り、肘を動かすだけで身体が僅かに揺れる。ガルドに何度も注意されたことだった。
見えている欠点を直すだけなら、試験の結果を待たなくても始められる。ユアンはゆっくり足を踏み替え、歩幅を変えながら剣を振る動作だけを繰り返した。加速も魔法も使わない。地味な動きなのに、10回続ける頃には足の裏が熱くなった。
「試験の後に練習するの?」
振り返るとミレイが立っていた。淡い金髪を後ろに束ねた彼女は、弓を肩へ掛けている。
「負けたところを直したくて」
「ロイドさんの槍、速いですからね」
「見てたのか」
「少し。私なら懐へ入る前に距離を取りたいです」
「俺は近づかないと攻撃が届かない」
「同じ場面でも、武器が違えば答えが違うんですね」
ミレイは自分の弓弦を指で確かめた。
「私は近づかれた時に、弓を守ろうとしすぎるみたいです。試験官から、捨てる判断も必要だと言われました」
ユアンは頷いた。自分だけが武器や戦い方に悩んでいるわけではない。彼女もまた、昨日までのやり方を少し変えようとしている。
「野外で一緒になったら、俺が近くを守るよ」
「その時は、敵が来る前に知らせます」
互いにできることを交わしてから、ミレイは去っていった。ユアンは剣を握り直す。1人で勝つ技術と、仲間と生き残る技術は、きっと同じではない。
夕方、赤鹿亭へ戻るとノアが待っていた。
「どうだった?」
「ロイドに負けた」
「強かったか」
「ああ。俺の剣より槍を戻すのがずっと速い」
「なら次はその速さを覚えりゃいい」
「皆、簡単に言うな」
ノアは笑い、ユアンの前へ水を置いた。
「でもお前、落ち込んでる割には楽しそうだぞ」
ユアンは少し考えた。確かに、悔しいだけではなかった。自分にはまだ覚えることがある。それを知るのは嫌ではない。
足元ではルゥが肉を噛んでいた。
「槍の男は強かったな」
「そうだな」
「だが、俺たちも強くなれる」
「俺の練習に付き合うのか?」
「肉が出るならな」
ユアンは笑い、皿へ手を伸ばした。負けたことは消えない。それでも明日へ進めない理由にはならなかった。




